後編

 男とその妻の間には一人の子供が生まれた。

 子供は娘だそうだ。一度目の報告で、まだふやふやとしていて目を離すとどこかに行ってしまいそうで怖いと言っていた。


 二度目の報告では既に目に入れても痛くないような可愛がり方をしているらしいと、その言葉の端々から感じられた。


 子供が生まれて数回、男は少女のもとに来る度に、子供がいかに可愛いかという話をしていく。来る頻度はこれまでより減ったものの、男は祠を訪れるのをやめはしなかった。既に習慣と化した行動で、その足は自然と少女の元にやってくるらしい。


 男がやってくると、少女の心情を映したように、桃色の花が数を増やす。口下手な少女の心を伝えようとするかのように。


「毎回毎回、よう飽きんもんだな」

「飽きるって何でさ」

「端から見たら寂れた祠だろうに」

「そりゃ、君がいるからだよ。ここに話しに来るのはもう子供の頃からの習慣だからね。やめられるものじゃないよ」

「そういうものか」

「それに、約束したじゃないか。土産話を持ってくるって」

「……。それは、大福はいらないと言うことだったんだがな……」

「え?」

「いや、何でもない」


 供え物の代わりに土産話を強請る神様か。


 自分という存在は、その約束事の上に成り立っている。

 そういう話を律儀に覚えて行動していたらしい。妖にとってはほんの少しの時間に過ぎないが、人間に取っての数十年は長い時間だろうに。

 妖との約束を覚えていて、実行している人間はこいつぐらいに違いないと、少女は思った。


「よく思うんだけどさ、君は僕にとって神様みたいな存在だから。ここは安心する」

「神様みたい、か」


 少女にとっても、男は特別だった。彼の目に映ったその日から、少女の退屈は遠のいたのだから。


 健やかに生きて欲しいと願うのは、妖の願望か、自分の生まれたての神様としての庇護欲かどちらだろうか。

 少女は小さな手を見つめた。



 男の顔は沈んでいた。娘が生まれてから五年が経った、春真っ盛りの事だった。

 娘が風邪を引いたという話が一番始めだったように思う。二、三日でよくなるだろうと思っていた予測は外れ、一週間、一ヶ月と延びた。つい数日前からは熱が下がらなくなったという。


「お医者さんに来てもらった。息がとても苦しそうなんだ。医者が言うには、夏は迎えられないだろうって」


 男は始めて少女の前で涙を見せた。この男はいつも明るく、涙を見せることはなかったのに。

 男には笑っていて欲しいと思う。あの日向のような笑顔が似合っている。夕暮れの中にありながら、ひまわりのように大輪の花みたいな笑顔だ。

 でも、妖は男の憂いをとる方法を知らない。病で亡くなる人間はごまんと居る。それが人の定めであるとすら思っていた。

 だが、どうにも男の涙が気に掛かる。その成長を見守ってきた人間故に。


「ごめん、花の妖である君にはどうしようもできないことはわかっているんだ。でも、少しでも、誰かに聞いて欲しかった」


 男は目から滴をこぼしながらも微笑む。自分の中にある勇気を、振り絞ろうとするかのように。この場所で弱音を吐くことで、家に戻ったとき、家族を支えられる自分になれるように。

 そんな意図が、少女には感じられた。

 人の健気さと強さを、男は持っていた。


「解せぬな……」


 少女は小さな声でつぶやいた。小さすぎて、男には聞こえなかったようだが、それでいい。


 少女は怒っていた。

 さんざん神様扱いした人間は、少女の事を妖だと言った。

 確かに力も持たぬただの妖だった。


 でも少女は彼に「神様」だと言ってもらう事が嫌ではなかったのだ。本当の神になっても自覚のなかった心が震えている。

 私はお前の神様なのだろう、と。

 少女は祠の石段から降りると、男の前に歩を進めた。地面に膝をつく男と目線が丁度同じくらいになる。


「顔を上げ、私の目を見よ」


 突然の少女の行動に驚いたのか、男は目を丸くする。


「問いには真実の返答しか認めぬ」


 男はおずおずと頷いた。

 少女はその頬を量の手で挟んで問う。


「……お前は娘に生きて欲しいのだな」

「そうだ」

「その病を、取り去って欲しいのだな」

「そうだよ」


 その答えを聞きたかったのだ。

 少女は微笑んだ。無表情を貼り付けていた口角が、自然と持ち上がったのを感じた。


「……お前の願い聞き届けた。私は、お前の神様だからな」


 少女はその左手を男に差し出す。昔は男と同じくらいの大きさだったのに、男の方がずいぶんと大きくなってしまった。

 人間は成長するものだ。その心も同様に。妖の心はそうではないと思っていたのに。こんなにも動かされてしまうのは、妖も成長できるということの表れなのだろうか。


 差し出した左の手のひらに一輪の花が咲いた。桃色の小さな花だ。それは、一輪二輪と数を増やしていく。

 これは、男を助けたいと思う妖の心だ。


「これを、その子供にもっていけ」


 男は震える手をその下に差し出すと、小さな手からあふれ続ける花を受け止めた。


「ありがとう、本当に」


 男の目からはまた涙があふれた。ゆっくりと立ち上がると、一度深く頭を下げて祠の前から立ち去る。その足取りは、早く娘の元へ戻らなければという気持ちで急いていた。


「感謝などいらぬ、私はただお前の願いを叶えたかっただけだ」


 少女はその背に向けて独白をこぼす。誰にもすくい取られない言葉は、巨木の翁だけがまどろみの中で聞いていた。

 少女の指先は、ゆっくりとその色をなくして、最後には空気に消えてしまった。

 


 数日後、男は彼女への礼を携えて祠に報告にやって来た。着物が汚れることもいとわず、祠の前に膝をついて、花の妖の姿を探す。

 視線をさまよわせながら、彼は言った。


「お医者様が奇跡だって言ってたんだ。あの子は生きられるそうだ。君のおかげだよ。ありがとう」


 誰にも受け止められない感謝の言葉は、木々のざわめきの中に消えてしまう。いくら男が辺りを見渡そうとも、いつもその場所にいた少女は姿を現すことはなかった。

 それと同時に気付いてしまう。祠を彩っていた桃色の花が、一輪も咲いていないことに。


「……っ」


 喜びを共有して欲しかった存在は、もうここにはいないのだと、男は悟ったのだ。


 祠の前で一人涙を流す男の姿を、梢の隙間から一羽のカラスが覗いていた。


「気をつけろって言ったのに、不相応な力なんて使いやがって。どう思うよ、翁」


 林の中で静かにまどろむ巨木は、葉のさざめきのように小さな声でつぶやいた。


「人が願えば、また会える。彼の信じた神故に」

「そうだといいけどよ」


 そう返事をするカラスの声音は、少し寂しさを滲ませていた。


「次会えるのはいつになるかね」


カラスはそう、祠に語り掛け、夕暮れに姿を消した。



 数十年が経ったが、祠は相変わらずひっそりとそこにあった。定期的に人の手が加わるためか、その周りは綺麗に草が刈られている。集落から続く小道も、祠の前の空き地も、昔からそれほど変わらないように見える。


 季節は春、夕暮れの頃。小道をたどって老年の男が一人、その空き地にやってきた。

 祠を視界に入れると、何かを見つけてしゃがみ込む。

 皺の刻まれた頬に、笑みが宿り、透明の滴が落ちていった。


「おかえり」


 小さな桃色の花が、そこには咲いていた。


「ひさしいな」


 花の妖だった神様は、そう言った。

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祠の隣には花が咲いている 桐坂 @Kirisaka

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