2 no word
「なんとか言ってよ、名越さん」
「やめなって、こいつ『クチナシ』なんだから。可哀そうな子なんだよ。優しくしてあげないと」
中学二年になり、私は14歳になった。
私は学校ではクチナシと呼ばれている。理由は単純で、ひとことも喋らないから。あの日以来、私は自分で自分の声を奪った。二度と喋るまい、二度と声を出すまいと固く誓った。友達が死んだショックで失語症になった、と周囲は思っているらしい。すっかり変わってしまった私は両親にすら見限られていた。あの事件をきっかけにして、両親は私を避けるようになった。たぶん、私の態度が原因なのだろう。
入学当初の自己紹介で、教師から説明がなされた。ただでさえ中学生という不安定な時期だ。私という種火が舞い込んできたことに、教師は辟易としているようだった。
「名越は声こそ出せないが、それ以外はみんなと同じふつうの人間だ。なにかと大変なこともあるだろうから、手を貸してやってくれ。名越も仲良くしたいと思っているから、よろしく頼むぞ」
私は肯定も否定もせず、黙って立っていただけだった。
「ごめんなさいも言えないのね、このジコチュー」
去り際にクラスメイトが私の髪を引き抜いていった。私は痛みに対しても声をあげない。必死に舌を噛んで、声が出そうになるのを抑える。
別に私が悪いわけではなかった。不注意でぶつかってきたのは彼女の方で、私は自分の席で読書していただけ。紙パックのジュースを持っていたのも彼女だし、それを零してシャツが濡れたのも彼女のせい。彼女のこぼしたジュースですっかり文字がふやけて読めなくなってしまった本。私は黙って、ごみ箱に捨てた。
喋らなくなってから、私の心は石のように物静かになってしまった。誰に何を言われても、理不尽に晒されても、なにも感じなくなった。ただ声を出さない。そのことだけを常に考えていた。
教室の隅にうずくまるようにして時間をやり過ごす。昼食は人気のない特別棟のトイレで、咀嚼音すら誰にも聞かれないよう押し殺して食べる。
どこにいても、なにをしていても、私は押し黙ったまま。自分ひとりだけ、日の光も届かない深海の底で溺れているような感覚。私が音を拒むから、音の方も私から遠ざかって行くみたい。閉じこもれば閉じこもるほど、現実に何も感じなくなっていく。決して感じず、決して関わらず。不干渉で、不感症な私であり続ける。
「こいつ、ホントに何してもしゃべらねぇのかな」
放課後、数人の男子が私を囲んで笑う。
どれだけ私が世界と関わろうとしなくても、向こうから関わってくることがある。不遇の事故とでもいうべき事態。例え石になろうとも、存在するだけで、誰かに影響を及ぼしていることが恨めしくてしょうがない。
男の子から、男性になろうとしている男子の、遠慮のない力で投げ捨てられる本。今日読んでいたのは図書室で借りた本だったのに。弁償するしかない。私には言い訳することも許されないのだから。
私は黙ってスカートの端を握り締める。彼らにしてみれば路傍の石ころが目障りだったから、蹴り飛ばしたに過ぎない。彼らに悪意なんてものは、そもそも存在しないのだ。かつての私がそうであったように。
「クチナシのくせに、口はあるんだよなぁ」
男子が無遠慮に私の体に触れる。強い力で腕を握られ、思わずうめき声が漏れそうになる。唇に歯を立てて、死ぬ気で声を押し留める。
そのとき、ふいに割り込んでくる声があった。
「馬鹿なことしか言えねぇなら、なにも喋れなくしてやるよ」
重量のある鈍い音がして、腕を掴んでいた力が緩む。水っぽい悲鳴が足元から聞こえる。視線を移すと、滴り落ちた血とべっきり折れた門歯の欠片がみえた。私を掴んでいた男子は自分の口に手を当てて、折れた歯を慌ててくっつけようとする。容姿に多少なりとも自信があったのだろう。痛みよりも、崩れてしまった外見に混乱しているのだ。
「喧嘩は男の勲章だろ。男前な面にしてやったんだから、お礼でもいってみろよ」
いきなり殴り込んできた男子が、床に落ちた欠片を外に蹴り飛ばす。手提げに入った水筒をぶら下げる彼。躊躇なく二撃目を振り下ろそうと右手をあげる。
私は慌てて体を滑り込ませる。自分のせいで、誰かが傷つくところはみたくない。例え私をいじめていたとしても、それは私の罪がそうさせたに過ぎない。なにもかも私が悪いのだ。
隙ができたことで、私を囲んでいた男子たちは一目散に逃げて行った。歯を折られた男子も、取り巻きに抱えられて泣きながら去って行く。今時の歯医者なら、完全に元通りとはいかずとも、生活に支障のない程度には復元できるはずだ。最悪差し歯という選択肢もある。他人事ながら、私は胸を撫で下ろした。
「あんなやつら、殴ってもわかりゃしないんだ。名越が助ける価値もない。いじめられていたのはあんただってのに、とんだお人よしだな」
水筒を降ろした彼――相野隆は、呆れつつも柔らかく微笑んだ。血のついた水筒も適当に放り投げているところをみると、自分のものではなかったようだ。隆はその無骨な手で私の頭を軽く撫でる。
「怪我は?」
首をふる。こういう時、どうすればいいのかわからない。助けてくれたことは嬉しいが、彼のやり方は褒められたものじゃない。直情的で不器用な優しさ。誰もが私を無視したり、嫌悪したり、いじめたりする中で、彼だけはいつも私を助けてくれる。なぜこんな私に構うのか、理解できない。
小さく頭をさげて感謝を示すけれど、目は合わせないように俯く。頭に載った彼の手を払うと、投げられた本を拾って逃げ出す。私のことは放っておいてほしい、という拒絶を無言のままに表現する。
私のことを助けないで。これはすべて私の罪で、罰なのだから。
鬱々とした気分で図書室にたどり着く。財布のなかにある紙幣を数える。幸い高価な本ではなかったけれど、私の小遣いの一ヶ月分だ。本来なら、通学用の定期券を買う為のお金。両親に事情を説明するわけにもいかない。彼らはもう私にお金をかけることを嫌がるのだから。朝早く起きればなんとか通学できるだろうか。
カウンターに行き、司書の先生に壊れた本と紙幣を差し出す。あとはひたすら頭を下げ続ける。
「別にね、弁償しろってわけじゃないのよ。こういうこともたまにはあるしね。ただ、黙っていちゃ分からないでしょ」
先生は、なにも喋らない私に苛立ちをにじませる。彼女は私が喋れないことを知らない。学年担当でも知らない教師がいるぐらいだ、珍しいことではない。私自体を認知していないひとの方が多いし、そうなるべく立ち振る舞っているのだから仕方ない。
彼女は普段とても穏やかで、どんな生徒にも分け隔てなく接してくれるいい人だ。だから、悪いのは私だ。私の存在がひとを不快にさせ、苛立たせ、時には悪意を芽生えさせる。それでも、私が喋ってしまうよりはるかにましだ。
「すいません、おれが不注意で壊しました。ぶつかって、落ちた所を踏んでしまったんです」
後ろから現れた隆が、罪を被って勢いよく頭を下げる。
「それは本当なの?」
先生も困惑した顔でこちらを見る。なにせ、いきなり柄の悪そうな彼が、直角に腰を曲げていたから。隆は外見だけとれば、とても人に頭をさげるようなタイプには見えない。髪こそ脱色してないものの目つきは鋭く、言葉遣いは粗野、ときには煙草の匂いだってする。
私はとっさに否定して首をふった。
「彼女、違うって言っているみたいだけれど」
「先生もわかると思うっすけど、こいつは物を雑に扱うような奴じゃありません。今まで本が傷付いて返ってきたことはないはずです。こいつはおれを庇っているだけです。あと、こいつ喋らないんじゃなくて、喋れないんで。先生も気を付けてください」
重ねて否定しようとするが、隆に肩を掴まれる。喋れない私の主張は、なにひとつ説得力を持たない。おまけに私の立場まで気遣われてしまった。
「そうなの、ごめんなさい。私も配慮が足りなかったわ。今回は大目に見るから、次からはあなたも気を付けて」
「はい、すいませんっした」
隆は潔く謝罪して、その場を丸く収めてくれた。私の差し出したお金は返ってきたけれど、彼には無実の罪が着せられてしまった。
図書室を後にして、私は隆に深々とお辞儀をする。拒絶したつもりが、結局また彼に助けられてしまった。自分が情けなくなる。
『ありがとうございます。でも、放っておいてください』
手帳に文字を書いて、彼に見せる。口からでた言葉でないかぎり、言霊が宿って現実になることはない。喋らなくてもこうして意思疎通はできるが、よほどのことがなければ使わない。私は可能な限り他人との関わりを断ちたいのだ。
「本当にそうして欲しいなら、自分の口で言うんだな」
彼の意地の悪い言い分に、私はジェスチャーで喋れないことを強調する。私が喋れないことは彼も知っている。その上であえて言っているのだ。
「名越は放っておいて、っていうけどさ、矛盾している。言動が一致してないんだよな。本当は誰かに構ってほしくて、助けてほしいって思っているはずだ。自分で他人と関わらないように言い聞かせているだけなんじゃねぇの?」
そんなことあるわけがない。私は必至で首を振った。助けてもらいたいだなんて、思っていいはずがない。
「なら、どうして放課後の教室に居残ったりするんだ。休み時間も、わざと人混みのなかに居ようとする。騒いでいる奴らのすぐそばで、わざわざ読書している。本もそうだ。目立つ色の表紙の本ばかり選んで、ブックカバーもかけずに読んでいる。他人との関係を断ちたいなら、もっと目立たないように過ごすはずだ。名越はあえて集団のなかに身を晒しているくせに、他人を拒絶した異物のままでいようとする。そんな場所で石になろうとすれば、却って注目をひくに決まっている。おれからすれば、いじめられたがっているように見えなくもない」
意図していなかった自分の行動を指摘され、私は少しも反論できなかった。喋れなかったからではなく、自分の奥底に眠る欲望を見透かされた気がしたから。つまるところ、私は小学生のころと何も変わっていないのだ。どれほど落ちぶれても、まだ誰かにすがろうとしている。
「なあ、助けてほしいなら、そう言えよ」
隆はいつになく優しい声で、私をぐらつかせる。
「名越を見返りなく助けてやれる言い訳を、おれにくれないか」
彼は今までもそうだった。困っているとき、痛みに耐えているとき、頑なになろうとしているとき。私のところにさっそうと現れる。多くを語らず、行動で苦しみを和らげてくれる。お節介とか、お人よしでは説明できないほどの優しさを与えてくれる。私はそれに、つい甘えそうになってしまうのだ。許されてはいけないのに。口を開いて、言葉を紡ぎたくなってしまう。
『私に助けてもらう資格はありません』
誘惑を断ち切って、拒絶する文字を書き殴る。どう言い繕っても、私はひとを殺した。警察や法律がその罪を認めずとも、私の体にはべったりとまとわりついている。この体も心も、ひろちゃんの返り血で赤黒く沈んでいく運命なのだ。私はそれから逃げてはいけない。
「小秋千広のことは事故だった。名越が罪悪感を覚える必要はない」
ひろちゃんのことを言われて、驚いて顔を上げる。なぜ彼が、ひろちゃんと私のことを知っているのか。表情から私の言いたいことが伝わったのだろう、彼はちょっぴり肩を落として笑う。
「やっぱり覚えていなかったんだな。あのとき、クラスメイトだったんだぜ、おれたち。名越は小秋千広にゾッコンだったから無理もないか」
私は彼の顔をじっくりとみる。今まで俯いてばかりだったから、はっきりと顔をみたことがなかったのだ。生意気そうに尖った鼻と、薄い一重。相野隆。たかくん。私のいうことをよく聞いてくれる、たかくん。どぶ臭くて黒い思い出が溢れそうになる。あの頃の私はひどい人間だった。たかくんにも言うことを聞かせて、いい気になっていた高慢な子供だった。きっと、彼にも嫌な思い出に違いない。
『ごめんなさい。謝って済むことじゃないけど、あの頃の私は馬鹿で幼くて、間違いだらけでした』
「いや、謝んなよ。おれの方こそ、馬鹿な子供だったつーか。周りの奴らは名越のことよく思ってなかったけど、おれは、その……構って貰えるだけでも嬉しかった、みたいな」
私はぽかんとして、彼を見上げた。上背もあって、すっかり不良じみた彼が、真っ赤になって照れている。
「いや、そんなことが言いたいんじゃねぇ。とにかく、小秋千広のことは本当に事故だった。名越はショックで覚えてないだろうけど、小秋が事故に遭った時、反対側の車線でもうひとつ事故が起きたんだ。子供がはねられそうになって、車がガードレールに突っ込んだ。幸い死人は出なかったけど、あの時小秋からは飛び出した子供が見えていたはず。小秋千広の性格を知っている名越ならわかるだろ? その子を助けようとして飛び出した。でも、運悪く自分の方が車にはねられてしまった。不運が重なり合った事故なんだ。だれかが悪いわけじゃない」
反対車線の事故? 私はまったく記憶になかった。私はひろちゃんが死んでしまったことで頭がいっぱいになり、そのほかのことなど気にする余裕はなかった。
困惑している私に、彼は当時の新聞記事を写した画像を見せる。確かに二件の事故が同時におき、うち一件は子供――小秋千広が死亡。もう一件は運転手が重傷を負うも、飛び出した子供は無事とある。周囲の目撃情報や事故が発生したタイミングから、死亡した小秋千広は反対車線に飛び出した子供を助けようとしたとみられる、との見解が記してある。
「名越が小秋の死をぜんぶ背負う必要なんかないんだ」
脳裏に過ったのはひろちゃんの言葉だった。
『ふつうの人間に力なんてないんだよ』
彼女は私をふつうの人間にしてくれた。彼女の傍にいるときは、言霊なんかなくて、私は普通の子供でいられたんだ。本当は私に力などないのだろうか。私は普通の人間に戻ってもいいのだろうか。
「名越はもう自分の声を取り戻してもいいんだ。もう十分苦しんだろう。小秋のことも、送り出してやろうぜ」
彼の言葉が優しく頭を撫でる。どうしてだろう、彼と居るとひろちゃんの事ばかり思い出してしまう。不器用な優しさが少し似ているからかもしれない。固くひび割れた私の心がほぐれていく。涙が勝手に溢れ出す。ひろちゃんが死んでから、泣いたこともなかったのに。
隆は私が泣き止むまでずっとそばにいて、頭を撫で続けてくれた。私がひろちゃんの死を受け入れるまで、優しさで包み込んでくれていた。
私は五年ぶりに喉を震わせた。言葉にならない、いびつな声だった。
日は暮れ、涙は枯れ果てた。泣き疲れてぼうっと車のテールランプを追い掛けていた。隆は特になにかをするでもなく、ただ隣にいてくれた。
『どうして?』
どうして私なんかに構うの?
ふと、湧き上がった疑問を文字に表す。泣き叫んでいたせいで、声が枯れ果ててしまった。今まで使っていなかった分、急に酷使したから喉を痛めたようだ。
彼は意外にも、少しはにかんでそっぽを向いた。横顔にみえる耳元が、ほんのりと色づいている。
「言わなくても伝わると思ったんだけどな」
今度は私が赤くなる番だった。なにか言い訳じみたものを口から吐き出そうとしたけれど、ぜえぜえと耳障りな風が吹くばかりで言葉にはならない。長く喋っていなかったせいで、発音の仕方も忘れてしまったらしい。急激に恥ずかしくなった私は、長い髪を掻き寄せて顔を隠した。
「おれは、ずっと――」
彼の口を人差し指で塞いだ。彼が言い掛けた言葉をさえぎる。その言葉はまだ言わないで。
聞いてしまったら、きっといろんなことが変る。それほど強い力を持った言葉。だからこそ、その先は私から言わせてほしいのだ。この喉が治ったら、私がちゃんと言葉を思い出せたら。きっと私の方から言ってみせるから。感謝も、嬉しさも、もっと大切な気持ちも。隆には私から伝えなきゃいけないことがたくさんある。
慌ただしく立ち上がり、何度も彼にお辞儀をする。
『もう少しだけ、待っていてください』
私のことに整理がついたら、その言葉も言えるようになるから。
「わかった。今まで待てたんだ。あと少しぐらいどうってことない」
彼はそう言って笑ってくれた。
その夜は、空が白み始めるまで、ふたりして帰り道を惜しんで歩いた。
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