20210901「錯覚」

レギュレーションは「構想30分、執筆60分」。


実時間は「構想30分、仕事の合間合間に書いてたので執筆時間は不明(90~120分くらい?)」。

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 錯覚

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 行きつけのお店がある街角。自宅へと繋がる帰り道。どこに行こうか迷いつつ乗り込んだ電車の中。そういう場所でふと、昔の知り合いに似ている人を見かけるのはよくある話だ。僕はそういう時、よう、元気か……なんて声をかける性格ではないけど、ちょっと振り向いて目で追いかけるくらいには気になってしまう。ついさっきもそういうことがあった。

 

 電車に揺られているときのことだ。僕は座席で学生の頃からの愛読書を読んでいた。最近はどうしても新しい本に手が伸びず、前に読んだ作品ばかりを読んでしまう。あまりよくない傾向とは思うけど、読みたいのだから仕方ないか……そういうふうに頭の片隅で言い訳を並べつつ文章を追っていると、急に赤ちゃんの泣き声が聞こえた。大きな声だったから僕は反射的に手元の小説から目を上げて、車内をサッと見渡してしまった。ああ、これもよくない行動だ。赤ちゃんの親御さんにプレッシャーを与えてしまう振る舞いだと思う。反射を抑えるのは難しいけど、自分を制御しないと……そう考えて、その考えを文章として認識した瞬間、僕の視界にある人が写った。知っている顔だった。いや、そんなはずはない。だって"彼女"は遠い地元で就職したんだから、こんなとこにはいないはずだ。多分錯覚だろう。でも彼女の、僕から離れた席でかんしゃくを起こした赤ちゃんをあやしている彼女の緩く結った髪も気取らない表情も、地味な丸眼鏡だって僕の知るあの"彼女"のそれと全く同じだった。隣に座って困った表情をしている男と抱いた赤ちゃんは、"彼女"から連想できるものではなかったけど。

 

 僕と彼女の出会いは高校に入学したときまでさかのぼる。もう10年以上前の話だ。その頃から僕は本が好きな明るくない少年で、彼女も同じく陰気な少女だった。僕達は入学式や、その後たまたま同じになったクラスでのレクリエーションではお互いを全く意識することはなかったけど、とある出来事がきっかけでコミュニケーションを取るようになった。僕達がたまたま一緒に入ることになった、その高校の中では数少ない文化部の一つ……新聞部での出来事だ。

 

 その学校の新聞部は年に数回学内新聞を発行するだけで、あとはほとんど何もしていない部だった。部室に集まってダラついて、時間になったら解散するだけ。僕は部員のみんながのんびりとしてる雰囲気が気に入って入部したのだが、彼女がどういうきっかけで入部を決めたのかはわからない。ただ彼女も部室の居心地がよかったらしく、一日の授業が終わればすぐに部室に向かっていた。僕達が仲良くなるきっかけとなった出来事が起こった日、部室には僕と彼女しかいなかった。先輩達は皆ホームルームが長引いていたらしく部室に来ていなかったのだ。それに、僕達の他に同学年の部員はいなかった。そういうわけで僕達は部室に二人きりになった。でもまだこの時、僕は彼女の事をほとんど意識していなかったし、彼女もきっとそうだったと思う。もしもその日、僕が読書中の小説を家にうっかり置いてくるなんてせず、部室の中を手持ち無沙汰に見回すという事をしていなければ、僕と彼女は一生交わらずに過ごしていたのだろう。

 

 退屈を紛らわすために部室に置かれている雑多なオブジェクトたちを順番に眺めていると、ふと俯き加減の彼女が目に入った。彼女は手元の小説に目を落とし、静かにページをめくっていた。この時、僕は少し驚いたのを覚えている。同じクラスでその上同じ部活に入っているのに、僕は彼女が本を読むタイプだということを知らなかったのだ。僕は少しどきどきしながら彼女の手元に目を移した。彼女はどんな本を読むのだろう。ライトノベルのような読み口の軽いものだろうか。それとも純文学のような、読み手の心の中で文章をゆったりと咀嚼することが必要とされるものだろうか。彼女の大人しい立ち振る舞いを見るにそういう本が好きそうだ。そう思いながら覗き見た表紙は、真っ黒だった。真っ黒で、4文字の漢字と著者の名前が記されただけのシンプルな表紙。僕は、あっ、と声を上げてしまった。その小説はちょうど僕が読み進めているものと同じだったのだ。僕はたまらず、彼女に話しかけた。

 

「それ、知ってる。ビールを飲みながら、戦争映画の冒頭を見るくだりがあるでしょ」

「えっ……」


 それが僕と彼女の、初めての会話だった。

 

 それから僕達はその小説について話した。読み始めたきっかけやどこまで読んだかについて。僕は書店でその本を見かけた時、題名のセンセーショナルさに惹かれて購入したのだが、彼女は好きなビデオゲームのスタッフロールの最後にその作家の名前が出てきたのをきっかけに読み始めたらしい。僕達は二人とも別々の理由で、たまたま同じ本を読んでいたのだ。それを知った彼女はにこにこしながらこう言った。

 

「こんなにたまたまが続くと、まるで運命みたいだね」


 僕達はその会話をきっかけに少しずつお喋りをするようになった。最近読んだこの本が面白かったとか、こんな作品を探しているとか。様々な作家に刺激されて熱を持った創作意欲を落ち着かせるために、お互いがちょっとしたお話を書いて見せ合うという事もやった。僕達は身体を動かすのは苦手だったけど、頭と感情を働かせるのは好きだったのだ。それから、僕達を繋いだあの小説の作家についても話した。彼は病気で夭折していたのだ。僕達は彼が書いたもう一つの長編――これは前に読んだ真っ黒な表紙の小説とは裏腹に真っ白で、小さくタイトルと著者名が記されているだけの表紙だった――を読んで、彼の死を悼んだ。僕達が好きな作家は、僕達がその存在に気づく前に旅立っていたのだ。僕は初めて、この世界から旅立ってしまった人を悼む時はその痕跡を一つずつ拾い集めて慈しみ抱きしめるしかないのだということを知った。そういうふうに本や自分の書いた文章で繋がり合って、僕はなんだか新聞部の中に僕と彼女だけの秘密の文芸部を作ってしまった気分になった。秘密というのは甘美だ。それを共有する人が制限されているほど。

 

 彼女とそういうやり取りをするようになってしばらく経って、僕はなんとなく彼女のことを誤解なく理解できている気がしてきた。彼女の事を知り始めて少し図に乗っていたのかもしれない。でもそれだけではなくて、僕と彼女がわかりあえていることを示す出来事もあった。何かのきっかけで、新聞部員のみんなでカラオケに行くことになった時の話だ。僕は騒がしいのが得意なわけではないけど、一応付き合いとして参加した。彼女も同じようで、それなりに広い部屋に通されて一番奥の席に座ったっきりカラオケの機械の操作端末に目をくれることもなかった。僕も何か歌うという気はなく、彼女の隣に座りながら先輩達が僕の知らない曲を歌うのをぼんやり聞いているだけだった。僕がよく聞くのはジャズだとかフォークとかそういうのばかりだから、カラオケに来ても盛り上がりにくい。ドリンクバーから持ってきたアイスココアをすすりながら退屈を噛みしめていると、不意に隣の彼女が僕のシャツをつまんで引っ張った。少し驚いて彼女の方を見ると、彼女は僕に携帯端末の画面を控えめに差し出してきた。標準のメモ用アプリケーションの画面が映っている。そこには、≪ちょっと外に出たい≫とだけ書いてあった。

 

 最初は、彼女は騒がしいのが苦手で外に出たのだと思った。けどそれは間違いで、彼女はカラオケ施設に併設された小さなゲームコーナーに行きたかったらしい。そういえば、最初に知り合ったときの本を読んだきっかけもビデオゲームだった。彼女とは文学にまつわる話ばかりしているけど、こういうのも好きなのだな。僕はそう思いながら、彼女と一緒にゲームコーナーに向かった。そこはおなじみのクレーンゲームなどはなく、見慣れない大きなゲーム機がいくつか並んでいるようなところだった。"ゲームコーナー"と呼ぶには少しマニアックすぎる気もする。彼女は品定めするようにゲーム機を順番に眺め……あるゲーム機の前で、ぴたりと足を止めた。そして置かれた椅子に座り、いつから持っていたのか、左手に握りしめた100円玉をコイン投入口に優しく入れ込んだ。電子音――と言っても、いわゆる「ピコピコ」ではない。もっと高度なシンセサイザーを使った、デジタルな音――が鳴り、画面の表示が変わる。荘厳さも感じるピアノの旋律と、何と言うか民族的な、そういう雰囲気の楽器の音が混ざり合った音楽が流れ始めた。彼女はそこでふうとため息をついて、僕に話しかけた。

 

「このゲーム、知ってる?」


 彼女はゲームをプレイしながら説明してくれた。これは数十年前に発売されたゲームで、自分達よりも年上であること。一つの時代を作ったシリーズの最終作であること。画面の演出とBGMから香る仄かな希死念慮が好きで、プレイしていると自分も甘美な死を選びたくなってしまうこと。そのBGMの中でもとりわけ、今流れているものが一番好きだということ。僕にはそのBGMは単純な拍子と細かなパーツを周期的に組み合わせた、とてもミニマルでシンプルな曲に聞こえた。聞いていると自分が何か大きな機構に組み込まれて行ってしまうような気分になってしまう。ただ、ゲームの終盤に流れたメロディはこれまでの流れからは考えられないほど直情的で、感情を揺さぶられるものだった。システムに組み込まれていく自分への最後の別れと言うか、そういうセンチメンタルさを感じさせるメロディ。それも含めて、見ていると寂しい気持ちになるゲームだった。僕はビデオゲームをやらないからわからないけど、彼女がこのゲームにどんな感情を抱いているのかは分かった気がする。僕が好きな本に対して抱く感情と同じくらい、彼女はこのゲームに大きな感情を抱いているんだろう。

 

 ゲームを終えて部屋に戻る時、彼女は僕の左手の先を掴んでいた。異性の手が触れるのは初めてだったけど、不思議と緊張はしなかった。どちらかと言うと安心感や納得感の方が強かった。その時僕は、彼女と何度かの言葉のやり取りを経て、言葉をあまり必要としない関係になったのだ、と思い至った。言葉だけでなくお互いの感情を推し量って想像できるような関係に。でもそれは錯覚だった。

 

 僕と彼女の関係はその後も特に変化なく続いて行った。書いた文章をレビューしあったり、最近読んだこの本が面白かったという話をしたり。僕はてっきりこの関係が卒業まで緩やかに続いて行くものだと思っていたけど、それは違った。彼女が同じクラスの他の男子と付き合っているという噂を耳にしたのは、2年生の半ばの頃だったと思う。ショックだった。僕は、僕自身がそうであるように、彼女も僕の事を好きだと思っているものだと勘違いしていた。彼女は普通の運動部に所属している男子と付き合い、部活外では彼と一緒に過ごすようになった。なんだか僕だけの空間を勝手に掃除されたときのような、そういうざらついた嫌悪感に苛まれるようになった。でも、彼女との関係性は変わる事はなかった。部活の時はお喋りをして、時に文章を読み合って、二人きりになった時もお互いの好きな本に集中する。そして何を考えたか、何を感じたかを伝え合う。もしかすると彼女に気を遣わせているのかも、と思ったし、自分が惨めで泣きそうになる時もあったけど、それでも僕は心の底から本音を語り合える彼女との時間を愛さずにはいられなかった。それから卒業まで、僕と彼女は"いい友達"であり続けた。

 

 卒業してから彼女と連絡を取ることはなかった。僕と彼女を繋いでいたクラスや新聞部、その中の秘密の文芸部はもう無くなってしまった。だから、僕と彼女が離れ離れになるのは至極当然のことだった。僕は他人から見ればよくある失恋として、自分からすれば耐えがたくも耐えた喪失の経験として彼女の思い出を抱え、故郷から遠く離れた地にやってきた。そこで、あの日彼女がやっていたビデオゲームを探すために電車に乗り、彼女と一緒に悼んだ作家が書いた白い表紙の小説を読んでいるとき、彼女とそっくりな女性を見かけたのだ。

 

 やっぱり、あれは錯覚だったのだろうか。彼女があの日遊んでいたゲームを前にして、僕はぼんやりと考えていた。僕が彼女に抱いた好意も、彼女が僕に抱いていたであろう行為も全部錯覚。あの日掴まれた指先の感覚も、引っ張られた服の袖も、さっき見た彼女にそっくりな人も、全部錯覚。それはあまりに悲しいことだけれど、その方がいっそ救われていいのかもしれない。僕自身の勘違いで彼女まで傷つけてしまっていたのだとしたら、僕は耐えられない。

 

 今となっては、僕と彼女を繋ぎ留めるものはほとんどなくなってしまった。もうあの新聞部も文芸部もない。あるのは共に悼んだ作家の長編が2本に、目の前にあるこのゲームだけ。彼女とやり取りをした文章は、すべてハードディスクに記録されたままどこかに行ってしまった。彼女が好きだったこのゲームは、もう随分昔のハードウェアを使って稼働している。基板の寿命は無限ではない。きっといつか、このゲームだって遊べなくなってしまうだろう。そうなってしまった時、僕は何を頼りに彼女を思い出せばいいのだろう。あの作家の長編はあるけれど、それだけだと彼女の一側面しか表せない。彼女が僕の手を握った瞬間、あそこにはこのゲームと僕と彼女しかいなかった。このゲームが無くなれば、あの瞬間の証人は僕しかいなくなる。あの風景を覚えていられるのは、僕しかいなくなってしまう。それは今の僕にはまだ耐えられそうにない。彼女に関連するものを抱きしめられなくなってしまうことは、今の僕には耐えられないのだ。どうかもう少しだけ、壊れずにいてくれないか。そう思いながら、僕は握りしめた100円玉を投入口に入れ込んだ。

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