第6話 周三の災難 


 長崎ではイネは産科医として忙しくしていたころ、1通の手紙を受け取る。それは宗謙の息子石井信義(久吉)からで、宗謙の死を知らせるものであった。66歳であった。信義は成人し長崎に勉学に来たおりに、イネを訪ね、父親の非礼を詫びている。高は10歳になっていた。周三とは婚約の儀がなりたっていた。二人の間には文通も頻繁にかわされ、高はすでに妻になる自覚も出来ていた。このころ娘は15、16ぐらいで結婚するのが普通であった。


 さらに周三から驚くべき知らせが届いた。シーボルトが幕府から役職を解かれたという内容であった。シーボルトの目だった動きは諸外国の公使の反発を招いたのである。彼らにとっては、シーボルトはやっかいな存在でしかなかった。その非難はオランダ総領事にも向けられ、総領事もシーボルトを庇う気はなかった。

 シーボルトと周三が長崎に帰る準備を整えていたとき、思わぬ災難が周三に降りかかった。「尋問の筋あり」とされたのである。シーボルトが解任された今、周三は通訳に立ち会い、幕府の外交政策の秘密を、全てを知る人物とされたのである。逮捕の表向きの理由は藩士でもないのに帯刀していたことを理由とされた。シーボルトという人は、よくよく人を災難に巻き込む人のようである。


 今や、周三はイネにとっては頼りにする最大の男性であった。一人で帰って来たシーボルトを「周三を捨てて来た」となじるが、せんないことであった。シーボルトに、バタビア総督府からバタビアに帰ってくるように命令書が届いた。外交主任に任命し、将来オランダ公使として日本に派遣する道もあると記されていた。シーボルトの懸念はアレクサンダーのことであったが、なんとか英国公使館の通詞見習いとして採用される。周三から日本語を習ったことが生きたのである。再び日本に帰って来ることを夢見てシーボルトは長崎を去るのであったが、二度と日本の地を踏むことはなかった。


 本国に帰ったシーボルトは医学の発展からも取り残され、日本学者としての評価も過去のものとなっていた。ミュンヘンで、70歳で没した。シーボルトが長崎を去っていく同じ日に、シーボルトを敬愛してやまなかった二宮敬作も病床で息を引き取った。同じ日に亡くなる、二人の師弟としての深い関係を象徴しているようにイネには感じられた。自分がいま女医としての道を歩んでこれたのも、父娘の関係もなんとか断たれなかったのも、みな敬作のお陰であった。シーボルトが去ったことも寂しかったが、イネにはそれ以上に敬作を失ったことに大きな虚脱感を感じた。


 周三の釈放を願い、滝や高らと神社にしばしば足を向け祈願していたが、宇和島藩主伊達宗城侯が敬作を通じて女医イネに関心を持っていて宇和島に来るようすすめてくれていたことを思いだした。イネは周三の救出に宗城候の力を借りられないかと思ったのである。第二の故郷でもある卯之町にいくことを決意した。イネは36歳になっていた。容貌は依然として美しかったが、その顔は年とともに異国人の特徴を示すようになっていた。


 藩主に招かれ、イネ母娘は登城した。宗城候は上機嫌でイネに夫人や奥女中の医学的な相談者になることを命じた。夫人は高の初々しい美しさを気に入り、傍に仕えることをすすめた。イネは有難いこととしてどちらも受けた。そして敬作の友人であった藩の蘭学者大野昌三郎を通じて、周三釈放の件を藩侯に働きかけて欲しいと懇願した。周三は牢獄の過酷な扱いの前に死にかけるが、洋学に深い理解を持つ宗城候の働きかけや、状況の変遷によって無事釈放される。周三は宇和島藩の翻訳係として召し抱えられる。


 長崎に残してきた母滝のことも気になり、イネは宗城候に暇を乞い長崎に帰る。宗城候は周三を気に入り、夫人は高を気にいっていた。適齢期になった二人である。藩侯の計らいで婚儀を執り行う運びとなったことが大野昌三郎を通じて知らされる。宇和島には滝も同行すると云う。その年齢や長旅を心配したが、滝の意思は固かった。二人の婚儀は藩侯も出席し、浜御殿で執り行われた。イネはあふれる涙を抑えきれなかった。イネは自分にとって最も嬉しい日だ、と思った。滝も「もー、思い残すことはない」と涙した。しばらく宇和島に滞在したのち、滝とイネは満足な心持で長崎に帰った。

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