メゾピアノの悪意

 芸術大学に行けば音楽から離れられると思っていたが、音楽学部があることを黒田は失念していた。耳障りな音の外れた旋律が、音楽室から零れ中庭に落ちてくる。


「下手くそめ」


 思わず口を突いて出た言葉を、耳ざとく聞いていたのであろうフルートを持った男が、「く・ろ・だくーん?」と蛇が絡まり着くような粘着質な声で囁き、肩に腕を回した。ピアニストにしては逞しい方に入る黒田より更に逞しく、色黒の指が頬を撫でる。


「言ってくれるじゃないか。じゃぁ、その天才的なピアノの才能見せてくれよ。黒田君」

「悪かった。俺が言い過ぎたから止めろ……柴田しばた


 柴田と呼ばれた男は残念そうに黒田から離れ、フルートに口を添えた。心地よい音が流れ、音楽室から漏れる半端な音をかき消していく。柴田のフルートは、流れる水のようにゆったりと優しく黒田を包む。「大丈夫」と言われているようで黒田はほっと胸を撫で下ろした。一曲吹き終えた柴田が黒田の隣に腰掛ける。


「本当にもうピアノは辞めたのか?俺は、もう一度お前の音を聞きたい」

「もう辞めたんだ」

「でも、お前。ピアノが好きじゃないか!」

「しつこいぞ!柴田!俺は、もう辞めたんだ!」


 黒田の大声で周囲が静まり返った。シンと冷たい沈黙が黒田の肌を刺す。「黒田!」と、しつこく食い下がる腕を払いのけ、大股でガツガツと彼から距離を取るように校舎に向かって歩き始めた黒田を、ただ茫然と柴田は見詰めていた。



 午後の講義を終え、黒田は大急ぎで帰路に就いた。今から走って帰れば神田の4時の定時コンサートに間に合う。急ぐ黒田の前に、男が三人立ち塞がった。黒田によく似た男たちは皆、親族だ。どこでこの学校に通っているという情報が漏れたのか、頭を捻ると柴田の顔が浮かんだ。小学生の頃は、同じピアノ教室に通っていたが、中学から吹奏楽部に入部し、ピアノからフルートに転向した奴だ。ことあるごとに、黒田のせいでピアノを辞めたと嘯いていた。


「誠二、ちょっと面貸せよ」

「悪いが俺は急いでるんだ。またにしてくれ」

「天才ピアニストがこんなところで腐ってるなんて、どうかしてるだろ!!いいから俺たちについて来いよ!」

「しつこいって言ってるだろ!!」


 街中で咆哮する黒田を左右から取り押さえるように男たちが囲むと、カシャカシャとスマートフォンのカメラのシャッターが落ちる音が響いた。野次馬が「喧嘩か?」と嬉しそうにレンズを向けている。狼狽える男たちの隙を突いて黒田は脇をすり抜け、大通りを走り抜けた。



 けたたましく鳴らされるインターフォンを受けて、神田はカメラを覗き込んだ。玄関前に酷く項垂れた黒田が佇んでいる。只事ではないと、大急ぎでドアを開き、彼を招き入れると崩れるように黒田は神田に縋りついた。神田より背の高い黒田が、ひどく震えて小さく見える。黒田の足元をクルクルと回る花子も随分と心配している様子で、尻尾が垂れ下がっていた。


「先生……先生っ……」

「大丈夫だよ。黒田君、ここには私と花子しか居ない。何かあったんだね?」

「家族に、大学がバレました。俺を連れ戻す気みたいです」

「……なっ」


 黒田を足元を回る花子を避けながらソファまで運び、神田はコーヒーを入れて続きを促した。同郷の人間が居たらしく、そこから両親にバレたのではないかということだった。黒田の桃塩茶色の瞳が涙に濡れている。神田は沸々と腹の底が煮えくり返るような怒りを覚えていた。


「酷い話だ」


 黒田のコーヒーに角砂糖を一粒溶かしてミルクを注ぎ、その両手に握らせる。包み込むようにカップを持つ黒田の、丸まった背中をゆっくりと撫でながら、神田は彼のアパートが見える窓に視線を向けた。男が数人、彼の部屋の前に立っているのを見て、神田はゆっくりとピアノへ向かった。

 4時を少し回った定時演奏会の音を聞き、男たちが騒めくのを視界の端に捉えながら神田は鍵盤を叩き続けた。グランドピアノから出ている音とは思えない重厚な音が部屋の壁、壁にぶつかって反響する。


「やっぱり先生の音楽は最高です」


 はらはらと流れる涙をハンカチで押さえつけながら、黒田は小さく肩を揺らしていた。窓の外に視線を向けると自分と黒田を見つけたらしい男たちが、指を指してなにやら喚いているが、強固な耐熱ガラスが音を遮断していて何やらパントマイムを見ているようだ。縺れる足を蹴り飛ばしながら走り出した彼らが、我が家のインターフォンを鳴らすのは時間の問題だろう。神田は、黒田の膝の上に花子を避難させることにした。神田の思いを汲んだ花子が、ぺろぺろと黒田の頬を舐めて慰める。

 間髪入れずにけたたましく鳴らされるインターフォンに飛び上がる黒田を押さえて「花子をよろしくね」と声をかけ、神田はゆっくりと玄関へ向かった。

 錠を下ろしドアを開けると身支度を整えた三人の男たちが「か、神田誠一郎先生ですね?」と声をかけてきた。


「それが何か?」

「黒田誠二が、お宅をお邪魔していると思うんですが、呼んでいただけますか?」

「彼は僕の大切な来客です。時間を改められてはいかがかな?」

「申し訳ございません。急用なものでして」

「要件は私が聞きましょう」


 ギョッとして顔を見合わせる三人は、神田と自分たちの顔を交互に見て「そうですね」と一番の年長者が口を開いた。年の頃は三十ぐらいだろうか。若いが苦労しているのだろう。黒々とした髪の中にぽつぽつと白髪が混じっている。


「先生に我が家の汚点を晒すのは、お恥ずかしいのですが……」

「当主が危篤なのです。誠二を呼び戻せと言われてきました」


 年長者が詳しく説明しようとした隣で、一番年下であろう少年が口を挟んだ。ごちんと拳を脳天に受けてふらふらよろける少年を支えたのは三人目の男。黒田に一番良く似た男だった。年の頃も同じぐらいだろう。黒田とよく似た百塩茶色の瞳がじっと神田を見詰めている。


がお世話をおかけして申し訳ございません。先生」

「義兄?」

「はい。俺と義兄は所謂腹違いでして」

「……続きは中で聞こうか」


 ゆっくりと黒田が待つダイニングへ三人を案内すると、誰よりも早く年長の男が「誠二、久しぶりだ」と笑った。


「おじい様に匿って貰っていたんだな」

「なんの用だ。先生まで巻き込んで」


 吐き捨てる様に床に言葉を零した黒田に食いつかん勢いで飛び掛かろうとする少年を年長者が服の襟をつかんで止める。随分と血気盛んらしい。バタバタと暴れながら、「巻き込んだのはお前だろ!」と叫び声をあげた。その声に反応した花子が「ワンッ」と大きな声で吠えグルルルと喉を鳴らして敵意を見せた。小さいのに勇猛果敢だ。


「落ち着きなさい。琢也たくや


 琢也と呼ばれた少年は不貞腐れたようにフローリングに座り込み、黒田を睨みつけている。


義兄にいさん」

「お前が来るなんで珍しいな、誠也せいや

「父さんが危篤です。母さんたちが家督と遺産の争いで揉めてる。纏められるのは兄さんしかいません。俺は妾の子。兄さんと違ってピアノが弾けない。そんな奴は黒田家に相応しくない」

「何言ってんだ。お医者様候補が自虐すんなよ。……それに俺はもう、ピアノは辞めたんだ」


 ふいっと誠也と呼ばれた青年に背を向ける黒田の肩を持って「黒田君はピアノ、辞めてないよ」と神田は笑った。ぎょっとした顔で神田を見る一同に神田は「だって、ずっと私のピアノのリズムを刻んていたじゃないか。君は音楽を諦めてない。ピアノは君を嫌っては居ないよ」と肩を叩いた。


「でも俺は……」

「君が嫌いなのは、実家の重圧というものを背負ったピアノだろう?私のピアノ、弾いてみなさい」


 ゆっくりと黒田をピアノの前に導き、鍵盤蓋を引き上げ、神田は「ほら、触ってみて」と黒田の手を鍵盤へと導いた。伸ばされた人差し指がゆっくりと白鍵を押し、ポーンと軽快な音を立ててピアノ線がハンマーに叩かれた。


「どうだい!ほら!弾けるだろう!」


 振り返って、指揮者のように両の手を広げる神田に三人は顔を見合わせて苦笑を零す。


「先生、無理ですよ。ソイツ腰抜けなんです」


 琢也の言葉が、言い終わるか終わらないかのタイミングで、ピアノの鍵盤がハチャメチャに叩かれだした。旋律も何もない子供が鍵盤を叩き回す様な不快感に、思わず耳を塞ぐ三人に背を向けて「そう、それが君の心の叫びなんだね」と神田は黒田に拍手を送った。涙を浮かべながら、黒田はピアノの鍵盤を叩き続ける。「もう辞めろ!」という琢也の言葉は次々叩き出されるピアノの音にかき消された。



 金属バットでしこたま頭を殴られた後の様な不快感にトイレに駆け出した琢也を見送って、誠也はピアノの前で肩を上下させる黒田の背に向かって声をかけようと口を開いたが「失望した」という年長者の言葉で、誠也の言葉は、全て喉の奥に引っかかってしまった。口をパクパクと動かすだけで、音を出せなくなった誠也を慰めるように肩を叩いて、黒田は口角を上げた。


「クラシックでもない。ジャズでもない。ただ、出鱈目にピアノの鍵盤を叩いただけだ!これは最早、暴力以外の何物でもないだろう!?」

「そう、暴力なんですよ」

「何?」

「貴方方から受けた暴力を暴力で返しただけですよ。彼は」


 言葉を失う年長者に「たくみさん」とようやく言葉を取り戻した誠也が声をかける。巧と呼ばれた白髪交じりの年長者が黒田と並んで立つ誠也をねめつける。


「俺、義兄さんの言いたいこと、分かります」

「何言ってるんだ!誠也」

「義兄さんは泣く場所を、叫ぶ場所を、見つけたんですね。良かったです」

「誠也……」

「ちょっと、羨ましいです」


 ぎこちなく笑う誠也の瞳には涙が溢れていた。思わず抱きしめたい衝動にかられながら、黒田は上げた手をゆっくりと下ろす。自分にはその資格がない。俯く黒田と誠也の肩を間に入りぽんぽんと優しく叩いたのは神田だった。父のように、師のように優しく接してくれる神田に、自然と黒田の目頭が熱くなる。


「ピアノをどう続けようと、お父さんとお話はしてきた方がいい。きっと後悔するからね」

「先生」

「私はここで待っているから。行ってきなさい」

「……はい」


 入って来た時とは違い、四人で玄関扉を出て行く背中を見送って、神田は両の手をぎゅっと合わせた。その手はまるで神に祈るようだった。

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