三隅純

1 inward

 私にはなにもない。ひととして意味をもたない。

 消費される幾億もの粒の、ひとかけらに過ぎない。私には六つ離れた兄と、みっつ違いの姉がいた。兄も姉も容姿に優れ、利発で、なんでもそつなくこなす器用さを持ち合わせていた。人当たりもよく、彼らが大人に向ける笑顔にはいやらしく媚びる陰などなく、海外ドラマに出てくるヒーローやヒロインのようだった。

 兄はスポーツで全国選抜されるほどの実力がありながら、難関名門校へと難なく進学した。文武両道を地でいくスタイルで、いずれは海外留学する。姉は芸術での才能を開花させ、ヴァイオリンのコンクールで優勝し、絵画でも賞をもらうほど。飽き性なところがあったが、比類なき才能とセンスがあった。

 兄はいう「純には純だけの良さがあるさ」、と。

 姉はいう「焦る必要なんてどこにもない」、と。

 私は常に比べてきた。低く潰れた鼻、とろい手足、回らない頭と呂律。両親に、兄妹に、大人にへつらう卑しく引き攣った笑み。私はそれがいかに不気味であるか。生ごみや排泄物よりも醜悪であるかを知り尽くしていた。なぜなら、比べたからだ。私が兄や姉と比べたからだ。

 優しいひとたちだった。穏やかな家庭だった。美しい光だった。

 彼らの優しさが、私を醜くしていった。

 光はいつしか裏返り、私を焼きただれさせる痛みとなった。彼らが優しければ、優しいほど。私に優しく接するほど、歪みねじれ、卑屈に溺れていった。私はいつしか家族を恨んでいた。羨んでいたはずが、嫉妬に狂い、こびへつらい、嫌悪に汚れて、嫌いになっていった。彼らの光は私を救わない! 私はどこまでも救われない!

 来る日も来る日も、鏡の前で醜悪を味わった。布団を噛み締めて、眠れぬ夜を過ごした。光のあふれるこの場所は、私の家は生き地獄へと変わっていった。

 おかしい。どうしてこうなってしまったのだろう。はじめはこうじゃなかった。世界が地獄へと変わり始めたのは、小学校にあがって三年生になった頃だ。あの子、あの女、アイツがすべてを狂わせた。

 たった一言。

「スミちゃんって、ブサイクね」

 世界は裏返った。

 清子。名越清子。私はあの女を決して許さない。

 いまでも覚えている。まったく悪気のない無邪気な顔で、私より可愛くてきれいな顔で、平然と他人を貶める。私は私の顔が醜いことを知った。私は私が不器用であることを知った。他人より劣っていることを知った。兄や姉とまるで異なる生物であることを知った。アイツは私を地獄に落とした!

 見せつけられる、まざまざと!

 確かに、名越清子は整った顔をしていた。きれいな子だった。悪が悪であることを知らない、天使に托卵した、悪魔の子だった。

 教室のなかで清子は君臨した。彼女自身がどう思っていたか知らないが、彼女は持てる者だった。彼女はスポーツや勉学はいうに及ばず、芸術的な才も確かに持ち合わせていた。だから、だれも逆らえなかった。清子が如何に尊大に振る舞い、横暴な命令を下そうとも、私たちには従うしかなかった。自身が劣っていることを、他ならぬ清子自身に教え込まれたから! 我々はひとではなく、虫。有象無象の持たざる負け犬。女王様に自ら頭を垂れる、奴隷。彼女に反抗したり、命令を拒絶しようとする度に『ブサイクね』という言葉が、私の体を縛り付けた。

 卑屈さが体を切り刻んだ。劣等感が心を腐らせていった。

 学校では思い知らされ、家では打ちのめされた。

 そんな私が、はじめて神様にであった。ひろちゃん。小秋千広ちゃん。

「みんな、ふつうの人間なんだから。仲良くできるよ」


 ひろちゃんはクラスに突然現れた。それまでクラスメイトだったことすら気が付かなかった。まるで流れ星のように、私たちの元に降ってきた存在だった。

 彼女は女王の統治する、狭い箱庭に顔をしかめることも、奴隷である私たちを笑うこともなかった。命令に逆らえない私たち。もちろん、そのころはまだ女王に反抗的な態度を示す子もいたけれど、その子たちは一等忠実な奴隷――近衛兵によって粛清された。命令は過激になるばかりで、教師も近衛兵の異常ともいえる攻撃性を恐れて、手を出せないでいた。そのような状況で、ただひとり、ひろちゃんだけは違っていた。

 ある日の放課後。清子のいない居室で、彼女は堂々と言い放った。

 たった一言。

「革命しよう」

 彼女は世界を裏返した。

「あの子を助けてあげなくっちゃ」

 作戦を聞いて震えた。支配者をそれと気付かせずに支配する。だれも血を流すことなく、しかし、私たちは救われる。圧政から解放されるばかりか、やり返すことも叶う。女王はうぬぼれの中で愚かな幸せを味わうことができる。所詮女王の地位は、神の権威を笠に着ているだけの張りぼてだったのだ。神様が私たちを導いてくれるなら、女王など必要ない。

 なんて勇気のある人間だろうか。彼女には卑屈さやいやらしさが一切なく、言葉は自信に満ちあふれていた。清子のような無邪気な悪意もなく、突出して美しいとか、秀才だったわけではなかった。平々凡々とした、ただの人間。私たちと同じ持たざる者なのに。二本足でしっかりと立つ、その姿は私の価値観を大きく変えた。人間としての意志をもち、尊厳をもち、確固たる信念で行動する。彼女には人間を率いる器があった。

 クラスの誰もが彼女の言葉に耳を傾け、従うようになった。

 後になって考えれば、それもまたカリスマという才能のひとつだったのだが、当時は目に見える美醜や成果にばかり囚われていたから気付けなかったこと。それでも彼女の特別さは、兄や姉、名越清子さえ霞んでしまう輝きを放っていた。

 似て非なる光。彼女の輝きの前には、なぜか私は卑屈にならなくてすんだ。ひろちゃんが人間的魅力にあふれているのは間違いなく、能力の有無が原因でないことはわかっていた。彼女には色々と不思議に思うところがあったのだ。

 清子と友達になったことが、その最たるもののひとつだ。

 ひろちゃんは誰にでも真摯に接してくれるし、臆面なく友達といえる関係を築かせてくれた。明らかにであった清子とも友達になると言ったときは、さすがに疑問を感じずにはいられなかった。

「どうしてそんなことするの? あの子は私たちを苦しめたのに!」

 数人の女子でひろちゃんに詰め寄り、悪者は徹底的に排除すべきだと訴えた。不満のなかには嫉妬も多分に含まれていたと思う。なにせ清子はわがままで、ひろちゃんを独占するどころか、束縛しようとするのだ。ひろちゃんは優しいから、自然と清子を優先しがちになってしまうことが許せなかったのだ。

 神様はみんなの――私のものなのに!

「アイツは悪いヤツだよ。ひろちゃんでもどうにもならないって。ほっとこうよ」

 グループの子がそう主張した。しかし、彼女は首をふる。

「あの子だって、ふつうの人間だよ。みんなと同じ、ただのひと。小さなきっかけでいい子になったり、悪い子になったりするだけで、みんなみたいに不安で不安定なだけ。ただちょっと周りの状況が、彼女を悪い子に傾けた」

「そんなこというなら、私たちだって――」

「大丈夫、みんなのことも見ているからさ。だから、私のすることで悪い子にならないでほしい。私だって、誰かをになりたくないから」

 嫌い、という言葉は強い力をもって私たちを恐怖させた。もし、ひろちゃんに嫌われたら。そう考えると足がすくんだ。彼女がそんな言葉を使ったことに驚いた。なにせ、私たちのことを理解して、意図的に『嫌い』を使ったのだ。

 私は彼女の光の根元に、薄暗いものを見いだした。同時に、彼女の光で私が焼きただれない理由を理解した。彼女の発する光の根源が、私と同じ暗く歪んだもので満たされていたからだ。

 小秋千広は、私の住む世界と同じところからきた神様だったのだ!

 それから、私は神様の真意を見極めようと、詳しく観察するようになった。学校での言動は言うに及ばず、清子とのデートも尾行した。ひろちゃんに服を選んでもらった清子は、まるで自分の罪を忘れ、ただのひとであるかのようにはしゃいでいた。平凡な、友達とのデート。私は少しずつ、違和感に気付いていった。

 ひろちゃんは徹底して、他人に平等だった。教師や先輩、年下の子に対しても、まったく同じ態度で接していた。それはもう超然的なまでに。相手がどれだけの富を持っていようが、地位や才能があろうが、彼女にとっては関係がないのだ。そして彼女は口にする。『ふつうの人間なんだから』、と。

 その言葉は私たちを原始に立ち戻らせる。

 人間が犬や猫、あるいは虫と同等の、単なるひとつの命でしかないことを思い出させる。

 その言葉は私たちにとって、呪いか、救いか。どちらにせよ、心を強く縛り付けるものだった。

 そして、彼女は誰に対しても、あらゆる手段を講じて、『ふつうの人間なんだから』を実践しようとしていた。異常なまでの信念と熱意――妄想と執着をもって。


 しばらく経ったあとの放課後。私はひろちゃんがひとりの所を見計らって声をかけた。

「ひろちゃんは、本物の神様になりたいの?」

 私はもう隠しもしなくない、ひきつり下卑た笑みで、彼女にそう言った。それはもう下心丸見えで、私はあなたの秘密を知っていますよと、口にする。特別だ。私は彼女の特別なしもべになりたかった。彼女が本物の神様になろうというのなら、私が最初の信者でありたかった。

「私にとっていじめたいとか、貶めたいとかの気持ちと、助けたい、救いたいって気持ちはまったく同じものなんだよね。だから、神様とかそんな大したものじゃない」

 彼女は否定も肯定もせず、静かに微笑んだ。

「私の言葉には力がある。ふつうの人間と少し違う力。だから、なにかしなくちゃって、それだけだよ。これ、ここだけの秘密ね。純」

 彼女は悪戯っぽく舌をだして、私の名前を呼んだ。スミちゃん、という愛称ではなく名前。特別な友達としての証を、秘密を私にくれた。

「うん、秘密。千広」

 だから、私も特別な証として名前で呼び返した。私の新しい友達かみさまとなる名前だ。誰にも――遠目でこちらを伺っていた清子にも、聞こえる声ではっきりと。誇らしく、見せつけるように言ってやったのだ。ほんの意趣返し。もう、神様はお前だけのものじゃない、と。

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