3 outward

 あれから私は、隆と一緒によく授業をサボるようになった。教室で本を読むこともなくなったし、特別棟のトイレで昼食をとることもなくなった。昔みたいに髪も短く切って、足元ばかりみて猫背だった癖も直そうとしている。

 捨て去ってしまった言葉を取り戻すべく、隆とふたり発声練習を行う日々。待たせたままなのに、彼は根気よく付き合ってくれている。ぎこちなくだが、少しずつ言葉が出るようになってきた。まだ喉の奥につっかえて人前では喋れないが、よくなってきているのを感じる。

 私も前に進んでいる。そう思い始めたころだった。

「名越さん、昔とぜんぜん変わらないよね」

 私の髪を引き抜いたこともある女生徒、三隅純が話しかけてきた。最近では隆に言われて、ちゃんと人を避けるようになっていたこともあり、ちょっかいを掛けられることもなくなっていた。彼女の方からわざわざ話しかけてきたせいで、驚いて固まる。助けを求めようとしたが、タイミング悪く隆は近くにいない。

「意味ないよ。せっかくひとりのときに話しかけたんだから」

「どう、いう、いみ?」

 私が震える声で問い掛けると、彼女はあからさまに眉を歪めた。

「あなた、千広のこと忘れようとしているでしょ。不幸な女ぶって黙っている間はまだよかったけど、ずうずうしくふつうの人間になろうとするだなんて。何も分かっていない、ジコチューのまんま……お前の罪が、罰が、消えるはずないだろ」

 私は首をふり否定する。ひろちゃんのことを忘れようと思ったことなど、あるわけがない。

 そして、ひろちゃんの名前がでたことで思い出した。スミちゃん。三隅純ちゃん。彼女もまた、あの時クラスメイトだったうちのひとりだ。

「千広が命と引き換えにあなたのこと助け出してあげたのに、本当恩知らず。人ひとりを殺しておいて、のうのうとふつうの人間として生きようだなんて。千広の救いを無にするなんて」

「なん、の、ことを?」

 ひろちゃんのことは事故だった。隆がそういってくれたはず。

「ほら、そういうところだよ。気付いてもいなかった。私はこのままあの子の思いが無駄になるのが嫌だから教えてあげるけど、本当はあなたなんか死んだ方がいいって思ってる。あなたひとりが不幸になるならそれでもいい。でもね、巻き込むのよ。あなたは他人を巻き込んで不幸をばらまく、最低の人種なの」

 純の語り口は努めて冷淡だったけれど、握られた拳はいまにも私を殴り殺しそうだった。

「小学生のとき、あなたが素っ裸の女王様だったとき。あなたのわがままには嫌気がさしていた。見てくれだけはよかったからかな、あなたには数人の取り巻きがいて手が付けられなかった。なんでも言うことを聞いて、どんなことでも躊躇なくやる奴隷。命令はどんどんエスカレートして、怪我をする子も出始めたわ。みんな困り果てていたとき、千広が言ったの。あの子を助けてあげなくちゃ、ってね」

 私はいやいや、と小さな子供のように首をふった。それしかできなかった。聞きたくなかったけれど、耳を塞ぐこともできなかった。ひろちゃん、ひろちゃん、ひろちゃん――そればかりが頭の中に渦巻く。

「意味わかんない? 私もわけわかんなかったわ。無視したり、排除するならまだしも、助けるってどういうこと、ってね。千広はね、すごくいい子だったの。誰よりも思いやりがあって、賢くて、強い子だった。その彼女が提案したの。みんなで名越さんの奴隷になってあげよう、って。みんなで彼女を持ち上げて、いい気分にさせて、彼女の癇癪を抑えよう。そういう作戦を立てて、みんなで実行した。私たちはなんでもあなたの言うことを聞いてあげたわ。物を与えて、褒めそやして、仮初の友情を与えてやったの。あなたの不機嫌で誰かが傷付かないためにね」

 純は饒舌になる。真相を告発する。怒っているのか、悲しんでいるのか。他人の感情など私にわかる訳がなかった。

「作戦はうまくいった。私たちはこのまま、上手くやり過ごして終わりだと思っていた。けど、千広の目的はもっと深いところにあった。彼女の思いやりは、私たちの予想を超えていた。わかるでしょ、あの子はあなたと友達になろうとしたのよ」

 掘り返された記憶は、一度バラバラになり、まったく違う形で再構成される。今まで欠けていたピースを補って、正しい形へと回帰していく。私の主観でゆがめられた記憶を、あるべき事実へと戻していく。これは私が見えていなかった現実の形だ。

「千広はあなたのわがままの原因は環境にあると考えていた。裕福な家庭で子供を甘やかす両親。なんでも言うことを聞く便利な手下。他人に対する思いやりが芽生えるはずがない。いままで思い通りにならなかったことなんてないんですもの。世界が自己完結してしまっている。そこに他人の入る余地なんかない。千広はその閉じこもった世界を叩き割って、無理矢理入り込んだ。ひとりぼっちのジコチュー世界から、あなたを助け出してくれたのよ。でも、そのせいで殺されてしまった。あなたが殺した。あなたが私から神様を奪ったんだ」

 そして、彼女は告げる。

「事故なんかじゃない。千広はね、殺されたのよ。あなたがいま付き合っている男、相野隆にね」

 純が取り出したのは、あの事件の写真だ。野次馬が撮影した画像がネットに流れたもののようだ。タイヤの下からねじきれた肘が落ちている。血の跡がアスファルトを濡らし、バンパーを赤く染めている。何枚も撮られた写真は、轢かれた直後にまだ少しひろちゃんの息があったことを示している。わずかに持ち上がった指先が力なく垂れさがるまで、映画のフィルムのように切り刻まれて写し撮られている。

「あ、ああ……ひぃあ……」

 私は目を塞いで悲鳴を上げようとした。しかし、純はそれを許さない。

「ここを見るのよ。目を開いて、見ろ。見ろッ!」

 彼女の拳が私を殴打する。強引に瞼を剥かれて、とある一点を凝視させられる。

「反対車線で起こった事故の原因。ここに、最初に飛び出した子供が写っているわ。紺色の襟付きワンピース、これあの子があなたに選んであげた服でしょ? すぐにわかったわ。あの頃気に入ってよく着ていたものね。でも、これはあなたじゃない」

 スワイプされ、拡大された画面に映ったのは私じゃない。どこか見覚えのある横顔。よく見ればわかる、女子じゃない。男子だ。あの日、飛び出したのは私と同じ格好をした、女装した男の子。

「これ、相野隆だよ。あなたの命令を一番忠実に聞いていた、近衛兵……いえ、女王の奴隷」

 叫び声も出なかった。もう、なにかを発することさえできそうにない。

「やっぱりね。あなたは昔と変わらない、裸の女王で、最低のジコチュー……忘れるなんて許さない。お前の罪は私が絶対に許さない。お前が千広を殺したんだ」

 純は去り際にもう一度私を殴る。二度もぶったというのに、すこしも晴れない顔で彼女は去って行った。私に最悪の真実を残して。

 やっぱり。

 あのとき口にした言葉が蘇ってくる。ひろちゃんに向かって私が投げつけた言葉が、今になって戻ってくる。私はひとり、確信していた。廊下に突っ伏したまま、事実を再確認する。事故でも、偶然でもなくて、私のせい。

 やっぱり、私の言葉は現実になるんだ。


 放課後、屋上に隆を呼び出した。

 彼に言わなきゃいけない言葉がある。もしかしたら、私は彼をずっと待たせていたのかもしれない。

 黄昏のなか、ふたりきり。遠くから運動部の掛け声が聞こえる。誰にも邪魔されない時間。彼もそわそわとして、落ち着かない様子だ。

 私はこれまで特訓してきた成果を見せようと、何度も息を整える。どもらないように、噛みませんように、震えませんようにと願いながら、頭の中で台詞を反芻する。心臓の鼓動が耳元でうるさくて、だんだんと世界の音が遠ざかる。落ち着こうとしても、かえって鼓動は高鳴るばかり。手で顔を仰いだり、何度も唇を湿らせたり。挙動不審な私を、彼は辛抱強く待ってくれる。

 ようやく覚悟がきまった私は、ひとつ頷いて彼の瞳を真っ直ぐと見つめる。彼も静かに見つめ返してくれる。不安はなかった。

 大きく息を吸い込んで、私は言葉を吐き出す。

「あんたなんか、死んじゃえ」

 隆は恍惚とした笑みを浮かべて、制服のポケットからバタフライナイフを取り出す。銀色の刃を首筋に当てると、なんのためらいもなく引き裂いた。彼はこの言葉を待っていたのだ。

 夕陽が溢れ出して、私の制服にもはねる。

 宵闇が濃くなり、オレンジがバイオレットへと変わる隙間。真っ赤な瞬間が訪れる。空も、屋上も、私も。真っ赤な色に染まっている。

 私はすうっと胸のつっかえがとれたような、すがすがしい気分を味わっていた。

 あのときの言葉に確信が持てたからだろうか。それとも自分の疑問に答えがでたからだろうか。

 私は声を取り戻した。でも、昔とは違う。ひろちゃんが教えてくれたように、みんなのために声を上げて行こうと思う。そのための力だ。

 私には力がある。ひとを殺せる力だ。

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