第11話 せんたく
次の週に、七津のお母さんから愛来に電話があった。放課後に病院に寄って欲しいということだった。
「何の話かはしてなかったんだよね。3人で聞いて欲しい、としか」
ひょっとして、入院が長引くのだろうか。心の中がざわざわとしているのを落ち着かせながら、私たちは七津のいる病院へ向かった。
病院ではお母さんが出迎えてくれて、七津の病室には行かないで、そのまま面談室という部屋に通された。
「今日は、呼び立ててごめんなさいね。ちょっと待ってね」
待っているとノックの音が聞こえ、前に病室で会った先生と看護師さんが入ってきた。
「じゃあお母さん、お話をお願いします」
先生に促され、お母さんが何か言いたそうな表情をしているが、涙で声になってない。
「先生・・、やっぱり、私には無理です。代わりにお願いします・・」
「そうですか、わかりました。ではお母さんの依頼があるのでお話ししますが、ここで聞いたことは他言無用です。友達の、大切なことだから」
胸騒ぎが止まらない。息も苦しくなってきた。もう普通の話ではないんだろう。
「茅野さんだけど、状態がなかなか良くならなくて、感染の恐れもあるから、自分の病室から出られないことは知っているね?」
「はい」
代表して愛来が話をすることに、事前に決めていた。
「実は、このまま病気が進むと、彼女には残された時間がわずかしかないんだ」
え?
「行動制限をしても病気が進行していくし、制限しないで外に出れば免疫が下がってやっぱりうまく行かない。この時間が大体同じになってきた」
どういうこと?先生が何を言っているか、全然わからない。
「こんな話を聞かせて申し訳ない。ご両親の方から、彼女が一番信頼しているみなさんにわかってもらいたい、みんなに説明するから間違ったことを伝えないように僕に立ち会って欲しいと言われたんだ。でも、やっぱりお母さんが話すには難しかったけどね」
目の前がぼやけて、何も見えなくなっていく。
「それで、今日これから、行動制限を解除しようと思うんだ」
「それは、どういうことですか」
愛来が、やっと聞き返した。
「もう自由に外に出ていい。家に帰ってもいい。病気自体が感染するわけではないから、学校に行ってもいい。あとはどれだけ体力が続くか、になる」
「七津は、七津はこのことを知っているんですか?」
「もちろん、本人には話してある。君たちに話をして欲しいというのは、彼女の希望なんだ」
「七津・・」
自分の中でどれだけの思いを巡らせて、私たちに伝えようと思ったんだろうか。
「彼女は皆さんのことをとても大切な存在だと思っている。だから、その時が来るまで、彼女と一緒の時間を作ってあげてくれないだろうか」
愛来と春陽も涙は堪えているが、今にも溢れそうな目をしていた。
こんなこと、がまんしなくていいのに。
「それは、もちろん・・」
「できたら、これを受け止めて、最後の時まで普通に接して欲しいんだ」
普通に接するって・・。
「泣いていても、笑っていても、同じ時間が過ぎる。残された時間を過ごすにはどっちがいいかって考えるんだ。この先の治療は、いかに今の状態でいる時間を伸ばすか、ゆっくりと進ませるか、ということになる」
「一つ聞いてもいいですか?」
「うん」
「あと、どのくらいの時間があるんですか?」
先生は、少しの間沈黙していた。
「それは、実際のところなんてわからないんだ。明日かもしれないし、1週間後かもしれないし、1ヶ月後かもしれない。ただ、そう長くないことは確かなんだ。数字を言うと、みんなそれに縛られてしまうから、今は言わない。1日1日、大切に思って、それを続けて行こう」
「本当にごめんなさい、みなさんにこんな辛い話を聞かせてしまって。でも七津が皆さんとのことをとても大切にしているから、つい甘えてしまって・・」
お母さんが泣きながら私たちを見て、話を続けてくる。
「七津は、あの調子だからまだピンときていないところもあるの。そりゃあ突然そんなこと言われても、なかなか受け入れられないわよね。だから、あまり深刻になっていないところがあるのよ。でも、夜一人になったらベッドの中で泣いているの。声を出さないで泣くのよ。もうそれを見ていられなくて・・。ごめんなさい」
もう、何も言葉にならない。
「お母さん、わかりました。私たちを頼ってくれて、うれしいです。びっくりしてまだ全部受け止め切れていないけれど、これからの時間、七津と楽しいことをしていきます。むしろ、私たちにお話ししてくれて、ありがとうございます」
しばらくして、愛来が、私たちの気持ちを話してくれた。
私はすでに、いや最初から、話すことなんかできなくなっていた。
「このあと、七津に、会っても、いいですか」
沈黙の時間があって、やっと言葉が出るようになった私は、先生とお母さんにお願いをした。
「制限は解除するからいいけど、君たちは大丈夫なのかい?」
「はい」
七津が決意しているなら、私も、私たちもそれに応えたい。
愛来と春陽を見ると、同じように思ってくれている。
「じゃあ、私と一緒に行きましょう」
お母さんが最初に部屋に入ってくれた。
「七津、皆さんが来てくれたわよ」
七津は車椅子の上に座っていて、窓を眺めていた。お母さんの声に振り返って、私たちと顔を合わせた。
「みんなー、来てくれたんだ!うれしい!」
ほんの少しだけ、一瞬だけど、表情を変えたのがわかった。目が赤い。
「七津!元気そうじゃん!」
愛来も、七津と同じ瞬間に、いつものキリッとした表情になった。
「なんかもう病室出てもいいんだって?」
「うん、そうなの。どこに行ってもいいって言われたの!」
「それはよかった。じゃあ、みんなでこれから何をしようか、計画を立てようか」
「そうね、入院中できなかったから、たくさんあるわよ」
「おいおい、欲張りだなー、七津は。一つずつ、やっていこうよ」
「そうね。試験も近いから勉強もしなきゃね」
え、この状況で勉強も必要なの?
「学生の本分は勉強ですからね、エッヘン!」
そうだ、普通にするんだった。なかなか難しいな。
「七津のために、みんなで分担して授業のノートを取ってるから、いつ戻ってきてもバッチリよ!」
「あ、そうか。ありがとう、みんな」
「だから、試験をスルッと通り抜けたら、またみんなで遊園地とか行きましょう!」
「七津はどこか行きたいところがあるの?」
「うーん、そうね、海を見に行きたいな」
海に行きたい、ですって?
それは、バスケを見学したときに、七津がこの世の最後にしたいと言ってたことよね?
「どうして、どうして?」
愛来が聞き返す。
「うーん、なんかもうあんまり行く機会がなくなっちゃうような気がして・・」
「それはダメ!」
「え?」
私の叫んだ声に、みんなが驚いて振り返った。
「どうしたの、二柚?」
「あ、いや、元気になって退院したら、海なんていつでも行けるでしょ。またみんなで新しい水着を買って、写真撮って貰えばいいんだから・・」
「うん。でも、こんな体型になったから、もう水着は無理かな・・。二柚と、みんなと静かな海を見られればそれでいいよ」
「ダメよ!そんなことであきらめたら。七津は、脱いだらすっごいんだから!また体型戻して、世の中の男子に崇められる女神様にならなきゃダメ!」
なりふり構わず、大声で叫んでしまった。
「二柚、どうしたの?目が血走ってるよ」
「そうじゃないけど、いやそうでもいいから、海はまだダメ!だいたい、まだ冬で寒いわよ!」
「ずいぶん反対するなあ。じゃあ、しょうがないから別の場所を考えようか。あとはどこかあるの?」
「うーん、そうね、あとはいつもの女子高生の生活に戻れればいいかな。買い物行ったり、プリクラ撮ったり、ワックでおしゃべりしたり」
「それならすぐできるね。そうか、1ヶ月以上病室から出られなかったから、いつもの生活を取り戻すのがいいんだね」
「うん!それがいいわ。そのあと、また体力がついたらみんなで海に行ったり、遊園地に行ったり。あ、温泉も行きたいわね」
「おー、それはいいね!じゃあ、がんばって元気になろう!」
お互いに、結末はわかっているのに。
それを話してしまうと、この関係があっという間に壊れてしまうのをみんな知っているのに。
そこには誰も触れなかった。七津も、愛来も、春陽も。そして私も。
もうこのままゆっくりと、終わりが来ないように進むしかない。
「学校にはいつ頃戻ってくるの?」
「うーん、明日の検査で先生がいいって言ってくれたら、明後日から行くわ」
「じゃあ退院も明日?」
少し、七津の顔に陰りが見られた。
「できたら退院はしないで、病院から学校に通おうかなと思ってるの」
「そんなことができるの?」
「うーん、先生がいいって言ってくれればできるみたい」
先生は、本人の希望を全面的に受け入れると言っていたから、きっとそうなるのだろう。
そして、家に戻ると困ることが起きるのだろう。日中、普通に生活することでどれだけ身体に負担がかかるのか。
七津は、家での安らかな時間より、私たちとの、ごく普通の日常を選んだのだ。
それにともなう苦痛も、すべて。
「じゃあ、勉強道具とか着替えとか、たくさん運ばなきゃだね。何か必要なものがあったら貸すから遠慮なく言ってね」
「ありがとう、春陽!それなら春陽に、ずっと一緒に泊まってもらおうかな」
「えー、それはどうかなー。だって、病院食って味気ないんだもん。量も少ないし」
「春陽ならどこかで隠れて出前を取っていそうね」
「うんうん、そして看護師さんに怒られている姿が目に浮かぶよ」
「あはは」
いろいろあーでもない、こーでもないと話をしているうちに、七津が少し疲れを見せ始めた。
「それじゃあ、私たち今日はそろそろ帰るね。これからまた楽しくなるね!」
「うん、今日は本当にありがとう。いくらお礼を言っても足りないわ」
「うん、またね」
翌日検査が終わり、次の日から七津が学校に復帰することになった。朝、私たちが病院に七津を迎えに行くと、学校から小雪先生が来ていた。
すでに前日から、いろんなことをお母さんや主治医の先生と話し合ったらしい。
「まあ、みなさんおはようございます。みんな迎えに来てくれたのね」
「はい、長く休んでいたので一人だと行きにくいかなと思って」
「なんて皆さん、お友達思いなんでしょうね。先生も、何だか、うれしくなるわ」
先生の目がうるうるしていた。先生、ここはこらえて下さいね。七津の前では。
「だいぶ調子がよくなったの。みんな、ありがとうね」
制服を着た七津がそこにいた。かなりやつれたのか、制服のサイズが合っていない。
今までの七津なら考えられないことだ。
「なんか痩せちゃったから、制服大きいわ。直さなきゃ」
「うん、私もそう思ったよ。七津が恥ずかしがると思って、言わなかったけどさ!」
「えー、知ってたんなら、言ってくれればいいのに。二柚の意地悪!」
「えへへ」
「さあ、そろそろ出発しないとホームルームに遅れるわよ」
「七津、もし疲れたり、具合悪くなったり、なんかあったら遠慮なく言ってね」
「うん、ありがとう。ケーキとかジュースとかもお願いするわね」
「私はパシリじゃないの!」
「あはは、みんなが一緒で、楽しいわ」
前の、みんなでいた時間が戻ってきた。
いつまで引き伸ばせるのかは、わからないが。
授業中は、同じクラスの春陽がそばにいる。学校も、担任を含めて、万全の体制を取っていてくれている。
「七津はお弁当どうしたの?」
「お母さんが家で作ってくれて、それを朝、病院まで届けてくれたの」
「そうなんだ、うらやましい!」
お昼休みになり、お弁当を食べている間に、小声で春陽に午前中の様子を聞いた。
「特に変わったことはなかったわよ。先生に当てられて、笑って答えていたし」
「そう、よかった・・」
「あんまり監視みたくなっても嫌だしね。でも何かあったらすぐ連絡するから」
「ありがとう、春陽」
「二柚、七津が帰りにプリ撮りたいって。ショッピングセンターに行けばなんでもあるよね?」
「あー、いいなそれ!一緒に撮ろう!」
「じゃあ放課後、玄関に集合ってことで」
「はーい」
それから私たちは、ショッピングセンターに行ってプリクラを撮ったり、クレーンゲームで七津の好きなぬいぐるみを狙ったりして遊んだ。
そしてパフェを食べに行って、顔にクリームをつけ合って大笑いして、七津を病院まで送っていった。
そのあとは、近くにあった愛来の家にみんなで寄った。
愛来の部屋に入るなり、誰も何も言わず、ただ大声で泣き出した。
七津と会っている時間に続けていたがまんを、ここで吐き出すように、3人で泣き続けた。
愛来のお母さんには事前に話はしてあったが、それでも長い間泣き続ける娘たちを心配して、時々声をかけてきてくれた。
愛来が、大丈夫だから、と泣きながら返事をすると、それ以上は何も言ってこなかった。
それが1時間くらい続いたら、誰かが合図したわけでもないのに、みんな同じタイミングで泣き止んた。
「明日も、がんばろう、ね?」
こんな日が3日続いた。
その次の日は、七津に疲れた様子が見られたため、主治医の判断で学校を休ませることになった。七津は行くと言って聞かなかったらしいが、明日もあるからと私たちにも言い聞かされて、やむなくあきらめた。
その代わり、4人でグループ通話をした。
「今日は残念だったねー。でもまた明日会えるからね。こうやって顔も見られるし」
「そうなんだけど、やっぱり実際に会うのがいいなあ。なんか、匂いとか、雰囲気とか、目に見えないけど伝わるものがたくさんあるような気がするの。画面だと、それがわからないのよ」
「あー、それ、わかる!なんか物足りないんだよね、動画での会話って。これ、恋人同士なら関係悪くなるんじゃない?」
「恋人じゃなくても、なんか深い話になりにくいよね」
今なら深い話にならなくて、その方がいいのかも。
でもできるなら直接会いたい。七津に触れて、その温かさを感じたい。
「明日は何をする?」
「うーん、そうだなあ。私、やっぱり海に行っておきたいかなあ」
みんな息を止める。
そろそろ私たちも、受け入れなければならない時なのだろうか。もう少し、ゆっくりと時間が進んで欲しかったけれど。
「七津は頑固だからなあ。やるって言ったら、やるもんね」
「だって、後悔なんてしたくないもの。そんなジンクス、吹き飛ばせばいいのよ」
「そうだけど・・」
「死んだら後悔なんてしないのよ。無になるだけなんだから。だから、生きている間にしなきゃ」
「七津・・」
「もうみんなわかってるんでしょ。私だってその覚悟があるし。でもね、私はまだみんなと一緒にいたいの。生きて、学校帰りにいろんなところに行って、みんなで話をしたり、遊んだり、勉強したりしたいの」
画面に映る七津は、涙を堪えて自分に言い聞かせているように見えた。
「だから、このまま終わってしまうなんて嫌なの。私はまだやりたいことがたくさんあるんだから。明日も明後日も、いろんなことに付き合ってよね。それで終わっても、私は幸せよ。やりたいことに向かって行ったんだから。ただベッドの上で終わりを待っているなんて嫌だもの」
「七津は、それで幸せになれるのね」
「うん。何が幸せなんて人と比べるものじゃないもの。みんなと、いつものことを、一緒に何かをするということが、今は一番幸せよ」
七津が、ここまでしっかりと覚悟を決めているのなら。
「わかったよ。明日天気が良くなって暖かかったら、みんなで海に行こう。夏に行ったところでいいよね。まだ寒いから海には入れないけど、一緒に海が見られればいいんだよね?」
「うん」
「こうなったら、とことん七津のやりたいことをやろうよ!」
「私たちだって、覚悟決めてるんだからね!」
「ありがとう、愛来、春陽」
それから明日の準備をするのに、いろいろな人に連絡をして、お願いをした。
手間はかかったが、どこからもダメだとは言われることがなかった。4人とも学校は休むことにしたが、小雪先生も応援してくれた。
病院からは、先生と看護師さんから、注意事項と緊急連絡先と対処の方法、その他必要なことがタブレットに送信されてきた。
みんな、七津のために、私たちのために応援してくれている。その気持ちが私たちの安心感につながっていた。
いつ、どうなるかわからない友達を連れて、電動車椅子に乗った女子高生4人だけで、海に行こうとしているのだ。客観的に考えれば、どうして誰も反対したり、行くのをやめさせたりしないのだろうか、不思議だった。
あの心配性の母でさえ、楽しんでらっしゃい、と一言言っただけだった。
これも、七津の生きたいという気持ちが、みんなをそう思わせているのだろう。
生きているということは、本当に不思議なことだと思った。
その日は朝から慌ただしかった。
事前に準備したものを、私の車椅子のパケットに詰め込み、車椅子とスマホやタブレットの充電を確認し、移動のスケジュールを何度も見直した。
「準備O K?なんか遠足行くみたいだよね」
「4人の遠足だよ。忘れ物しないでね。七津、下着持った?」
「もう、言わないでよー、それ!今日は必要ないでしょ!」
「みんなも、はしゃぎすぎてあんまり疲れないようにしようね。帰るまでが遠足だからね」
「はいはい」
七津も調子は良さそうだ。もう一度、看護師さんから緊急時の要点を確認してもらい、4台で病院を後にした。
七津のお母さんと小雪先生、それから出発直前に、主治医の先生が見送りに来てくれた。
「快晴ではないけど、日差しが弱くてかえって楽よね」
「うん、日に焼け過ぎないからちょうどいいかも。寒くもなく、暑くもなく」
「七津は、暑くない?」
寒くなってはいけないと、お母さんと看護師さんが七津に重ね着をしてくれた。後で脱げばいいからと言うものの、すでにミノムシの状態になっていた。
「うん、暑くはないけど、重い」
「電車に乗ったら、脱がせてあげるからね」
「お願いね」
もう朝のラッシュの時間は過ぎているので、駅前も人通りは落ち着いてきていた。
「なんかワクワクするねー、またみんなで海に行けるなんて」
元気になったら、あと何回でも行けるのに。
七津だけが、はしゃいだ顔をして笑っている。
「そうだね、今度は新しい水着を買って、夏に来ようね」
「二柚は、新しい水着なんかいらないって言ってたじゃない」
「あー、そうだっけ。うん、そうかな」
本当は水着なんか苦手だよ。でも、七津がそう言うんなら。
だって、そう言って希望を引き延ばさないと。
「私だって、女の子ですから、似合う水着なら欲しいです」
「おー、二柚でもそんなこと言うんだ!じゃあ今度私とおそろいにしよう!」
七津と水着のおそろいは、さすがに何があっても無理だよ・・。
愛来と春陽は、私たちの会話を黙って聞きながら、笑顔で私たちを見ていた。
快速電車が来て、4台で乗り込んだ。事前に駅員さんに相談していたので、今日は4台とも同じ車両に乗せてもらった。
電車が動き出して安定走行になったあたりで、七津の服を少し脱がせて軽くしようとした。
「七津、そろそろ上着脱ごうか?重いでしょ」
「うん・・」
その時、七津の呼吸が、荒くなっていることに気がついた。
「七津・・、たくさん着て苦しかった?暑いの?」
「うん・・、ちょっと寒い・・。でも、大丈夫、だから」
顔を見ると、汗が大量に出ている。返事も弱々しい。さっきまでの様子と全く違う。手を取ると、脈も速い。
「七津!」
たちまち七津の顔色が悪くなっていった。
あわてて、看護師さんから送られていた緊急時マニュアルを開いた。
あった。
―呼吸が不規則になってきたら引き返すこと。救急車を呼んで構わない。病院で先生が待機しているので、救急隊にそう告げること。
「愛来、車掌さんに伝えて!救急車を呼んでって!」
「うん、わかった、行ってくる」
「車両の端に連絡ボタンがあるから、それを押して!」
「うん」
「七津、大丈夫だからね。私たちがいるから」
春陽が、七津の手を握って声をかける。目をつぶって返事はないが、うなずいている。
「どうしました?」
到着した車掌さんに、愛来が救急車を呼んで欲しいと話している。春陽も愛来を手伝って、看護師さんが送ってくれた画面を見せて、事情を説明している。
「わかりました。次の駅で臨時停車します。そこに救急車を呼んでおきます」
「ありがとうございます!よろしくお願いします!」
七津は私の身体にもたれて、腕の中で抱き抱えられるようにしている。
「二柚・・」
七津は、消え入るような声で私の名前を呼んでくれた。
私は、できるだけ落ち着いて聞こえるように返事をした。
「なあに、七津。私はここにいるよ」
「ごめんね、急に具合が悪くなって・・」
「何言ってるの!こんなの想定の範囲内よ」
「でも、みんなに迷惑かけちゃった。私が海を見たいなんて言ったから・・」
「七津の頼みだもの。海でも月でも、どこでも一緒に行くわよ」
七津の呼吸が、また速くなってきた。
「七津、無理して話さなくていいから」
「でも、今、話さなきゃ、もう・・」
「そんなこと言わないで。また調子が良くなったら、一晩中寝ないでおしゃべりしてあげるから。七津の好きな人の話を、いっぱい聞いてあげるから!」
「私の好きな人は、二柚だもの」
え。
「二柚の、好きな人も、聞きたいなあ・・」
私は、あなたを好きなのよ。
「わかったから。元気になったら教えてあげる」
「えー、今、聞きたいなあ・・」
言ってしまったら、これで終わってしまうんじゃないだろうか。
そう思うと、言えなかった。
「なんかー、海まで、行けないねー。ごめんねー、みんなー」
「七津、もう話さなくていいから!ずっと手を握っているからね!」
「海、見に行くのは、最後にー、と思ってたけど、行けなかったねー」
そうだ。
だから、これで最後じゃないから。
「残念だけど、残念じゃないねー」
「七津、また行こう!元気になって、必ず行こう!まだやりたいことが、たくさんあるんでしょう!」
「うんー、そうだねー、もうちょっとー、がんばるよー。まだやりたいことー、たくさんー、あるもんー」
「約束よ!七津!」
「うんー、ふゆとー、いっしょにー、いたいー、もんー」
それきり、七津が目を閉じて話さなくなった。
呼吸はどんどん速くなっている。
「七津!嫌ー!こっちを見て!」
もう七津には声が届かない。私の思いは行く場所がなくなって、消えてしまう。
この思いは、届けたい。一方通行なんて、嫌!
私は、自分の意識が遠くなっていくのを感じ、その瞬間、泣きながら七津にキスをしていた。
愛来がこっちを見て一瞬躊躇していたが、私に叫んだ。
「二柚!もうすぐ駅に着くって!七津の準備をして!」
愛来の声で、身体がびくん、と反応した。
いけない、しっかりしなきゃ!
「わかった!」
「ただいま、車内で体調の優れないお客様がいらっしゃるため、この電車は次の駅に臨時停車をいたします。お急ぎのところ、お客様の救護活動のため若干の停車をいたしますが、どうぞご理解の程よろしくお願いいたします」
車内アナウンスがあり、近くにいた乗客が心配して、私たちに声をかけてくれている。みんな、何か手伝えることがあれば言ってと、優しい眼差しで私たちを見てくれる。
全てを投げ出して泣き出しそうになったが、今じゃない。
まだだ。
電車が駅に停車してからのことは、ぼんやりとしていて、あまり覚えていない。
場面場面が、写真のように切り取られて、目に焼き付いているだけだ。
救急車が来て、七津が運ばれて、私も一緒に乗り込んだこと。
病院に着くと、先生や看護師さんが待っていて、そのあと処置室のドアが閉まったこと。
あとのことは、何も覚えていない。
あれ、愛来と春陽はどうしたんだろう?七津は?
「二柚!起きたの?」
気がつくと、母の声が聞こえた。
「あー、よかった、やっと起きたわね」
「お母さん・・」
「あなた、丸一日、眠っていたわよ。もうこのまま起きないんじゃないかと思って心配したわよ。まあ、おなかが空いたら起きると思っていたけど」
「何それ。ここは?家よね?」
「家よ」
「あれ、なんか、あんまり覚えてない・・」
「無理に思い出さなくていいんじゃないの?普段使わない頭と身体を使ったから、悲鳴を上げているのよ」
「あ、今なんとなくバカにされたような」
「あら、わかっちゃった?」
「ところで、みんなはどうしたかな?」
「それも覚えていないの?」
「うん・・」
「それは結構重症ね。まだ夕方だから電話でもしてみたら?」
「あー、うん。それで・・」
「みなさん、お元気よ。七津さんも回復したわ」
本当?
それを聞いた途端、私は母の前で、わんわんと泣き出してしまった。
「よくがんばったね、二柚」
「うん」
「あらあら、まだまだ子どもね。でも安心したわ。泣き止んだら電話しなさいよ」
母は、泣いている私を一人部屋に置いて、出て行ってしまった。
部屋から出ていく前に、母の目が光っていたのが見えた。
落ち着いたところで、七津に連絡をしようと思ったが、先に愛来と春陽にメッセージをした。
母はそう言ったものの、七津がどうなっているのかわからず、やっぱり怖かった。
「はい、二柚!起きたの?ずっと寝てるって聞いたから」
「愛来、おはよう・・。なんとかね」
「あ、二柚だ!回復したかな」
「もう少し・・。回復ポーション持っていたら、分けてよ」
「まあ、大活躍だったもんね」
私、何をしたんだろう・・。
「あのね、私、あんまり覚えてないの。何か悪いこと、した?」
「あはは、悪いことねえ・・。ここは脅かして言うことを聞かせる場面かな」
「そうだねえ、愛来、やっちゃえ!」
「何よう、それ」
「明日、一緒に七津に会いにいく?」
よかった、本当に元気なんだ。
「七津、元気なんだよね?」
「えー、そこから?」
「そこから。お願い、教えて」
「あんまり素直だから、いじめ甲斐がないわね。七津は大丈夫よ。前より元気になっているわ」
ふぇー?
「なんかよくわかんないけど、先生が言うには、あのあと急速に免疫の数値も回復して、普通に外に出られる状態に近づいてきてるんですって。もう少しで、本当に退院できるみたいよ」
「えー!何それ!」
「うん、奇跡みたいだってお医者さんが言ってるんだから、奇跡なんじゃないの?」
「奇跡って・・」
「先生が言ってたけど、生きたいって気持ちが強くなると、不思議に免疫が上がることがあるんですって。あとよく笑う時も。だから、七津はああなってから自分がやりたいことをやって、私たちと笑っていたでしょう?それがよかったのかもなあと言っていたわよ」
「笑ってたって・・」
「どこまで本当かわかんないけどね。でもそれが理由だったら、うれしいよね。私たちの努力が報われたってことでしょ」
確かに、もうあの時は、心がギリギリのところにいた。私の方が先に根を上げそうだった。
そうしないで留まれたのは、愛来と春陽が一緒にいたからだった。
そういえば、以前車椅子バスケの監督さんが話していたのも、そのような意味だったんだろう。最後に好きなことをやれたことがよかったんじゃないかって。
それをやってしまったら最後が来る、と言う意味ではなかったんだ。
誤解してたんだ、私。
「七津も呼ぶ?グループ通話だから入ってもらえるよ?」
「うん、話したい」
春陽が七津を呼び出してくれている。
「はーい、あ、二柚、起きたの?」
本物の七津だ。
まだほっそりとしてるけど、前よりずっと、輝いている。
「あ、うん、はい、そうです」
「何、照れてるの?私、元気になったよ。みんなのおかげで。ありがとう」
あれ、なんで私。照れてるんだろう?
「よかった、本当に元気になったんだね」
「うん、もう少ししたら退院できるって」
「本当によかった」
「そりゃあ、王子様のキスで、お姫様は目が覚めることになっているわな。ふふふ」
「王子様のキスって・・?あ!」
思い出したぁ・・。
顔が、かあーって音を立てて赤く染まるのがわかった。
奇跡なんて信じない。
そんな、受け身で何かが変わるなんて、私は思っていない。
これは、みんな自分でできる精一杯のことをした結果なんだ。
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