20210907「幻」

 VR――仮想現実。つまり、コンピュータの処理系を用いて現実を再現、もしくは理想の空間を構築したもの。VRという単語はこの数年で一般に浸透し、同時にVRを楽しむための機器も一般人が無理なく買えるような価格になった。かつてはVRコンテンツを楽しむためには大規模な施設や装置が必要だったというのに、こうやって僕のような庶民が専用のHMD――ヘッドマウントディスプレイ。小型で高解像度のディスプレイや高精度なセンサー類を搭載した、ゴーグル状の機器――とコントローラーを買って部屋の中でVRゲームに興じることができるようになったのは、何よりも技術進歩のおかげだ。重力を操るグローブを振り回し、ピストルの狙いを敵の頭に定めながら、仮想空間内で僕は究極のごっこ遊びに興じていた。やっぱりよくできている。このゲームシリーズの第三作目が出る前にVR向けに新作が出るとは思っていなかったけど、この出来なら大満足だ。

 

 HMDを外して、ふと部屋を見回す。2メートル四方のスペースを確保するのには苦労したけど、その分の見返りはあったと思う。僕は部屋の隅に追いやられた中古のオフィスチェアを手繰り寄せて腰を下ろし、PCでSNSのトレンドをさっと確認した。やれ政治家の汚職だの企業の不正だの、そういう内容ばかりだ。今日もインターネットは怒りに溢れている……そう感じながら画面をスクロールさせていると、見慣れない単語がトレンド入りしていることに気づいた。どうもVR技術を用いて開発されたメタバースSNS……要は好きなアバターを使用して交流するサービスで、大規模な催しが開かれているらしい。そういえば、そういうメタバースSNSには触れたことがなかった。今僕が持っているようなVR機器が一般に買えるようになったとき、最初にネットで話題をさらったのはこういうメタバースSNSだったはずだ。好きなアバターを使って理想の自分になって、インターネットの誰かと交流する。古くはネットゲームで行われていたようなことだけど、没入感の高いVRだからこそ盛り上がる一面もあるのだろう。せっかく機器があるのだし、そういう場に飛び込んでみるのもいいかもしれない。そう思い立った僕はさっそくソフトをインストールして、再度HMDを装着した。

 

 メタバースSNSと言っても、作りは普段遊んでいるVRゲームと変わりない。プレイヤーの腕や指の動きはコントローラーでトラッキングされて、現実の頭の向きとアバターの頭の向きは完全に同期される。自分の体の動きがそのまま仮想空間での動きになるのだから没入感は自ずと高くなる。僕はSNSのソフトを起動して最初に見える空間で軽く体を動かして、トラッキングの調子を確認した。画面にポップアップしたチュートリアルの表示を見るにその空間には鏡となるオブジェクトが置かれていて、どうやら自分のアバターの見た目を確認できるらしい。僕はさっそく鏡の前に立って身だしなみを確認した。いかにもデフォルトらしい、バタ臭いアバターだ。そこで再度チュートリアルの表示が出された。アバターを切り替えるためのメニューがあるから、そこで好きなアバターを見つけろという内容のものだ。コントローラーのボタンを操作してメニューを開くと、使用できるアバターの一覧がずらりと現れた。全部見ていてはそれだけで一日が過ぎてしまうような量だ。僕は一覧を流し見しつつスクロールさせて……おっ、と声を上げた。いかにも日本的な、かわいらしい女の子のアバターだ。細身の身体の上にだぼだぼのズボンとサイバー風味に味付けされたパーカーを羽織っている。自分好みのデザインだから僕はすっかりそのアバターを気に入って、VR空間で使うかりそめの身体とした。まあ、かわいい女の子の中身が普通の男というのは昔からインターネットではよくあることだし構わないだろう。

 

 アバターを選んだあと、僕はまたもポップしたチュートリアルの表示に従って"初心者向けのワールド"に移動した。ワールドというのはゲームで言う"ステージ"みたいなもので、このSNSではさまざまな種類のワールドが公開されているらしい。人との交流のついでにゲームなんかもできるんだろうか、と想像を膨らませながら初心者向けのワールド――守るべきエチケットや基本的な操作方法が案内されているようなところだった。ギミックとして目を見張るところはあまりなかった――をふらついていると、誰かの声が聞こえた。

 

「はじめまして。君、初心者の人?」


 ハスキーな女性の声だった。どうも僕に話しかけているらしい。僕は、あ、どうも、と言おうとした……正確には言ったのだが、彼女――声の感じから仮に彼女としておく。おかっぱ風味のボブカットにワイシャツ、そしてサスペンダー付きのスラックスを履いた中性的なアバターで、性別の判断がつきにくいし、中身は多分男性なんだろうけど。それに、声なんてボイスチェンジャーでいくらでも調整できてしまうのに――には聞こえていないようだった。このSNSでは、デフォルトではHMDに接続されたマイクが無効化されているらしい。それを有効にするにはどうすればいいのだろうか。僕は身振り手振りでなんとか伝えられないかと、腕だの指だのを動かしてみた。

 

「ああ、ミュートの解除はクイックメニューからできるよ。マイクにばってんのマークがついてるでしょ」


 それを聞いた僕はメニューを開き、コントローラーのポインタをマイクのアイコンに合わせ……ミュートを解除した。これで一応声は入っていることになるが、確認のために彼女に尋ねてみた。

 

「これ、声入ってますか?」

「入ってるよ。おめでとう、これで初心者卒業だね」

「あはは、どうも……あ、はじめまして」


 彼女の砕けた口調にすこし戸惑いながらも、僕は挨拶を返した。それを聴いた彼女は、いや、彼女のアバターは表情をぱっと明るくさせて、ひらひらと手を振った。

 

「はじめまして。こういうとこでたまに初心者案内してるお節介焼きです。よろしくね」

「あ、よろしくお願いします……それ、表情変えられるんですね」

「君のもできるはずだよ。コントローラーを触ってごらん……そうそう。今、泣き顔になってる」


 表情の変更のチュートリアルは受けていないから、僕は手元のコントローラーをいろいろと操作してみて彼女に自分が今どんな表情を教えてもらった。どのボタンを押すとどういう表情になるのか、頭の中でマッピングができた辺りで彼女は少し考え込むようなポーズを取った。VR空間では腕や体の動きがアバターと同期されるから、彼女は現実世界でも同じポーズをしている事になる。そう思うと芝居がかっているというか、こういう"なりきり"に入れ込むタイプなのかもしれない。ゆらゆらと身体を揺らす姿を見ながらそう考えていると、不意に彼女が口を開いた。

 

「やっぱり、最初はお互いの事を知るのがベストかな。おしゃべりに向いてるところがあるんだけど、どう?」


 そう言いながら、彼女はもう他のワールドに行くためのポータル、つまり通り道を作成していた。断れるような空気ではないし、それに僕自身悪い気はしない。誰かに歓迎されるというのは現実でも仮想現実でも嬉しいものだ。僕は彼女に促されるままポータルに入って、その先にあるワールドへ移動した。ロード画面がフェードアウトして目に入ったのはテラス付きのコーヒーショップだった。テラスや店内に置かれた座席には色とりどりのアバターが座って、楽しげにおしゃべりをしている。

 

「こういうところ好きなんだよね……ああ、あそこ空いてる。座ろっか」


 彼女が指差したテラス席で、僕達は向かい合って座った。そこかしこから楽しげな声が聞こえてきて、人の見た目が現実とは大きく異なる点を除けば現実のカフェのようにも思えた。空は真っ青で、いくつか雲が浮かんでいる。さんさんと照っている太陽を見ていると、なんだかきんきんに冷えたアイスコーヒーが飲みたくなってきた。

 

「ここに来ると、冷たいコーヒーが飲みたくなるんだよね。ガムシロップをちょっと垂らしてさ」

「ああ、わかります」

 

 そこで僕達は、初対面ながらいろいろとおしゃべりをした。まずは、アイスコーヒーにクリームを入れるかどうか。その後にこのSNSにやってきたきっかけや、最近やっているVRゲームの話。好きなファストフードのチェーンや最近読んだ本についての話もした。なんだか一貫性が無いというか話題が飛び飛びになっているような気もしたけど、彼女のするりと距離を詰めてくるような口調や態度が心地よくてすっかり話し込んでしまった。ふと気づくと辺りの人はまばらになって、空席もちらほら見受けられるようになった。メニューを開いて時刻を確認すると、彼女と出会ってからもう2時間も経っていた。僕は人見知りをするタイプではないけれど、初対面の人とこんなに話し込むのは初めてだ。そろそろいい時間だしお暇します、と言うと、彼女は残念そうな顔をした後、すぐに明るい表情に戻って、私が好きなワールドを見ていってほしい、と言った。感情にあった表情にすぐ変えられるのは、やっぱり慣れているからなのだろうか。彼女が開いたポータルに入ると、辺りの景色は広々とした和風の部屋に変わっていた。"旅館の部屋"にどういうイメージがあるか日本人全員にアンケートを取って部屋を作るとこうなるだろう……そういう空間だった。彼女は部屋の奥の広縁――旅館の部屋には大抵ある、小さな机と椅子が用意されている"あのスペース"のこと――に置かれた椅子に座って、窓の外に目を向けた。僕はもう一つの椅子に座って、彼女の方を見ていた。

 

「こういう場所で考え事をするのが好きなんだ。静かでいいでしょ……『堀川』ってお香、知ってる?」

「え? いや……初めて聞きました」

「子供の頃に行った旅館で使われてたお香なんだ。そのお香を焚いて、ここに座ると……身体から魂が抜けだして、自由になれてる気分になるの」

「はあ」


 なんだか彼女の深いところに立ち入らされている気がして、僕は少し身構えてしまった。初対面の相手にこんなこと言うものだろうか。ただ、彼女のアンニュイな表情を見るに冗談で言っているわけではなさそうだった。アニメ調で作られたアバターなのに真に迫った、生きた人間のようなその表情を見て僕は彼女自身と彼女のアバターを同一視するようになってしまった。

 

「……話し相手がいると、なんでも話しちゃうな」

「え?」

「ううん、なんでもない」


 結局その後僕達は2、3の会話を交わして、お互いログアウトした。別れ際に彼女は、いつでもログインしてると思うからいつでも呼んでね、と言って、手をひらひらと振っていた。もしかすると、僕は初日からすごい経験をしたのかもしれない。次の日、なんとなく彼女の事が気になってHMDを被ると、別れ際の言葉通り彼女はログインしていた。メニューからの機能で彼女がいるワールドに参加すると、昨日と同じ旅館の一室が目の前に広がった。

 

「お。やっぱり来たね」


 そう言って彼女は広縁に座ったままひらひら手を振って、僕に挨拶をした。

 

 それからほとんど毎日、僕と彼女はVR空間で顔を合わせた。このSNSの右も左もわからなかった僕に彼女はいろいろなワールドとSNSの楽しみ方、それから何人かの友人を紹介してくれた。みんな楽しい人達で、全員で連れ立って同じワールドに遊びに行ったりもした。文字ベースのSNSよりもずっと早く打ち解けられてすぐに仲の良い友人のような関係になれるのは、声と身振り手振りのコミュニケーションができるVRならではだと思う。ただ、何人か共通の友人ができても僕と彼女はよく二人きりでワールドを散策していた。彼女がどういうつもりなのかはわからないけど、どうやら彼女は僕の事を気に入ってくれたらしい。僕も彼女の低めの声やころころ変わる表情、時折見せる気だるげで気分屋な一面に触れ続けていたからか、自然と彼女のそばにいると落ち着くようになっていた。いろいろなワールドを巡って、一日の終わりにはあの旅館の広縁でとりとめのない会話をして……そういう交流を繰り返して、半年ほど経ったある日の事。彼女が目をきらきらさせながら――比喩ではない。本当にアバターの目がきらきらしていた――、僕に一枚のチラシ状のオブジェクトを渡してきた。それには、なんだか懐かしさを感じるようなフォントで"花火大会"と書かれていた。

 

「VRで花火大会?」

「そう。専用のワールドを用意して、みんなでお祭りを楽しむの。楽しそうでしょ?」

「へえ……いつやるの? 来週とか?」

「今日からもうやってるよ。行ってみない?」


 そう言って、彼女は移動用のポータルを開いて……すぐに閉じてしまった。どうしたの、と聞いてみると、彼女はプライベートなボイスチャンネルで――このSNSは1対1で会話ができるシステムが用意されている。誰にも聞かれない秘密の会話だ――小さな声で話しかけてきた。

 

「オンラインステータスは隠そうか。いい?」


 オンラインステータスというのは自分が今ログインしているか、そうであればどこにいるかなどを友人に知らせるための機能だ。これを"隠す"という事は、ログアウトしているふりをしながらワールドをふらつくことになる。彼女の意図がわからなかった僕は、戸惑いながら言葉を返した。

 

「いいけど……なんで?」

「二人っきりがいいから。友達とか来ちゃうと興覚めだし」


 彼女はあっけらかんと答えたけど、正直なところ僕はどきりとしてしまった。いや、確かにその通りだ。わざわざオンラインステータスを隠してログインするということは、SNS上の友人に知られずに何かをしたいということになる。僕と二人きりになって友人との合流を避けたいのなら、僕と彼女のオンラインステータスを隠すのが手っ取り早い。でも、どうして僕が? 答えの分かりきった疑問だった。僕が彼女の傍にいると落ち着くように、彼女も僕の事を気に入ってくれているのだ。多分だけど。そう考えないと辻褄が合わない態度を見せつけられて、僕はどぎまぎしてしまった。こういうふうに堂々と好意を見せつけられるのは初めての事だったのだ。仮想空間で出会った顔も性別も知らない相手だけど、そういう相手から好意を向けられてどぎまぎしてしまうほど、僕は彼女に入れ込んでいた。僕は彼女に言われた通りオンラインステータスを隠蔽する設定をオンにして、彼女が作り直したポータルをくぐった。ポータルの先はいかにも夏祭り然とした飾り付け――提灯やきらびやかなライトに、なぜかチョコバナナ型のオブジェクトまで――がなされた、夜の大通りが広がっていた。大通りの左右には出店がずらりと並んでいる。

 

「おお、それっぽい!」


 彼女はそう言って辺りをぐるぐると見回していた。はしゃいでいる姿がなんだか微笑ましい。僕はここまでオブジェクトを出しながら処理落ちを起こさないことに感心しつつ出店を眺めていた。店先にはアバターに装着できるようアクセサリーの類がずらりと並べられている。いかにもお祭りらしいかき氷や綿あめに、SNSの公式キャラクターのお面に……いつの間にか隣に立っていた彼女が、そのうちのひとつ……ペンデュラムのような形をした綺麗なイヤリングをしげしげと眺めていた。

 

「これ、君に似合うんじゃないかな」


 そういって彼女はそのイヤリングを手に取って、僕の耳に――正確には、僕のアバターの耳に――つけようと顔を近づけた。僕はクローズアップされた彼女の顔にどきりとしてしまって少し後ずさりしようとしたけど、彼女が小さくつぶやいた言葉を聞いて動けなくなってしまった。

 

「動くと着けられない。じっとして」

「あ、や、はい」


 僕が使っているデバイスには触覚フィードバックの機能はついていない。ましてや、何も装着していない耳に何かを感じるわけがない。なのに僕は、耳の先に彼女の細い指が触れるのを感じた。首筋にぞわりと痺れるような感覚が走る。現実の人間に触れられた時もこんな感じなのだろうか。僕が惚けていると、彼女は満足そうな表情をして頷いた。

 

「うん。やっぱり似合ってる」


 その後、僕達は出店を冷かしながら花火が上がるのを待った。ただ僕はさっきの触られた感覚がずっと耳に残っていて、正直出店どころではなかった。存在しない彼女の指が現実の僕の耳に触れ、消えない"痕"を残してしまった気さえしていた。まだ耳の先が熱を持っている。彼女もそれを察していたようで悪戯っぽい表情でにやにやしながら、もう一度触ってあげようか、と言っていたけど僕は固辞した。もう一度触られたら、今度は地面にへたり込んでしまいそうな気がしてならなかったのだ。その後しばらくして、古臭いスピーカーの音質を上手に再現した声で花火の打ち上げを開始するというお知らせが流れた。僕達は周りの人に混じって、大通りの上で空を見上げた。どん、という大きな音とともに、ほんの少しネイビーブルーが混ざった黒い空をキャンバスとした明るい花が咲いた時、不意に彼女がプライベートチャンネル越しに呟いた。

 

「こういう時、恋人同士なら手を繋ぐんだろうね」


 そう言って彼女は少しだけ僕の方に手を伸ばした。さっき僕の耳に触れた細く長い指が、何かを求めるようにくいくいと動く。僕も少しだけ手を伸ばして、自分の手と彼女の手が重なり合うようにした。このSNSに、お互いの手を繋ぐという機能はない。手を繋いでいるように見せるには、お互いの手の位置がずれないように気を遣う必要がある。僕にはその"気を遣う"という行為がとても愛おしく尊いものに思えた。僕達の手が重なっている間、僕達の心や魂と言ったものも重なり合っているのだ。コントローラー越しに存在する彼女の手の感触を想像しながら、僕は首が痛くなるまでずっと空を見上げていた。何度も花火が打ち上って、その度に消えていった。

 

 彼女と仮想のお祭りを楽しんで何日かが経ってから、急に彼女がSNSにログインしなくなった。これまではいつログインしても彼女はあの広縁にいたのに、今はいつログインしてもどこにもいない。彼女の紹介で知り合った友人たちも皆心配そうにしていた。僕はなんだか取り残されたような気持ちになってしまって、なるべく気取られないように振る舞ったけど、頭の中で常に彼女の事を考えていた。インターネットで知り合った関係なんて儚いものでこういうふうにログインが途切れればそれきり関係も途切れてしまう。そのことはわかっていたつもりだったけど、安心できる存在がどこか遠くに行ってしまったのはつらかった。それから僕もログインが途切れ途切れになって、2か月程が過ぎた。彼女がいない仮想現実にも慣れてきたある日、メニュー画面に見慣れない通知が届いた。彼女からの、ワールドへの招待通知だった。彼女のIDを見た瞬間、僕は胸をぎゅっと締め付けられるような感覚を抱いた。何があったのか聞きたい気持ちでいっぱいだった僕は、彼女が嫌がらないようにオンラインステータスを隠したうえで招待されたワールドへ向かった。僕の前に姿を現すでもなく招待を送るだけなのだから、きっと前のように二人きりになりたいのだと思う。

 

 招待されたワールドは、いつもの旅館の部屋だった。そして彼女はいつも通り広縁に座って、僕にひらひらと手を振っていた。彼女の変わらない姿を見た瞬間僕はほっとして、深くため息をついてしまった。

 

「年寄りっぽいよ、そんなため息」

「……結構心配してたんだけどな」

「あはは、ごめんって」


 彼女の姿は変わっていないし、雰囲気も変わっていない。僕はてっきり彼女の身体に何かあったのではと思っていたけど、そういうわけではないらしかった。それから僕達はいつものように取り立てて中身のない会話をして、何度も笑い合った。僕は自分が久しぶりに肩の力を抜いてにへにへと笑っていることに気が付いた。彼女のいない空間に慣れたつもりでいたけど、やっぱり僕には彼女が必要だったんだ。ころころ変わる普段通りの彼女の表情を見ていると、そう思わずにはいられなかった。

 

 そうしてお互いとりとめのない会話で笑い合った後、静かな沈黙が訪れた。彼女といると沈黙でさえ心地いいものに感じられる。そしてその沈黙を破ったのは彼女だった。

 

「ひとつ、言っておかないといけないことがあるんだ」

「何? あんまり暗い話じゃないと嬉しいんだけど」

「あはは……まあ、暗い話かも。私ね、もうここには来ないと思う」


 僕はひどく気の抜けた声で、はあ、と漏らしてしまった。

 

「来ないって、どうして? 何かトラブルでも……」

「トラブル……ってわけでもないんだけど。まあ、ちょっとね」


 それ以上彼女は何も言わなかった。張り付いたような笑顔のままで、窓の外を見続けていた。僕は困惑しきってしまって、一体どういう言葉を投げかければ彼女の真意を確かめられるのか考えたけれど、何も答えは出なかった。心のどこかで、"言いたがらないという事は、自分にとって何か不幸な事なのだ"と言っている僕がいた。いや、それでもいい。結果的に僕が傷つくことになっても、彼女がなぜそう言っているのか確かめたい。そう思って言葉を紡ごうとしたけど、できなかった。"無理に聞き出して彼女が傷ついたら"と思うと、できなかった。そこからまたしばらく沈黙が続いた。重苦しかった。仮想空間の中の息が詰まりそうな空気すら実体を持っているように感じられて、僕は文字通り押しつぶされそうになった。その中で僕はやっとの思いで声を出した。

 

「言いたくないってことは、聞かれたくない事なんだと思うけど……話してくれたって、いいのに」

「……ごめんね。本当に」


 結局、僕は毒にも薬にもならない言葉しか言えなかった。そう思った瞬間、不意に彼女と見た花火を思い出して、僕は頭によぎった考えをそのまま口に出していた。

 

「じゃあ、花火を見に行こう。前に見たやつ」

「……え?」

「あの花火をまた一緒に見たら、君が言ってることがわかる気がするんだよ。多分……多分あの時、僕と君は通じ合ってたから」


 それを聞いた彼女は、表情を変えないまま少し宙を見上げて、そのまま俯いてしまった。そして小さな声で、こう呟いた。

 

「あのワールド、もう無くなっちゃってるよ」

「え……」

「期間限定だからね。見れるのはまた来年……多分、来年には見た目も変わってるかも」


 彼女がそう言って、再び沈黙が訪れた。僕達を繋いでいたものはもう無くなってしまったのだ。

 

 それからしばらくして、彼女がすっくと立ち上がった。彼女はメニューを操作するような動きをしてひとつため息をついた後、僕の方を見てこう言った。

 

「もし、また会えたらさ。今度は君の事を抱きしめるよ」


 そう言って彼女はSNSからログアウトして、それっきり僕の前に姿を現すことはなかった。

 

 今でも、たまに彼女の事を思い出すことがある。初めて会った時の事や、一緒に回ったワールドの事。そして、彼女と重ねた手の事。それらを思い出すたびに僕はなんとかして彼女の存在を証明したくなったけど、それはできなかった。アカウントという痕跡を消してどこかに行ってしまった彼女は幻のように、その存在を証明できないものになっていた。初めて会った時に言っていたお香を部屋で焚きながら、僕はあの旅館の部屋のワールドで広縁に座っていた。目の前に座っていた彼女はもういないし、その存在を証明できるのは思い出話くらいしかない。でも、僕の耳の先に残った感覚と僕のアバターについたイヤリングはまだ残っている。僕の現実の身体と仮想の身体両方に、彼女の残り香が残っているのだ。僕は自分の耳先を弄ぶように触った。僕に触れた彼女の感触は、まだここにあるんだ。

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