テンポルバードの旋律

「先生おはようございます」


 インターフォン越しの明るい笑顔を見て、神田は心を弾ませながらドアを開いた。黒田の隣には、俯き加減で申し訳なさそうに長身の青年、誠也が立っていた。大きなリュックを背負い、前回訪問した時よりもラフな格好で立っている。黒田が黒を基調とした服装を好むためか、同じ年頃なのに誠也の方が随分と清潔感があり垢ぬけて見える。


「君は誠也君だったね」

「覚えていて頂き、光栄です。神田先生」

「先生、本日はお願いがあって参りました」


 深々と頭を下げる誠也の隣で、黒田が神田の骨ばったピアニストの手を握って目で強く、強く訴えかけた。黒田の百塩茶色の瞳がキラキラと輝いている。


「その前に、先日は大丈夫だったのかい?」


 ゴホンとワザとらしく咳をして浮足立つ二人を制すると、神田は先日の騒動を思い出していた。


「ああ、俺たちやっぱり家出してきました」

「俺、義兄さんと一緒に生活することになったんです」

「まずはその話をしなさい!」


 神田の腹から押し出された声量に驚いた二人は、同じタイミングで後ろにひっくり返り、腰を抜かした。



 神田の家を出て黒田家に着いた頃、辺りにはもう夜の帳が下りていた。田舎の空は暗く、小さな星が空高くで煌めいている。

 今煌めいている星は、一番遠くの星だと何万光年も離れているのだという。この星で現在見えている惑星も実は何万光年の旅の途中に亡くなり、光だけが届いている場合もあるのだ。黒田はじっと自分の両手を見詰めた。何かを届けることを放棄した手だ。神田の手に比べると随分と大きく指が短い。よく同じ音が出せていたものだと我ながら感心していると、車は、ギッと音を立てて停車した。到着したらしい。

 見慣れた玄関ポーチを前にして黒田の体に緊張が走る。体を硬直させる黒田の脇が、肘で無遠慮にゴンッと突かれた。突かれた右脇を押さえながら隣を睨みつけると、巧はどこ吹く風で顔を背ける。相変わらずお節介で、世話焼きなのに、下手糞な奴だなと思いながら黒田は深呼吸をしてインターフォンを鳴らした。程なくして、ブロンドの髪を持つ美女が顔を覗かせる。当然ながら母ではない。


「セイジ。久しぶり、デスね」

「セーラさん、お久しぶりです」

「母さん、父さんは?」


 和やかにあいさつを交わす黒田とセーラと呼ばれた美女の間に割って入って、誠也はセーラに詰め寄った。セーラは廊下を眺めてにっこり微笑み、4人にだけ聞こえる様に囁いた。片言の日本語が愛らしい。


「ダイジョウブ。Dr曰く肺炎らしいデス。もう治りかけの」

「肺炎?危篤って聞いたけど」

「ナオコがキトクと言えば飛んでくると言ってました」


 巧の眉がぴくぴくと動くのを視界の隅で捉えながら、黒田はセーラに家に入れてもらうことにした。ナオコは巧と琢也の母親だ。黒田にとっては叔母に当たる。バリバリのキャリアウーマンであるが、同時に悪知恵も働く。巧が、母親と仲が悪いというのは周知の事実だった。

 通されたリビングにはソファに座った父の姿があった。呼吸は荒いが、酸素ボンベは必要ない程回復しているらしい。父の隣には先程名前が出たナオコと母が、父を挟むように座っていた。


「よく帰ってくる気になったな」

「呼び出しておいてなんだよ」

「呼び出し?何のことだ」


 首を傾げる父に対して隣に座ったナオコが「私が呼んだのよ」と鼻を鳴らした。


「巧と琢也を使ってね。誠也君も手伝ってくれてたのね。ありがとう」

「父さんが危篤で、母さんたちが家督争いで揉めてると聞いたので」

「なんだそれは。設定を盛りすぎだろう?!」

「いいじゃない。設定は盛ってる方が華やかなのよ」


 唐突に姉弟喧嘩を始める大人たちを琢也が「まぁまぁ」と宥めるのを見ながら、「俺は実際は何で呼ばれたんですか?」と黒田は尋ねた。周囲に静かな沈黙が流れる。巧の咳払いが部屋に響く。


「つまり何だ?俺たち従兄弟は母親の口車に乗せられたってことか?」

「まぁ、そうなるわね」


 「このアマァ」と叫び掴みかかろうとする巧を、黒田と誠也二人がかりで押し止める。家庭内暴力はこのタイミングでは非常に拙い。獰猛な虎のように唸り声をあげる巧が、母を庇う琢也に向かって罵詈雑言を投げつける。震えて耳を塞ぐ琢也の目には涙が浮かんでいる。それを耳ざとく聞いた母が「息子が母親になんてこと言うの!」と言葉を荒げた。これは考えていたより酷いことになりそうだ、と脳裏を最悪な事態が過るが、奥の扉が開く事で、全てが制圧された。時間が止まったように沈黙が部屋を支配する。その中で唯一動く扉がゆっくりと押し開けられ、白髪の老人が二人、連なって部屋に入ってきた。わずか数秒の事が、無限の時間のように感じながら皆老人たちから目が離せなかった。祖父母だ。


「何の騒ぎだ。何故誠二がここにいる」

「私が呼んだの」


 流れる沈黙を破り、ナオコが口を開いた。全員の射貫くような視線にも屈せず、まっすぐ背筋を伸ばし、凛と座っている。


「無断で家を出た誠二を呼び戻すためにね!」

「誠二の一人暮らしについては、私が許可を出した。大学の費用も私が援助している」

「そんなの聞いてない!」

「聞かれていないからな」


 鼻を鳴らし、右足で力強く地団駄を踏むナオコを無視して祖父は黒田の横に立ち「大丈夫か?」と黒田の身を案じた。その目はどこまでも慈愛に満ちている。喧騒としたリビングを抜け、4人で祖父の後ろをついて歩く。後ろで祖母が息子たちに特大の雷を落としているのを遠くの出来事のように聞き流しながら、黒田は隣を歩く誠也を見詰めた。ツンと高い鼻が、堀の深い顔が、睫毛に彩られた瞳が、憎かったことがないと言えば噓になるが、今は本当の兄弟だと思ってる。二分の一でも血は繋がっているのだ。百塩色の瞳がその証拠だろう。

 祖父母の部屋に続く引き戸が開かれ、招かれた四人は畳の間に散り散りに座った。祖父がゆっくりと使い古された座布団に座り「すまなかったな」と開口一番謝罪を述べた。祖父に謝られることなど何もないと頭を振る黒田に、祖父はよく通るバリトンボイスで「ハハハ」と笑った。


尚子なおこ正敏まさとしには後から私の方でしっかり叱っておく」


 正敏は父親の名前だ。


「ところで、お前たち……私からの提案なのだが」


 祖父は、近く寄れと四人を手招きし、小声である計画を話し始めた。まるで、秘密の計画を練るようなワクワク感に琢也の目が輝いている。リーンと外では小さな虫が鳴いていた。



「そういうわけで、俺と誠也二人でこの近くに引っ越してくることになりまして」

「俺も外に出たかったので……。丁度よかったです。母は少し、心配ですが」

「家の方は巧と祖父がテコ入れしてくれるらしいです。尚子おばさんは追い出されるんじゃないかな?」


 後ろめたそうにフローリングを見詰める誠也の膝に花子がでーんと乗っかるのを見て黒田は口角を上げた。


「先生にはご迷惑をおかけして、申し訳ございませんでした」

「いいんだよ。私のことは気にしないでくれ。所で先ほどのお願いとはなんだったんだい?」

「ああ、それなんですが……」


 口籠る黒田の後ろ、花子を抱きかかえた誠也が「お聞きしたいんです。先生の音楽を!」と声を上げた。どうやら弟の方が押しに強いらしい。


「そんなことならお安い御用だよ。でも、どうだろう。良ければ黒田君、私と連弾してみないか?」

「連弾、ですか?」

「そう、私も考えたんだよ。コンサートで受け入れられないなら時代の波に乗るしかないかな……ってね」

「時代の波?」


 神田の細い指が鍵盤を一つ一つを滑っていく。その動作は、花子を撫でる時と同じだ。慈しみを持ってピアノに接していることを感じて黒田の全身に鳥肌が立った。興奮する黒田を横目に見て、誠也は「なら僕に任せてください」とバックの中身を引っ張り出した。小さな小さなカメラが取り出し三脚に固定する。


「見せてやりましょう。今の先生と義兄さんを世界に」


 神田に差し出された手を掴み、黒田は大きく頷いた。


 当初の予定から大回りしてしまったが今、黒田はピアノを弾いている。お金を払って限られた人に決まった演目を聞かせる音楽ではない。

 自由で、大好きな音楽を、大切な人と隣通しで弾いている。夢の様な時間が流れていく。黒田と神田のはじける笑顔を画面いっぱいに映して誠也は「敵わないな」と笑った。

 外では夏の虫が大きな声で泣き叫んでいた。

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フォルテッシモの旋律 四十物茶々 @aimonochacha

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