第2話 シーボルト来日


 小説の出だしは、シーボルトが乗った帆船が長崎湾の外に姿を現すところから始まる。長崎の出島に、オランダ船が入って来るのは知っていても、どのように入って来るのかは知らない。見張り番屋から狼煙があがる。それが次の狼煙、その次となって長崎奉行所に知らされる。何百という和船が長崎湾に漕ぎ出される。その、ものものしい緊迫した様子が克明に描写される。わたしはすでに、江戸時代長崎の町に入り込んでいる。この出だしの文章は秀逸である。

 鎖国の事実は知ってはいたが、貿易を許しているオランダ船にしてこれかと、いかに幕府の鎖国政策が骨幹にかかわるものであることを、読者に知らしめる。『戦艦武蔵』で感じた危惧はすでに吹っ飛んでいた。


 出島のことは教科書の絵で知る程度のことであった。町とつなぐのは1本の橋だけである。島は四方を高い塀で囲まれている。小舟の接近も杭が打ち込まれ、できないようになっていた。外国人(オランダ・唐人)は市内に出ることは禁止であった。日本人も鑑札のないものは入島できなかった。しかも入出のたびに厳しい身体検査がされた。これらは極力両者の接触を避けることによって、密貿易とキリスト教を封ずるためであった。

 女人の立ち入りはさらに厳しく、正門の傍には禁札が立てられていて、その一番に、禁制・傾城(遊女)之外(ほか)女人入る事と書かれてあった。遊女でもその身体検査を恥ずかしく思うものは多かった。


 丸山遊郭は江戸吉原、京都島原と並ぶ日本を代表する大遊郭であった。丸山の遊女は三手に分れる。日本人を相手にするもの、唐人を相手にするもの、そしてオランダ人を相手にするもの。だれもがオランダ人相手を嫌ったが、お金が良かったのと、気に入られればオンリー的に、現地妻的になれることだった。

 1.5ヘクタールの中に閉じ込められたオランダ人、唐人にとって遊女とふれ合うことは、淋しさをまぎらす最大の歓楽であると同時に、外部の空気にふれる機会でもあった。


 私がシーボルトで知っていたことと言えば、優秀な門弟を育成し、日本の医学に貢献したこと。他には、日本地図を持ち出そうとして国外追放処分にあったことぐらいである。息子たちが日本に来たこと、ましてや娘がいたことは知らなかった。来日したシーボルトは27歳。資格はオランダ公館付医師であったが、ドイツ人で、日本人通詞にそのオランダ語を怪しまれたぐらいであった。日本人通詞は、言葉はわかっても地理は分らないだろうと、オランダでも高地の地域の出身だと偽ったのである。シーボルトさん中々の役者である。

 オランダは国でも最高医学をおさめた優秀な医師として日本に紹介していた。シーボルトは医師としての仕事以外に、日本のあらゆることを克明に調べる任務が課されていた。オランダ政府は列強の日本進出を見越して、その貿易独占の優位を守るために、従来の商館長だけの報告情報だけでなく、より深く日本を調べる必要があったのである。その点でシーボルトは植物学、動物学と博物学をおさめていて適任者と認められたのである。


 シーボルトの医学の知識と技量は高く、出島以外の診療も出来るようになり、教えを乞うものも多く、鳴滝に診療所兼教習塾の設置が許可されたのである。シーボルトは出島から出られる自由を例外的に得たのである。それはシーボルトにとって好都合であった。

 当時、日本の医学知識は一家伝授の方法で、門外不出とされるのが基本であった。それが西洋の最新知識がオープンに教えられるのである。全国から俊英が集まった。壁は言葉であったが、長崎は蘭学のメッカでありその人材にも恵まれていた。


そんなシーボルトが好きになり、現地妻としたのが丸山遊郭でも美人で知られていた源氏名其扇(そのおおぎ)、本名滝であった。約束された勤務期間が終われば長崎を去っていく館員たち、しかし男と女、情も移れば、子供をなす関係にもなる。二人の間にできたのがイネであった。シーボルトはことのほか喜んだという。文政10年(1827)、滝19歳のときであった。

 滝の父親は蒟蒻(こんにゃく)商であったが、商売に失敗して、家を支えるため長女のお常が丸山遊郭の女になった。それでも子沢山のため、イネも丸山に出たのである。お常はイネまでがと悲しんだが、なにかと滝を気遣ったのである。シーボルトが去った後、滝がイネをつれて廻船業を営む時次郎に嫁げる話をまとめたのも彼女であった。



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