20210902「満月」

 満月


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 秋というのは毎年いきなりやってくる。つい昨日まで暑かったのに急に冷え込んで、急に空が高くなって、月が綺麗に見えるようになる。もう25回目の秋だけど、急にやってきて急にいなくなるこの季節にはいまだに慣れない。俺はその日クローゼットの奥にかけてあったカーディガンを羽織って、住処である部屋のベランダから丸い丸い満月を眺めていた。数年前から手放せなくなったエナジードリンクを啜りながら空を見上げていると、少しずつ感覚が鋭敏になっていく気がする。カフェインの影響だろうか。肌を撫でる冷たい風が俺自身の輪郭を強調して、自分がここに立っていることを再認識させられる。この街にやってきてから3年ほど。ふと振り返ると遠いところまで来てしまったように感じる。故郷が数キロメートル圏内ならいざ知らず、新幹線や飛行機を使わないといけない距離になってしまった以上、さっきの風が故郷にも吹くということはないんだろう。エナジードリンクをまた一口啜って舌の上で転がす。少し肌寒いし、もっと暖かい飲み物の方がよかったかもしれない。

 

「お待たせ。買ってきたよ」

「おう。ありがと」


 部屋から同棲している彼女がするりとベランダに出てくる。俺より一回りも二回りも小さい彼女の手にはコンビニのレジ袋がぶら下がっていた。中から出てきたのはペットボトル入りの甘いカフェオレと、紙箱に入ったクッキー。「月光」の名前を冠したそれは、今日のおやつとしてはぴったりだろう。

 

 彼女と暮らすようになって1年と少し。何度か喧嘩もしたしお互いの"信じられない"振る舞いを目にしたりもしたけど、そのたびに話し合って、時には罵倒しあって……どうにか適切な距離感を探し当てることができた。自分も相手も心地いい距離を保った上で一緒に暮らせているのは幸せなことだと思う。その彼女とたまにやるのが、ベランダでおやつを食べながらお喋りをするという行い。移り変わっていく季節を肌で感じながらとりとめのない会話をするというなんでもない行為だけど、俺にとっては愛おしい時間だった。一日中パソコンと向き合ってキーボードをたたく仕事をしていると、時折こうしないと自分自身もバイナリコードに還元されていく気がしてならないのだ。

 

「エナドリとクッキーって合うの? 食べ合わせ悪そうだけど」

「合わないよ。カフェオレ、一口ちょうだい」

「あとでね……はい。食べよ」


 彼女が差し出してくれたクッキーを受け取って、一口齧る。バターと卵と砂糖で作られたシンプルな味わいがふんわりと広がった。子供の頃はチョコチップクッキーだとかクリームをサンドしたものだとか、そういうクッキーが好きだったのに、今はこういうシンプルなのが好きなのはなぜだろう。大人になるとはそういう事なのだろうか。一口分欠けたクッキーを空に掲げて、黄金色の満月と比べてみた。惑星よりもずっと大きな巨人が月を齧ったら、このクッキーのように欠けてしまうのだろうか。隣の彼女はいつの間にかクッキーを一枚平らげて、カフェオレをくぴくぴと飲んでいた。俺は手元のクッキーを眺めながら、昔受けた国語の授業の内容を思い出していた。

 

「やっぱりクリーム入りのカフェオレはいいねえ。甘いのが一番だよ」

「……不完全美」

「え?」

「昔、学校で習ってさ。松尾芭蕉とか千利休とか、そういうのに惹かれてたって」

「ふうん……あ。欠けたクッキーが欠けた月に見えたってこと?」

「うん」

「おおー。だんだん私も慣れてきたよ、君はそういうの多いから」


 少しだけ欠けた月。自然のあるがままに咲いた花。完全に統制され調整を加えられたものよりも、自然のままに"乱れた"ものこそ美しいという考えは、古くから日本の文化に根付いていたらしい。ただ、俺にはどうにも受けいられなかった。そのままの姿を慈しむという気持ちはわかるけど、美しいものをより美しく見えるように調整と統制を加えたモノの方が尊く感じる。いつか自分が歳を取って、チョコチップクッキーよりバタークッキーの方がありがたくなるのと同じように不完全なものの方が美しく感じるときが来るのだろうか。クッキーをもう一口齧ると、さっきまで十六夜の月――満月から一日経った、少し欠けた月――だったクッキーが下弦の月になってしまった。もし千利休がお茶請けにクッキーを出されたら同じことを考えるかもしれない。このお菓子はなんと風情があるんだ、と。さすがに、このエナジードリンクは飲まないだろうな。

 

「不完全な、自然のままのものが美しいって考え方らしい。俺にはよくわかんないけど」

「君はそういうの苦手そう。まあ、そういうのは一度満たされた人にしかわかんないんじゃないかな。片や高名な俳人で、片や天下人お抱えのバーテンみたいなものでしょ。この世の贅沢を体験しきるとか、人の嫌なところをたくさん見たとかがあって……最後に、そういうのに辿り着いたんじゃないかな」

「それはありそうだなあ……」

「それか、綺麗なものが壊れていくのを受け入れるために、とか」

「……欠けてしまったから美しくない、って思うのが辛すぎたのかな」

「だと思うよ。だって江戸時代とか戦国時代とか、今よりも厳しい時代だったんだろうし」


 半月になったクッキーを頬張って咀嚼する。生きるとはこういうことなのかもしれない。型に充填されて満ちたクッキーの素材は、いつかこんがりと焼かれて少しずつ食べられていく。いずれ物事というのは満ちて、それに満足した途端に欠けていく。そういう虚しさを何度も経験して、彼らは欠けたものへの愛情を募らせていったのだろうか。俺にはまだよくわからないし、そういう思いを抱くほどに何度も何かを失うという経験もしたくない。素直にそう思って口に出してしまった。

 

「あんまり分かりたくないな。そう思うようになるほど何かが欠ける経験をするのって、多分辛いよ」

「だよね……私もこのクッキーをたくさん食べて失い続けたら、欠けたクッキーが好きになるのかな?」

「太るだけだろ」


 何かを失う経験なんてしたくない。そう思うのは、この時間がとても愛おしいからだと思う。エナジードリンクを煽りながら見上げた満月にはほんの少しだけ雲がかかっていた。そうそう、不完全さなんてこれくらいでいいんだよ。

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