ピアニッシモの涙

 朝日が目元を照らす。瞼の裏を明るく照らされて、黒田は身悶えした。ベッド脇のCDプレイヤーからは、水の中を漂うような、水面を撫で付けるような旋律が流れている。その穏やかな旋律に身を委ねながら、黒田はごろりと寝返りを打った。反動で棚の上に鎮座していた時計が手元まで転がる。眉間に皺を寄せ、眠気眼で時計を見て、黒田は悲鳴を上げた。


 ゴミ出しの時間を過ぎようとしているではないか!


 大慌てで寝巻のまま玄関口に置いたゴミ袋を抱え、外に飛び出し、安アパートのコンクリート打ちっぱなしの外階段を駆け下りる。今年最速の記録で駆け下りた黒田を祝福するものは誰もいない。それどころか、無情にも浅黄色のごみ収集車は背を向けて去って行く所だった。落胆してゴミ袋を取り落とす黒田の背中に、聞きなれた声が投げかけられる。


「黒田君?」

「神田先生」


 振り返った黒田が余りにも泣きそうな顔をしているので、慌てて近くに駆け寄った神田の細い指が、黒田の鍛えられた背中を撫でた。寝巻越しにも分かる程、しっかりと鍛えられた肉体に神田は「ほう」と小さくため息を吐く。


「今週のごみ収集、全敗してしまって……」


 がっくりと肩を落とす黒田を見て、神田は大きな目をぱちくりと瞬きさせ、小さく笑った。随分と可笑しかったらしい。肩を揺らせて笑う神田を見て、黒田の下がった眉毛も心持ち上がっていく。取り落としたごみ袋を持ち直し、黒田は大きく欠伸を一つ零した。ウェーブのかかった黒髪が朝日を受けて輝いている。


「黒田君、朝食がまだなら家で如何かな?」

「頂きます!」


 元気に返事して、自室に向かって全速力で走り出す。先ほどの記録を塗り替える勢いで走る彼を、ぽかんと見つめる神田に向かって、黒田は大きく手を振って「後でお邪魔します!」と声を上げた。よく見ると脇腹が出ている。寝巻のボタンは、2,3個掛け違えられている。彼の茶目っ気が垣間見えて、神田は心がほっと温かくなるのを感じていた。ステンレス製の安っぽいドアが甲高い音を立てて締まるのを確認し、神田はゆっくりと自宅へ向かって歩き出した。足取りは心なしか軽い。


 そういえば、「誰かに朝食を振舞うのは、彼女が亡くなってから初めてではないか?」と気づいて、神田は照れるのを隠すように足早に玄関扉を潜った。



 自宅に戻った黒田は、ごみ袋を部屋の隅へ放り投げた。ばんと音を立てて床に落ちた膨らんだビニール袋には目もくれず、寝巻のボタンを外しながら短い廊下を歩き、脱衣所に鎮座する洗濯機に押し込んで、下着姿で流れる音楽に身を委ねて踊りだした。洋服箪笥から、着慣れた黒のジーンズと無地のTシャツを引き抜き、身に着ける。パーカーを羽織って鏡を見る。口元が緩んでいることを自覚しながら、髪を撫で付けて、CDデッキの電源を切り、黒田は家から飛び出した。


 暖色の煉瓦で組まれた外壁に、鎮座するカメラ付きのインターフォンを鳴らす。小粋良い音の後「やぁ、待っていたよ」と言う男性の声。門扉を抜け、石畳のアプローチを進む。玄関ポーチにたどり着いたところで音を立てて、錠が降ろされ、ひょっこりと白髪が覗いた。


「すまない。花ちゃんが出ちゃいそうだ。さっと入ってくれるかな?」

「はい!お邪魔します!」


 小さく開いた扉の隙間に体を捻じ込んで、黒田は勢いよく扉を閉めた。自宅の薄っぺらいステンレス製のドアと違って、重低音が腹の底に響く。

足元を高速で回転するモップの様な生命体を抱き上げて、黒田は「今日も元気だね。花子ちゃん」と笑った。元気にお返事する花子を、磨き抜かれたフローリングの上に下ろして黒田は彼女の案内に従ってリビングのドアを開けた。鼻孔一杯に香ばしい珈琲の香りと焼きたてのパンの匂いが飛び込んできて、反射で鳴る腹を慌てて押さえた黒田を見て、落ち着いた濡れ羽色のエプロンを着た神田は静かに笑った。


「さあ、さあ、ご飯にしようじゃないか」


 エプロンを手際よく脱いで、キッチンのフックに掛けた神田に普段から料理をしていることを匂わされて、敗北感を感じる黒田は「はーい」と心境とは反対ののんびりした声を上げて椅子を引いた。作りのいい木製チェアに腰かけて、机の上を彩る朝食をまじまじと眺める。


「在り合わせの物ですまないんだが……」

「先生、そんなこと言うと全国の主婦を敵に回しちゃいますよ」


 机の上に並ぶ光景に圧倒されながら、黒田は銀でできたフォークを握った。くるりと手元でフォークを回して、目の前に置かれた半熟の目玉焼きをおっかなびっくり突く黒田を「行儀悪いよ」と窘めながら。神田はそっと両の手を合わせた。「頂きます」と紡ぐ言葉は柔らかく、温かい。フォークを手放し、釣られて手を合わせて黒田も「頂きます」と頭を下げる。

「おあがりなさい」と笑う神田の目は暖かい。まるで、息子を見るような瞳だなと思って黒田は「先生お子さんいらっしゃるんですか?」と問うた。


「居ないよ。妻が病弱でね。子供は望めなかった」


 温かい湯気を立てるマグカップを見つめる目はどこまでも暖かく、しかし同時に悲壮感に満ちていた。


「私が、妻の寿命を縮めたのかもしれない」


 懺悔するように紡がれる言葉を飲み下すような感覚を味わいながら、黒田は壁に掛けられた一枚の写真を見る。満開の淡青色のネモフィラ畑で真っ白なワンピースを着た女性は、とても幸せそうにネモフィラに負けないぐらい満開の笑顔を浮かべていた。


「先生、それは奥様に失礼ですよ」


 黒田は、まっすぐ神田の利休茶色の瞳を見つめる。揺れる瞳を逃さず捉えると、黒田の百塩茶色の瞳の中に神田の姿が映っていた。


「奥様は本当に懺悔するだけの余生を先生に望んでいるのですか?」

「それは……」


 黒田のまっすぐな言葉は刃となって神田の柔らかい心を傷つけた。言葉を詰まらせ、はらはらと涙を流す神田の足元を花子が心配そうに回って、黒田に向かって「ワン」と咎めるようにひと吠えした。そんな騎士の様な花子の頭をゆっくりと撫でて神田は「君の言う通りだ」と話し始めた。


「私は誰かに背中を押して貰いたかったんだ。ずっと……。変わった私を認めて欲しかった」

「俺は今の先生の音楽、好きですよ。心を揺り動かされる。今の先生の心情が強く心を叩いてくる」

「評論家風情には言わせて置けばいいんですよ。先生は先生の道を歩くべきだ。奥様の為にも……ね」


 黒田はそう語り、ハムエッグにかぶりついた。両頬一杯にハムと卵を詰め込んだ黒田を見て神田は「敵わないなぁ」と笑う。もう大丈夫なのか?と下ろされた手をぺろぺろ舐める花子の優しさにまた神田の涙腺が緩んでくる。


「先生、今は食べましょう。美味しいです」

「そうだね」


 一口サイズに切って口に放り込んだハムエッグは少ししょっぱかった。



 食後のティータイムを楽しんでいた時、神田は意を決したように黒田に問うことにした。


「そういえば黒田君、バンドと言っていたね?」

「はい。俺、軽音楽をしたいんですよ。特にロック!ロックをしたいんです」

「私は、ロックの畑の者ではないから分からないんだが、ロックにピアノは活躍できるのかい?」

「大丈夫ですよ!パイプオルガンを使うロックバンドもいるんですから!楽器でジャンルを絞るなんて勿体ないじゃないですか」

「そうだね。楽しく奏でる機器が楽器だからね」


 濃茶色の珈琲を飲み干して、神田は「少し聞かせてくれないか?」と黒田を見た。


「ピアノ、習っていたんだろう?」

「そんな天才ピアニスト神田誠一郎先生の前で弾けるような曲持ってないですよ!それに俺……」


 黒田の瞳がゆっくりと天井を這って、その後、神田の顔を申し訳なさそうに見つめた。整えられた眉が力なく下がり、神田は「何か地雷を踏んだか?」と首を傾げる。


「俺、ピアノは辞めたんです。今はギターしてます」


 両の手をゆっくり目元まで掲げる黒田の瞳はどことなく暗い。男らしく骨ばってごつごつした手が太陽の光に透かされて輝いているように神田には見えた。


「なにか理由があるんだね」

「俺、ピアノを前にすると震えが止まらなくなるんですよ。……怖くて、怖くて仕方がないんです。ピアノは大好きだし、ピアノの音がないと眠れないのに」


 目元を隠す黒田の顔は苦悶に満ちていた。


 神田には、彼の背中の後ろに、ピアノの亡霊が見える。「完璧に演奏しなければならない」、「観客の望む音楽を提供しなければならない」というプレッシャーが、膨らんで膨らんで真っ黒な亡霊となって彼に張り付いて剝がれなくなっている。黒い靄に隠れて、顔が伺えない黒田の頬に、神田は机越しに腕を伸ばしてそっと触れた。神田の色白で細い指が白鍵を撫でる様に、黒田の頬の輪郭を撫でていく。黒い靄と一体になった体がゆっくりと切り抜かれていくような、型抜き駄菓子になった様な気分を味わう。


 神田が触れたところが自分の境界線だ。


「すみません」

「良ければ、私に君の話を聞かせてくれないかな?」


 神田の優しい利休茶色の瞳の奥に、顔色の悪い自分を見て黒田は小さく笑い「いいですよ」と肯定した。

 ゆっくりと思考が過去に落ちていく。握られた手が命綱のように思いながら、黒田はぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始めた。いつの間にか外では分厚く暗い雲が空を覆い、大粒の涙をこぼし始めていた。

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