20210906「感動」

 感動

 

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「卒業式で泣いたことって、ある?」


 僕の目の前に座った女性はテーブルの脇に置かれたスティックシュガーをどさどさとホットコーヒーに投入しながら、何か深刻なことに向き合っているかのような口調でそう言った。彼女は僕の友人で時折こうしてお気に入りの喫茶店で一緒にコーヒーを飲むような関係なのだけど、未だにこういう会話の切り出し方には慣れない。本気でそのことを気にしているのかそれとも単純に"それらしい"だけのポーズなのか、判別がつきにくいからだ。僕はクリームをコーヒーに投入して、マドラーを使って静かにかき混ぜながら考えた。言われてみれば、多分僕もそういう経験はない。たとえば高校の時はクラスメートの女子やスポーツ系の部に入っていた男子は泣いていたと思うけど、僕はそういう歓喜の輪に入ろうとしないタイプだった。大学の卒業式はそういう雰囲気ではなかったしノーカウントとして、小学校と中学校では……覚えていない。つまり、印象に残らないような式だったということだと思う。クリームとコーヒーが混ざり合って綺麗なブラウンになったあたりで、僕は口を開いた。

 

「ないと思う」

「よかったあ……私だけじゃなかった」


 そう言って彼女はゆっくりとカップを持ち上げ、ほんの少しだけコーヒーを啜った。まだ熱いらしい。僕はコーヒーを一口飲んで、ため息をひとつついた。身体の芯にじんわりと温かい液体が染み込んでいく感覚。ほんのりと痺れるような感覚が身体の表面を伝った。

 

「ネットを見てたら、今日が卒業式だって書き込みがいくつかあってさ……みんなキラキラしてた。なんか若者っぽくて元気って言うか、いろんなことに対してピュアって言うか。そういうのを見て自分のことを顧みた時……」

「卒業式で泣いたことが無かった、と」

「そう。私にはそういうキラキラした学校生活が無かったなあって」


 安心したようにへらへらと笑いながら、彼女はお冷が入ったコップを弄んでいた。僕と同じ年齢のはずなのになぜか彼女は幼く見える。彼女が笑ったときの表情はやけにピュアで、無垢な印象まで感じさせるのだ。甘党な上に猫舌というのもそういう印象を与えているのかもしれない。その割に言う事は薄暗くて後ろ向きで、どこかアンバランスだ。彼女の精神面が妙にスれているのには何か秘密があるのだろうか。「卒業式で泣いたことがなく、自分にはきらびやかな青春が無かった」と考えるほどにスれているのか、そう考えるような性格だからスれてしまったのかはわからないけれど。

 

「そういえば、そんな歌があったね。『卒業式で泣かないと冷たい人と言われそう』……ってさ」

「何それ、知らない……でも、それは実感あるなあ。他の人から見たら、私ってそういう印象だったのかも。でも、実際のところ卒業式で泣くなんてあり得るの? 学校生活の思い出で泣くことなんてあるのかな。だって、文化祭も体育祭も全部退屈だったし」

「僕にも結構覚えがあるけど……それって多分、あー……」


"そういう事を大っぴらに言ってしまうようなタイプだから、人との交流が持てずに思い出だって作れないからだろう"と言いかけて、やめた。別に彼女を傷つけたくてこの言葉を考えたわけではないし僕自身そういう節があるけれど、この言葉は人にぶつけるには少し鋭すぎる。こういう言葉は他人に投げかけるのではなく、さっさと土に埋めて忘れてしまった方がいい。なんだか自分まで惨めになってくるからだ。しかし彼女は、持ち前の察しの良さを発揮して――彼女は妙に勘が鋭いところがあるのだ。"君と私は同じタイプだから、考えることは大抵わかる"とは言っていたけど、それにしたって心を読まれている気分になるほど僕の考えを当ててくる――、僕がしまった言葉を無理やり取り出して、自分の口からそれを発した。

 

「そういう事言っちゃうから友達もできなかったんでしょ、ってとこかな」

「……そんなとこ」

「やっぱり。私と同じこと考えてたんだ。いやね、私も何となくわかってはいたんだけど……やっぱり、君と話してるとなんだか自分自身と話してる気分になるよ。ちょっと感動しちゃうな、こんなに思考回路が似てるなんて」


 彼女はにへにへと笑いながら髪をかき上げて、コーヒーに息を吹きかけた。小さな手でカップを包んでいる姿を見ると、やっぱりどこか未発達な印象を抱いてしまう。成長の途中で身体の進歩だけ止めてしまって精神だけむやみに成長させたような、そんな歪さがあるように思える。その彼女に親しみを覚えている僕も相当に歪なのだろうか。

 

「まあ、いわゆる『ネクラ』として学校生活を送ってた者同士として分かり合える部分はあるね」

「でしょ。私達、やっぱり似た者同士なんだよ」


 似た者同士、という言葉を拾い上げて、少し考えこむ。それは僕と彼女の精神性に限った話なのだろうか。それとも、僕にも彼女のような歪さがあるということなのだろうか。僕が抱いている彼女への歪な印象を打ち明けて、彼女が抱いている僕への印象を聞き出そうかと思ったけど、やめた。"君のここが歪だ"と面と向かって言われては、多分僕は少し塞ぎこんでしまうだろう。僕はそういう性質だ。もしかすると彼女もそうかもしれない……と思ったけど、さっき僕が収めた言葉をそのまま無頓着に発したあたりそんなこともないのだろうか。

 

「私、人が作ったものには感動できるんだ。本とか映画とかそういうのね。でも、人そのものとの交流で感動したことがないから……それは、人との交流っていうものを疎んでるからなのかな。だって、こういう話をしていい顔をする人っていないでしょ? 黙って聞いてくれるのだって君くらいしかいないし」

「まあ……君が言う事は、僕にも思い当たる節があるから。冷めた子供だったってわけではないけど、なんていうか……僕と彼らは違うんだな、っていう気持ちは感じてたかも。僕とは多分脳の作りからして違ってて、お互い分かり合う事なんてないんだろうなって思ってた」

「そうそう、その気持ち。やっぱり私達は似た者同士だ……はあ、やっと脳の作りが同じ人と会えたのかも」


 にこにこと笑う彼女に"似た者同士"と評されるのは悪い気分ではなかった。多分、学生の頃の僕達に足りなかったのは感動というものを処理する器官の発達ではなくて、感動を感じるまでの積み重ねだったのだろう。自分と同類の人間を探し当てて少しずつ交流し、何か大きなことをやり遂げるというわけではないけど何事もない時間を共に積み重ねるような……そういう積み重ねがなかったから、卒業式で泣かなかったのだと思う。そう考えをまとめたところで、また別の考えが頭をよぎった。もしも、何かの理由で彼女とのこの時間から卒業しなくてはならないとき、僕は泣くのだろうか。自分の事を同類と認識してくれる友人と離れ離れになるとしたら、僕は泣くのだろうか。頭の中でシミュレートしてみたけどよくわからなかった。喧嘩別れにせよなんにせよ、彼女と離れ離れになるという想像がつかないのだ。こうやってコーヒーを飲んで他愛もない話をする関係が終わる景色を、僕は想像できなかった。僕は少し困ってしまって、ふと彼女の方に目をやった。彼女はまだ、にこにこと満足げに笑っていた。

 

 そうしてまた他の話に花を咲かせてしばらくした後、僕達は喫茶店を出た。もうすっかり秋の気候だ。半袖だとそろそろ肌寒くなるかもしれない。ほんの少しだけ高くなったように見える空を見上げていると、彼女が僕の服の裾を引っ張って呟いた。

 

「君と私は似た者同士って言ったけど、ひとつ違うところがあったね」

「えっ?」

「私は思ったことをすぐに口に出すけど、君は自分の中にしまっておくタイプでしょ。それが悪いわけではないし、むしろ思慮深いって言われるべきだと思うけど……やっぱり、君の意見が聞きたいな。私はね」


 彼女はそう言って僕の背中をポンと叩いて、最寄り駅の方に駆け出して行った……と思ったら、2、3歩進んだところでくるりと振り返って、僕の顔を見ながらこう言った。

 

「私は泣いちゃうと思うよ。じゃあ、またね!」


 そう言って、彼女は今度こそ駆け出して行った。僕はなんだか全身の力が抜けてしまったようで、その場に立ち尽くしてしまった。ああ。多分僕も泣いてしまうんだろうな。青春をやり直してるわけではないけれど、僕はこの歳になって初めて、何かに感動するだけの積み重ねができたのだな。

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