20210830「病院」

レギュレーションは「構想30分、執筆60分」。


実時間は「構想30分、執筆90分」。

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 病院

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 子供の頃から私は病気がちだった。生まれてすぐに酸素テントに入れられるような弱々しい子供だった私は、15歳の誕生日を迎えるまで同じ病院の小児科に通い続けていた。私を診ていたお医者さんは少し不愛想なタイプで、診察に行く度子供心に"またあのしかめっ面を見なきゃいけないのか"と憂鬱な気分になったのを覚えている。それから、頻繁に耳たぶから採血を受けたことも覚えている。なぜかはわからないけど腰に太い注射針を刺されたこともあったし、入院中に出た病院食があまりおいしくなかったことも覚えている。大人になってからも何となく病院が苦手で、特に消毒用のアルコールの匂いを嗅ぐと気分が落ち込むのはそういう経験をしてきたからかもしれない。

 

 もう8月も終わろうとしているのに蝉が大声でがなり立てている土曜日の午前、私はかかりつけの病院で診察を受けていた。病気がちなのは子供の頃から変わっていない。今だって診察と適切な投薬をスケジュール通りに受けなければ、私は普通には生きられない。採血を受けた右腕に留められた止血帯をなぞりながら、私は診察室に呼び出されるのを待った。ぬるい風を送り込んでくるエアコンが、これもついでにどうぞ、と言わんばかりにどこからかアルコールの匂いを漂わせている。やっぱりこの匂いは苦手だ。アルコールにアレルギーがあるわけではないけど、苦手意識というのは簡単には取り除けない。そのまま30分ほど待っただろうか。瞼が少し重くなって身体が気怠くなってきたあたりで、私の名前が呼ばれた。

 

 診察室では最低限の会話しかしなかった。私が大人になってから私の主治医となったこの先生も、子供の頃のあの先生と同じように不愛想なタイプなのだ。私の健康状態を示す様々な数値はこれまで通りのもので、状況に変化はない。だからこの先もいつものように適切な量の薬を摂取すればいい……というようなことを伝えられて、私もそれに頷いた。まったくいつも通りの会話をして、私は診察室を後にした。こうして5分足らずで診察室を後にするのにもすっかり慣れてしまった。

 

 会計カウンターで渡された領収書と処方箋の内容もいつも通りだった。領収書に書かれた医療点数もそれから算出される小計もこれまで通り。処方される薬の種類と量もこれまで通り。先月分の領収書と処方箋を日付だけ変えて出力し直したかのようにも見える。もちろん、そんなことは絶対にないのだろうけど。私は診察料を払って、そのまま病院に併設されている薬局へと向かった。病院と薬局の間に連絡通路のようなものはないから、わざわざ一度病院の外に出ないといけない。むんむんと熱気が漂う外に出るのは億劫だったけど、いつもの事なので仕方ない。外では一体どこで鳴いているのか、そこらじゅう一帯から蝉の鳴き声が聞こえてきた。まだ終わろうとしない夏のしぶとさにうんざりしながら薬局に入ると、底冷えするほど冷たい空気が身体に絡みついてきた。寒暖差でふらつきそうになりつつ、私は受付のスタッフに保険証と処方箋を渡し、受付前のソファに身を沈めた。受付の横に置かれているテレビでは、タレントがどこか遠くの街の名産品を食べる番組が放送されていた。この時間帯のテレビはどうしてこう退屈なのだろう。のんびりと棚を漁るスタッフを眺めながら、私は少し物思いにふけった。

 

 私を生かしている現代医療は細心の注意の上に成り立っている。私の身体を流れる血や尿を分析して、そこから得られたデータを元に処方する薬が決定される。そして私にはその薬の数々を指定された用法用量を厳密に守って服用することが求められている。さもなくば私の身体の健康バランスはたちまち崩れてしまい、いくつかの管を身体に挿入したうえで回復を待たなくてはいけなくなるだろう。私がこうして冷房が効きすぎている部屋で、長い間使われて座面が薄くなったソファに身体を預けながらつまらないテレビをぼんやり眺められているのは、間違いなく私が適切な服用を継続しているからだ。もしも私が自暴自棄になるか何らかの理由で判断力を失うかしてこれから渡される飲み薬と注射薬を過度に摂取すれば、きっと私の身体は機能を停止して"わたし"という存在はこの世から消えて無くなってしまう。そうなっていないのは私が正常な判断力を維持しているからだし、逆に言えばそれを失えば私の命は脆く崩れ去ってしまうのだ。私は普通の人よりもっと直接的に、自分自身の生殺与奪の権利を握っているということになる。

 

 私の命はそういうひどく繊細なバランスの上に成り立っている。多分他の人の命もそうなんだろうし、この社会そのものがそういう細い綱の上でなんとかバランスを取っているのだろう。私達全員がなんとか"いつも通り"を維持し続けて成り立たせているこの社会が壊れれば、私達の脆弱な命は散り散りに消え去ってしまうのだと思う。そうならないようにするのが社会の役目で、それこそが人間の生存戦略。脆弱な命を救うシステムが個々人の良心の上に成り立つ儚いものであるのは少し怖いけれど、私はそのシステムによって命を繋ぎ留められているんだ。

 

 しばらくして、受付のスタッフが私の名前を呼んだ。いつも通りにスタックされた薬を差し出される。いつも通りの効能の説明と、お変わりはありませんか、という決まり文句。私は、特に、とだけ答えて、薬の山を鞄の中に放り込んだ。慈しむべき"いつも通り"を維持するための道具を貰って、私は薬局を後にした。

 

 病院の前にあるバス停で、私は先程貰った薬の中の一つを取り出していた。プラスチックで作られた注射器に入った皮下注射剤だ。明るい日差しに照らされて、中の薬液がきらきらと光っていた。この注射器は私の命をつなぐもの。この注射器は私の存在をこの世界に留め置くもの。この注射器は、私が社会から見捨てられていない事の証拠。私がこの注射器をどこかに投げ捨ててしまうのは、きっと社会に繋ぎ留められるのが嫌になった時なのだろう。誰かと繋がって、今にも崩れそうな命を維持されるのが嫌になった時なのだろう。でも、少なくともそれは今じゃない。私はまだ死にたいとは思っていないし、既にこうやって社会の一部になってしまっているのだし……そう考えたところで、私は一つため息をついた。ああ。今の言葉を昔の私に聞かせたら、ぼんやりと"ここ"にいることに嫌悪感を抱いていた私に聞かせたら失望されてしまうのだろうか。お前は普通の大人になったんだなと。

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