メゾフォルテの咆哮

 黒田誠二が、自分をアダルトチルドレンと認識したのは最近の事だ。


 ある時目が覚める様に、自分が、周囲より心の柔らかい所が傷だらけだと気付いた。単純に、無遠慮に殴られる日々が、普通ではないと知ったのは、彼が大人になり世界を知った所以だ。家族とピアノ、学校以外の世界を彼は知ってしまった。その空間はまるで花畑のように心を弾ませた。初めてピアノ以外の楽器に触れた。それが先輩が持っていたギターだった。ギターが奏でるパンチの効いた音を耳にした時から、黒田はピアノが弾けなくなった。自由を知ってしまった彼は、グランドピアノの重厚感を前にすると、大きな拳に殴られるような恐怖感が体を支配するようになったのだ。傷だらけの心を庇わなければならないと体を小さく小さく丸めて、黒田は、グランドピアノの脚を抱きかかえて身を守った。身を低く低くして、グランドピアノの脚を抱える彼の姿は、レスリングで体を取られないようにする姿勢のようだ。

 そんな黒田を咎める大人は多かった。ピアノを弾かないことに怒り、悲しみ、嘆いた。背中を怒号と暴力が襲ったことは一度や二度ではない。


 その時、黒田がやり返すという選択をしなかったのは、彼の力が弱かったからではない。そういう思考を全て取り上げられていたからだ。


 黒田は幼い頃から神童と呼ばれた。神田誠一郎の後継になれる筈だと期待されていた。しかし、幼くして始めたピアノは、気が付いたころにはドンドン若手に追い抜かれるようになっていた。「黒田は神田の模倣でしかない」そう、酷評する人間も多かった。彼はそれでも構わないと思っていた。天才ピアニスト神田誠一郎の模倣になれるなら、こんなに嬉しいことはない。

 しかし、周囲はそれを良しとしなかった。彼に開花を求めた。感情表現を、身体表現を、音楽表現を求めて求めて、求め続けた。そして、期待に添わない彼を叱咤した。


「俺は何になればいいのか分からなくなったんです。ただ、愛されたいからピアノを弾いていた俺にとって、愛されないという現実の前で立ち塞がるピアノは、恐怖でしかなかった」


 言葉にするとなんと陳腐なことだろう。今までの半生が脳裏を高速で過っていく。恐らく走馬灯とはこれぐらいのスピード感なのだろう。何も拾うことができないまま、吐露した言葉が床に転がっていく。いつの間にか本降りになった雨が、泣かない黒田の代わりに窓を叩き割らん勢いで降り注いでいる。


「そうか、そうだったんだね」


 神田の細い指に力が入るのが分かった。それは明確な怒りだった。怒りの感情を敏感に察した黒田の瞳孔がきゅっと小さくなるのを見て、神田は事実なのだと悟った。握った掌に指を絡めて、空いた手で黒田の背中を摩る。神田の低い体温では伝えきれない温かさを伝えたいと思った。それを察したのであろう花子が、黒田の足元に寝っ転がって足元のヒーターのように体をくっつけてくる。「本当に優しい子だね」と神田は笑った。


「大丈夫、君に対して……ではないよ」

「分かってます」

「君がギターに出会えたことに賛美を」

「ふふっ、でも俺、まだ弾けないんですよね」


 黒田はケラケラ笑いながら、冷めたコーヒーを喉に流し込んだ。珈琲の尖った苦みが喉に刺さりながら転がっていく。ギュッと眉毛を寄せる黒田を見て、そっと席を立った神田は黒田のカップになみなみと牛乳を注いだ。白い水面がゆらゆら揺れて二人を歪んで映している。


「君は、私が嫌いにならないのかい?」

「正直、何度も嫌おうとしました。でも無理だった。新しい先生の音楽を聴いて俺は、この人も同じなんだって知ってしまったから」


 ピアノを壊す勢いで紡がれる音楽は、神田の心の叫びをありありと伝えてきた。嘆き、悲しみ、怒り、虚しさ、どこへ向けたらいいのか分からない負の感情が、ぐるぐると巡ってピアノの旋律として流れていく。


「俺が言いたいこと、先生が全部代弁してくれたんです」


 私はここにいるのに、どうして君はここにいないのか。

 私はこうありたいのに、どうして世間は私が変わることを認めてくれないのか。

 私が私を愛することを、何故世間は認めないのか。

 そもそも世間とはいったい何なのか。


 神田の叫びは全て黒田の叫びに重なった。神田の新譜を詰め込んだCDは、彼の名前を地に落とす程売れなかったのだと言う。しかし、黒田はそのCDが好きだ。何度母に咎められてもそのCDを手放すことはしなかった。彼にとっての宝だったからだ。


「先生のピアノは俺の道しるべなんです。また模倣と言われるかもしれないけど」

「君は私の模倣ではないよ。自分で考えて、今ここにいるじゃないか」


 大学は親の反対を押し切って県外に飛び出した。当然の様に引かれていた音楽学校への入学のルートを捻じ曲げて、黒田は今、芸術大学に通っている。舞台演出を先行しているのだ。随分と脇道に反れてしまったが、祖父母はそれを許してくれた。「一度の人生だ。娘が面倒を見ないなら、私たちが貴方の将来を保証しよう」祖父から提案で、毎月の援助を受けて大学に通うことが決まった。

 家を出る直前、ピアニストの母と前代未聞の大喧嘩をした。彼女はきっと自分が考えを改めると信じていたらしいが、黒田は、考えを改めることはなかった。今も時折、彼女から怨み辛みを凝縮したような手紙が祖父の元へ届くという。住所を教えていない黒田は、今の所静かな生活を送ることができている。


 神田はゆっくりと瞬きをして、ピアノの前に座った。白鍵をゆっくり撫でて「大丈夫。ピアノは君を嫌っていないよ」と語った。そんな神田に理想の父の姿を重ねて、黒田の目頭は熱くなった。ふ、と気を緩めると涙が出てしまいそうだ。


「先生、聞かせてください」

「4時にはまだ早いが……君に向けて送ろう」


 神田の指が鍵盤を力強く叩いた。



「朝ごはん、御馳走様でした」

「いいんだ。また、遊びにおいで」

「ありがとうございます」


 深々と頭を下げる黒田を笑顔で見送って、神田は足元に纏わりつく白い毛玉を持ち上げた。「きゅーん」と寂しそうに鳴く花子が、黒田を心配しているのだと悟る。動物というものは弱い者を見つけるのが上手い。そして花子は特によく慰めてくれる子だった。神田が妻を亡くした時も、花子は一晩中傍で泣いてくれた。心優しい自慢の娘だ。


「黒田君、一人にしたくないね」


 丸まる花子を抱きしめて、神田は小さくなっていく背中を見詰めていた。

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