第60話 記憶の城


 ――女神暦1200年、4月21日、10時10分。


 その瞬間。

 王都にいる誰もが、愕然としたように空を見上げていた。


 人々の視線の先にあるのは――天空に浮かぶ壮大な白い城。

 地上にいる人々の体から本のページのような紙を吸い込んで、城はどんどん肥大化していく。


「……なによ、あれ」


「城、だよね……?」


「ど、どうなってるんですか……?」


 スカーレット邸にいるエルやラビリスやリズベルも、バルコニーから唖然としたように空を見上げていた。


 自分の体からこぼれ落ちていく紙が、天空の城へと吸い込まれていく。それにともない、自分の中にある記憶がどんどん白くかすんでいく。


「……ここはどこ?」「……私は誰?」「……なにをしていたんでしたっけ」「……ママー? パパー?」


 記憶のページを吐き出したメイドたちが、うつろになったように――白紙になったように立ちすくんでいた。

 年齢が低い者や、魔術耐性が低い者から、どんどん記憶喪失になっていく。


「くッ! 全員、屋敷に戻れ――ッ!」


「ダメです! 屋敷の中にいても記憶が……なんでしたっけ?」


「結界も遮蔽物も無視だと……!? そんな術式が……って、ああくそッ! なんの話をしていたのか思い出せんッ!」


 記憶のページをぽろぽろとこぼしながら、スカーレット公がうめく。

 魔術に優れた者たちが集まるスカーレット邸でもこれなのだ。

 街中の混乱はさらにすごいものだった。


 あまりにも非現実的な状況。

 こんな光景を作れるような存在を、ラビリスは一度だけ見たことがある。


「――――魔王」


 ふと、ラビリスの横で誰かがそう呟いた。

 横を見ると、そこにいたのは――銀髪の少女だ。


 この中で1人だけ体から記憶のページをこぼすことなく、ぞっとするような冷たい瞳で空を睨んでいる。


「……またも、運命の理から外れた誕生ね。やはり、クロム・クロノゲートが歴史に介入しているのかしら」


「……あなた、は」


 その少女は誰かに似ていた気がするけれど。

 ラビリスにはもう思い出せない。


 なにかを考えようとしても、考えている側から忘れていく。

 ちょっとしたことでも、どんどん思い出すのに時間がかかっていく。


(……まずい、このままじゃ……っ)


 自分もすぐに記憶喪失になってしまう。

 魔力操作に集中して、少しでもレジストしなければ。


 しかし、抗おうにも――抗い方を忘れてしまった。

 なんで抗おうとしていたのかも忘れてしまった。


(あ……)


 そこからは、一瞬だった。

 ラビリスは魔術を忘れた。ラビリスは剣を忘れた。ラビリスは戦い方を忘れた。ラビリスは今なにをしているのかを忘れた。ラビリスはしゃべり方を忘れた。ラビリスは歩き方を忘れた。ラビリスは立ち方を忘れた。


「……ゃ、やぁ……ゃぁぁ……」


 ラビリスは夢を忘れた。ラビリスは希望を忘れた。ラビリスは絶望を忘れた。ラビリスは愛を忘れた。ラビリスは勇気を忘れた。ラビリスは友情を忘れた。ラビリスは憎しみを忘れた。ラビリスは知識を忘れた。ラビリスは技術を忘れた。ラビリスは知性を忘れた。ラビリスは優しさを忘れた。ラビリスは喜びを忘れた。ラビリスは怒りを忘れた。ラビリスは悲しみを忘れた。ラビリスは楽しさを忘れた。


「……ぁ………………」


 ラビリスは家族を忘れた。ラビリスは友達を忘れた。ラビリスは今がいつなのかを忘れた。ラビリスはここがどこなのかを忘れた。ラビリスは自分が誰なのかを忘れた。

 そして、ラビリスは忘れたことを――忘れた。


(……あ)


 自分の体から記憶のページがばさばさと舞い上がり、空にある城へと吸い込まれていく。

 白紙になったラビリスは、その場にへなへなと崩れ落ちながら、それをただぼんやりと見つめていた。

 その紙がなんなのかを、ラビリスはもう思い出せない。


 紙も、風も、空も、屋敷も、街も、城も、人間も……。 

 目に映る全てが思い出せない。

 しかし――。


(……え?)


 突然――すぅぅぅ……と。

 宙に待っていた紙の一部が停止し、天空の城へと続く道が現れた。

 そのは白紙の道を、誰かが駆けのぼっている。

 ラビリスのその優れた視力は、その人影をとらえていた。


(……だれ、だろう)


 わからない。

 でも、見覚えがある気がする。

 白く塗りつぶされた記憶の中で、その少年のことだけは最後までかすかに残っていた。


 きっと、大切な人だったのだろうと思う。

 もう、ほとんど思い出せないけれど、彼を見ていると少しだけ温かい気持ちになる。


 どうしてか、あの少年なら……。

 この絶望的な状況もなんとかしてくれると信じることができた。

 ラビリスはふっと微笑むと、そのまま全ての記憶を失った――。



   ◇



(……あれは)


 メモリアによる攻撃がやみ、なんとか白紙から脱したところで。

 俺の目に入ってきたのは、王都中からページが空へと吸い上げられている光景だった。

 そのページたちが吸い上げられる先にあるのは――天空に浮かぶ白紙の城。


(――記憶の城、か)


 それは、前回の人生でも見たことがあるものだった。

 白紙の天使ロストメモリーによる魔法の迷宮。

 その迷宮の攻略難易度は――不明。

 帰ってきた者が、誰もその城を思い出すことができないからだ。


(……王都中の記憶ごと、俺の記憶も手に入れようということか)


 たしかに、それが安全かつ確実だ。

 はるか上空に浮遊している城にまでは、まともに魔術が届かない。

 そして、時魔術では空を飛べない。


 無差別広範囲の魔法ということもあってか、今はまだレジストできているが……。

 射程範囲外からひたすら記憶を吸い上げられていれば、いずれは記憶を失うのも時間の問題だろう。


(……メモリア)


 彼女はあの城の中にいるのだろう。

 本当に魔王になってしまったのだと、改めて実感する。


(……俺はまた、救えないのか?)


 前回の人生で、何度も何度も何度も見てきたような状況だ。

 俺はまた――失敗した。

 もしかしたら、メモリアを救おうとしたのが間違いだったのかもしれない。

 彼女を切り捨てることができれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。


 結局――優しいだけでは、救えないのだ。

 誰かを切り捨てる正しさがなければ、誰かを救うことはできないのだから。

 それでも――。


「…………」


 俺は瓦礫に埋もれた床から、メモリアのつけていた花冠を拾い上げる。


 ――綺麗なの。いい匂いなの。うれしいの

 ――みんな優しいの。ここには幸せな記憶がいっぱいなの。

 ――忘れたくないの。


 優しい少女だった。幸せになるべき少女だった。

 救いたいと思ってしまった。

 だから、愚かだとしても、間違いだとしても――。


「……あきらめて、たまるか」


 まだ、メモリアの魔王化から時間はそれほど経っていない。

 今すぐならメモリアの魔王化の解除はできるはずだ。

 奪われた王都の人々の記憶も、元に戻せるかもしれない。

 たとえ、それが分の悪い賭けだとしても――。


 ――


 俺の心がそう叫ぶ。

 そもそも簡単にあきらめられるなら、才能もないのに100年間もあがいたりはしない。

 過去に戻ってやり直そうなんて考えたりはしないのだ。


「…………」


 はるか上空にある記憶の城へと、俺は手を伸ばす。

 あそこにメモリアがいる。

 だけど、空を飛べない俺には、あの城へは手が届かない。

 ならば――道を作ればいい。


「……レジスト、解除」


 俺は記憶操作への抵抗を――やめた。

 ぱら、ぱらぱら、ぱらぱらぱらぱらぱら……っ! と。

 俺の体から記憶のページが舞い上がり、城へと吸い込まれていく。

 そのページに対して、俺は唱えた。


「――“時よ、止まれ”」


 すぅぅぅ……と。

 天空に浮かぶ城へと続くページの道が作られる。


 記憶をいくらか消費してしまったが……。

 俺には100年分の記憶があるのだ。

 多少失っても、俺は戦える。


「――今行くぞ、メモリア」


 そして、俺はページの道へと足をかけ、天空に浮かぶ城へと駆けだしたのだった――。

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