フォルテッシモの旋律

四十物茶々

フォルテッシモの旋律

 その家に引っ越してきたのは、春の盛りの頃だった。4月から大阪で始まる大学生活に向けて熊本から上京してきたのだ。


 小鳥のさえずりを聞きながら馴れない荷解きをしていると、綺麗な音色が聞こえてきた。年季の入ったピアノから紡がれる精密な音色を聞き、黒田誠二くろだせいじは、荷解きの手を止めた。こんなきれいな音を作業しながら聞くのは野暮ってもんだろう。段ボールの山を壁際に押しやって、剥き出しのフローリングに転がった。

 フローリングのひんやりとした冷たさが心地よい。


 その日から数日生活して、毎日夕方4時丁度からまるで時計のような精密さでピアノの音色が聞こえてくることに気がついた。


 かけたばかりのカーテンを引くと、窓際で白髪の老人がピアノに向かっているのが見える。その姿は余りにも真剣で、茶化す気持ちすら湧き上がってこない。黒田はこの時間、のんびり窓際を眺めるのが日課となっていった。



 その日は、雨の次の日だった。前日と打って変わって綺麗に晴れた空は青く、アスファルトで熱せられ蒸発した水分がじっとりと肌を湿らせて、水の匂いが鼻孔を擽る。

 大学の備品を沢山抱えて覚束ない足取りで歩く黒田の横をしゃんと背筋を伸ばした初老の男性が過ぎていった。男性は、通り過ぎ様に黒田の顔を見て足を止めるが、黒田は気づかずふらふらと歩いて行く。早く荷物を手放したいと言う気持ちで上の空だ。


「君、お隣のアパートに引っ越して来た人だろう?」


 黒田の覚束ない足取りを止めたのは男性の方だった。後ろから突如、初老の男性に声をかけられ、困惑した黒田は、その顔を見て「あ」と小さく声を上げた。小さな犬を連れた老人は、黒田の反応を見てにっこりと目を細める。


「私のピアノを、聞いてくれていただろう?」

「はい、黒田です」

「黒田くん、か。私は神田かんだ。この子は花子だ」


 そういって神田と名乗った初老の男性は、白いポメラニアンを抱き上げた。「ワン」と元気な声を上げて、花子と呼ばれたポメラニアンがご挨拶する。「いい子だね」としわしわの手でポメラニアンの小さな頭をわしゃわしゃと撫で回した。白く長い指に、白い毛がまとわりつく。この長い指が、あの繊細な旋律を奏でているのだと思うと、黒田は視線を外すことができなかった。黒田の熱烈な視線を受けて、神田はにっこりと笑う。


「君はずいぶん好意を素直に見せるんだね」

「そっすね」


 深く考えていなかったことを指摘されて、黒田はそっけなく答えた。耳の端が赤くなっているのは、照れているからだろうか。長く、ウェーブのかかった黒髪を撫でつけながら、黒田は「ピアノお上手っすね」と言葉を投げかけた。神田の顔が一瞬強張って、にっこりと微笑む。「日本語が下手すぎる」と日頃から友人知人に指摘されている黒田だったので、「また何か地雷を踏んだだろうか?」と首を傾げるが、彼は一切黒田の発言について明言しなかった。ただ一言「そう、妻が好きだったんだ」と答えた。

 その顔はどこか遠くを見つめている。

 

 黒田は何も考えず「奥さん、幸せ者っすね」と笑った。その顔に神田は耳を疑う。


 そうか、彼は知らないのだ。


 自分が天才と謳われたピアニスト、神田誠一郎かんだせいいちろうだと言うことを。そう思うと突然胸が軽くなって、神田は「よかったら聞いていかないか?」と声をかけた。

「いいんすか!?」と黒田は食い気味に神田との距離を詰める。その姿が余りにも初心で、真摯で、神田は口角を緩めた。



「ほーら、花ちゃん。お家だよー」


 小さな小さな足を雑巾で拭って、神田はバタバタと腕の中を動き回る小さな毛玉を解放した。興奮して引き千切れそうな程、尻尾を振り回して、足元を周回する花子を踏まないようにゆっくり足を進める黒田の優しさに口角を緩めながら、神田は「珈琲でいいかな?」と小首を傾げた。手にしているカップの薄さを見て黒田の心臓が飛び跳ねた。あれは、ウェッジウッドではないか?そんな高価なティーセット使ったことがないと慌てる黒田に、神田の肩が震える。


 ふかふかの臙脂色のソファに腰を落として、膝の上で我が物顔で寝転ぶ花子の背中を撫でながら、黒田はパタパタと広いキッチンを歩き回る神田の薄い背中を見詰める。至れり尽くせりで、大変申し訳ない。自慢のウェーブヘアが少し下がっているように見える。


「すみません。急にお邪魔しちゃって」

「構わないよ。誘ったのは私の方だからね」


 両手にソーサーに乗せたカップを持って、神田は音も立てずに黒田の目の前にソーサーを乗せた。ガラス製の珈琲テーブルに光が反射し、高そうなカップが益々煌びやかに見えた。


「花ちゃん良かったね。お兄さんが遊んでくれて」


 わしゃわしゃと喉元を撫でた後、神田はズッと音を立てて濃褐色の液体を啜った。「ブレンドなんだがね」と彼は笑う。濃褐色の液体の中に映りこむ世界は暖かそうだ。


「頂きます」

「どうぞ」


 神田の薄い手に促されるまま、角砂糖を二つ放り込んだ濃褐色の水面に口を付ける。初めて珈琲を飲もうと思った人は、なぜこんな手のかかることをしようと思ったのだろうか。人間の飽くなき食への探求心を感じながら、喉を潤す。鼻を抜ける香ばしい香りにいい豆なのだと実感した。隣でそわそわと黒田の反応を見守る神田に「美味しいですね」と伝えて、カップをゆっくりとソーサーの上に置いた。かちゃりと陶器同士が触れ合う耳障りな音が響いて、黒田はバツが悪そうに耳を赤くした。


「じゃあ、そろそろ始めようか」


 時計を見ると午後四時前だった。腕捲りをして、神田はリビングの置かれたモダンな仏壇の扉を開く。そこには優しそうな笑顔を浮かべた初老の女性の写真が飾られている。黒田の膝の上から飛び降りた花子を追ってピアノの近くににじり寄る黒田を見て「ソファで寛いでくれてていいんだよ?」と神田は笑った。しかし、黒田はゆっくりと首を横に振る。


「俺、神田さんのピアノを聞きながらじゃないと寝れないんです」


 そう言って磨かれたフローリングに横になり、お腹に花子を乗せた黒田を神田は大きな目で見つめた後、言葉を探すようにしばらく口をパクパクさせたが、諦めたように眉を下げて、ピアノに向かう。鍵盤蓋をゆっくりと開けて、細い指で白鍵を一通り撫でた後、息を吸い込み、鍵盤を叩いた。


 ドンッと胸を叩かれるような力強い旋律が耳から入って体中を駆け巡る。優しい音とは無縁の、まるで泣き叫ぶ様な、怒りで拳を打ち付けるような強い旋律が古いグランドピアノから叩き出されていく。

 これは、彼が抱えている闇だ。悲しみだ。怒りだ。孤独だ。余程愛していたんだな、と仏壇の女性に視線を向ける。写真の彼女は笑顔だったが、絶対に彼は渡さないという強い意志を宿していると黒田は感じた。強欲な人だ。死んでも尚、彼を離す気はないらしい。

 体中の骨が一度バラバラにされて組み立て直されている様な感覚に酔いながら、黒田は神経が通った腕をゆっくりと持ち上げて、腹の上の毛玉を撫でた。ぺろぺろと舐められる指先が擽ったい。くつくつと声を殺して笑う黒田とは対照的に、神田は汗を飛ばしながら鍵盤を力の限り叩いていた。ガシャンとまるでそこら中の食器を床に落として割るような不快な音を立てて彼はピアノの鍵盤から指を下ろした。滴り落ちる汗が彼の体力の消耗を言葉なくとも伝えている。


「眠れたかい?」

「生で聞くとまどろむのが限界でしたね」

「私が、神田誠一郎だと知ってたんだね」

「母がピアニストで……俺、下の名前が誠二って言うんですけど、神田先生から一字貰ったそうです」


 日本が誇る天才ピアニスト神田誠一郎。彼のピアノは、いつの頃からか今のように人の心にダイレクトに不快感を叩きつける物へと変わり、随分な批判に晒されたという。今の日本で彼を知る者は殆ど居ない。


「幻滅しただろう?」

「何故?俺、先生の今の旋律、好きですよ。うまく言えないけど、生きてるって感じで」


 ゆっくりとフローリングから起き上がった黒田は座り込んでいる神田の細い手を取った。その細い骨に皮が付いているだけのような細い指で、先ほどの旋律を奏でていたのだと思うと背中の産毛がざわざわと逆立つのを感じた。最ッ高ッにロックじゃないか。黒田の口角がゆるゆると緩む。


「先生、俺と一緒にバンドやりましょうよ」


 前のめりに神田の手を握る黒田に神田が「バンド!?」と素っ頓狂な声を上げる。窓の光を反射した白髪がキラキラと輝いている。それにステージバックのライトが見えて、黒田の瞳が輝く。そうだ、この人はまだステージに立つべき人なのだ。


「無理無理無理、私はもうお爺さんなんだよ?」

「ロックに年齢なんて関係ないんですよ。先生はロックの魂を自分で磨いてきたんだ!披露しないと勿体ないでしょう!」

「……少し、考えさせてくれ」


 神田の長い長い溜息は、愛犬の元気な返事でかき消された。二人の出会いを祝福するように、晴れ渡った空から差し込む光は神田家のステンドグラスをすり抜けて綺麗な光の粒を作っていた。

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