第4話
「付き合って、くれないか……?」
「……っ⁉」
そう、力なく、かつ、まっすぐに向けられた言葉が、鼓動なんかよりもはっきり、花澄の耳に届いた。
今日何度目かの、顔のほてりに襲われる。今は、耳まで熱い。
正直、戸惑いを隠しきれない。ここに来る時点である程度は覚悟していたが、いざ言われると、やはり堪えるものがあった。
こちらを見つめる渡の視線に耐えられず、つい目を泳がせてしまう。
ああ、今日は本当に、表情がよく動く。
だが、本気で、気持ちをぶつけてくれたのだ。花澄も、ちゃんと目を見て、返事をしようと、ぐっとこぶしを握り締める。
「あ、えーっと、その……」
ダメだった。結局渡の顔を見上げることもできず、視線を右に左に動かしながら、ぼそぼそとしか話せない。
それでも、たった一言。言えればいい。そう思って、息を吸う。
「ご、ごめ――」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
花澄が勇気を振り絞って、返事をしようとしたとき。
それにかぶせるようにして、渡が待ったをかけてきた。
「……な、何?」
多分赤くなっているであろう顔で、渡をいぶかしげに見る。
「あ、その、ごめん。説明が足りなかった」
「?」
渡は慌てた様子で、言葉を繋げる。
「その、付き合ってほしいってのは、買い物に。小学校の妹がいるって話はしたよな? で、その妹の誕生日がもうちょっとなんだが、何がいいか分かんなくて。女子の滝川にならって思って……」
こえをうわずらせながら、早口でまくしたてた。
花澄は、その言葉を頭の中で反芻する。
そして、たっぷり10秒ほどかけて理解し、一言。
「…………はぁああああ~⁉」
叫んだ。
人は本当に驚いたとき、いつもの倍ほど声が出るらしい。
「買い物? プレゼント? 最初から言ってよぉ……」
急に足の力が抜けて、その場にへなへなとしゃがみこむ。
本当に、自分は何を緊張していたのか。
「ご、ごめんな……」
渡が、さっきと同じ調子で謝ってくる。さすがに、叫ばれたことで驚いてしまったようだ。
花澄はゆっくり立ち上がると、スカートを整える。
「……普通に、行くから」
「え?」
「こんなことしなくても、誘ってくれたら、行くから」
「お、おう……」
互いにそっぽを向き、ぎこちなく会話が進む。
日陰なはずなのに、汗が止まらないほど、暑い。
しばらく互いに会話の続きを探していたが、一向に見つからない。
ついに耐えられなくなり、花澄は、渡に背を向けて歩き出した。
「え、おい、滝川?」
渡に呼び止められる。
しかしそのまま歩き続け、何歩か進んだところで、体をねじり、振り返る。
「行くよ。バッグ、取りに行こ」
そう言って、また前を向き、歩き出す。
「わ、分かった……!」
渡が後ろから、小走りで近づいてくる音がする。
花澄は、歩く速度を、少し緩めた。
時間は、夜の7時。
家に着き、部屋に戻るや否や、ベッドに倒れ込んだ。
その手には、丁寧にラッピングされた腕時計が握られている。
「やっちまったぁぁああああ‼」
掛け布団に顔をうずめて、渡はひとり、叫んだ。
「うるさい!」
下の階から、母に怒鳴られてしまった。
ちょうどそのタイミングで、携帯から通知音が聞こえる。
『今日は楽しかった。妹さん、喜んでくれるといいね』
花澄から、一件だけ送られてきたメッセージ。わざわざこんなことをしてくれる彼女の律義さに、思わず小さく微笑んだ。
スマホをベッドに残したまま、むくりと起き上がり、机の上に紙袋を置く。
その机の上には、小さな封筒が置かれていた。
渡は、封筒を手に取り、中身を取り出した。
『お話したいことがあります。放課後、4時30分、体育館裏で待っています』
「なんで忘れたかな……」
肺の空気を全て吐き出すような、深い、深いため息をついた。
花澄のことが気になり始めたのは、五月の中間テストからだ。
テストが返された後、あらかた予想通りの点数だった渡は、早々にテストの間違えたところを教科書で確認し始めていた。
しかし、横の花澄は、数学の解答用紙を見つめるだけで、一向に動こうとしない。
「滝川、どうしたんだ?」
そう言いながら、顔を覗き込んだ。
「……っ⁉」
そのとき、花澄は、笑顔だった。少し口角が上がり、目がいつもより細められている程度のものだったが、それでも確かに、笑っていた。
それまで、花澄のことは表情の乏しい人だと思っていたのに、そのイメージが、たった一度の笑顔だけで、覆ってしまった。
「やった……!」
そんな、小さな独り言も聞こえた。
一瞬、花澄の後ろで、小さな白い花が、一斉に咲いた幻覚を見た気がしたのは、今でもよく思い出せる。
そこから、恋に落ちるのは一瞬だった。いや、あの時すでに、落ちていたのかもしれない。
今日、会話の中で一度、花澄が笑ってくれた。
その顔を思い出し、また顔が熱くなる。
明日にしていれば、もっとスマートにできたかもしれない。手紙を忘れたことで慌ててしまったのは、どう考えても自分が悪い。
けれどきっと、明日にしようとしたら、逃げてしまう。
確かに花澄のことは好きだ。だけど、この関係は崩したくない。明日以降にしたら、きっと足がすくんで気持ちを伝えようとはできなかった。
だからこそ、手に持っている手紙を見ると、自分のバカさに辟易する。
だがそうして、いつまでも過去に浸っていたって、仕方がない。
ベッドから立ち上がると、手紙を、封筒と一緒にゴミ箱へ放り込んだ。
「さて、課題でもするか」
妹へのプレゼントは、棚に入れておく。あと半年、ここに置いておかなくてはいけないのだから。
バッグから数学の教科書とノートを取り出す。
パラパラとノートを開き、最新のページへたどり着く。
「……慌てすぎだろ、これは」
ページのほとんどがなくなった、ノートの1ページ。
雑に破られた切れ目を見ながら、渡は苦笑いを浮かべた。
告白から、16時間。
渡との買い物は、正直に言って、とても楽しかった。
どんなものが好きで、どういうものをプレゼントに贈るのか。妹がどんな人なのか、少しだけ、彼の知らない部分を知れたのは、嬉しかった。
だが問題は、今だ。
「よう」
「……おはよ」
昨日から、どうも渡のこちらをまっすぐ見つめる目が、忘れられない。
顔を見るたびに、それを思い出してしまう。
美智に事の顛末を話すと、
「いや、それ絶対誤魔化してるでしょ」
とばっさり言われてしまった。
そんな可能性を考えてしまうと、余計に渡の方を向けなくなってしまう。
花澄は、その可能性を頭の中から消した。
時折涼しい風が吹く秋のはじめ。そんな頃に、新学期は始まった。
始業式の日、妙に早く目が覚めて、いつもより早く学校に着く。教室に一番乗りした日というのは、妙な高揚感と特別感に駆られる。
そんな中、特にすることも思いつかず、何気なく携帯を開き、チャットアプリを開く。
夏休み中、どこにも出かけなかった代わりに、ここで美智や渡と連絡を取り合っていた。
美智とのトークルームを開くと、しょっちゅう「進展あった?」「あれからどっか出かけた?」などなど、二人の関係を探るような言葉が届いている。
花澄は強めのタッチでその画面を閉じると、今度は渡とのルームを開く。
一日に何度も連絡を取り合っているときもあれば、数日おきにメッセージが連続していることもある。
「どんな気持ちでしゃべってたんだろ」
親指を上から下に動かしながら、そんな言葉が無意識に漏れる。
そこではたと気づき、慌てて教室を見渡す。
幸い誰もおらず、声は誰にも聞こえていない。花澄は、そっと胸をなでおろした。
こんなことを意識してしまうのは、美智にいろいろ言われたせいだ。
花澄は携帯の画面を消すと、バッグの中に放り込む。
目の前の時計を見ると、8時10分。そろそろ、誰かが登校してきてもおかしくない。
花澄は、頬杖をつきながら、ぼんやりと考える。
渡が来たら、なんて挨拶しようか。
渡は、どんなことを言ってくれるだろうか。
渡と、最初にどんな話をしようか。
渡は――。
「滝川」
後ろから、名前を呼ばれる。
その声に思わず、心臓が大きく跳ねる。
新学期、ひと月ぶりにクラスメイトと会うと、妙に緊張してしまうことは何度もあった。
だが、ここまで緊張したのは、初めてだ。
ゆっくりと、後ろを振り返る。
そこには、夏休み、頭から離れてくれなかった顔があった。
「ひ、久しぶり」
「う、うん、久しぶり」
こうしてぎこちなくなってしまうのは、当然だ。
今、頭で脈打つ音は、渡に呼び出された日と、同じ音なのだから。
「いや、それ絶対好きでしょ」
始業式から一週間たった日の、昼休み。
美智からそんなことを言われた。
なんだか、前にも似たようなフレーズを言われた気がする。
だが、前と違うことも、ある。
「……やっぱり?」
今度は、なんとなく感じていた。自分の気持ちの変化は、自分が一番分かっているつもりだ。
「連絡してるとき顔がちらついて、会ったらドキドキして、話せなかったら寂しくて、会いたくなって」
「そ、そこまで言ってない……」
「じゃあ、そういう気持ちは無いんだ?」
「……」
花澄は、ふるふると首を横に振る。
「ふーん」
美智は卵焼きを飲み込むと、じっとこちらを見た。
前と違って、今回は最初からニヤニヤしている。
「告白しちゃう?」
「……っ⁉」
手に持っていたツナサンドが潰れる。
急に鼓動を速めた心臓を落ち着けるように、花澄は、そっとかぶりを振った。
「……怖いから、嫌だ」
告白のことは、いつか言われると思っていた。
正確には、考えていた。
だが、心の中に、それを止めようとする自分がいるのも事実だ。
「やっぱり、千田との関係は、今のままが楽しいから……」
今が、楽しい。今の関係くらいが、ちょうどいい。
その思いは、前から変わっていない、はずだ。
「じゃあさ」
だが花澄の言葉を聞いても、美智の笑顔が戻ることは無い。
数か月一緒にいて、知っている。
この顔は、からかう材料を見つけたときの顔だ。
「千田君を呼び出しちゃえば?」
変わらぬ表情で、そんなことを提案してくる。
花澄は、首をかしげる。
「……どういうこと?」
美智は待ってましたとばかりに、説明を始める。
「一緒に出掛けるためだよ。前、花澄もされたでしょ?」
そう言われて、花澄もピンとくる。
「あ、あのときの……」
美智が、こくりと頷く。
すると、美智の笑みがふっと消える。
この顔をするとき、美智はいつも無視できない発言をしてくる。
花澄は無意識に、身構えてしまう。
「そこで確認しよう? 千田君と付き合えるかどうか」
「……っ⁉」
思わず、心臓が跳ねる。
『今のままがいい』と、美智には伝えたつもりでいた。
それなのに、本当に、彼女は鋭い。
「……分かった」
美智は、にこりと微笑むと、もう一度、こくりと頷いた。
この日の朝は、始業式の日よりも早く、学校に着いた。
昇降口で、下駄箱の扉を開く。
そこには、自分の足よりも二回り大きい靴が入っている。
一度扉を閉め、深呼吸をする。
合服にしたせいか、昨日よりも、体に熱がこもっている。
吐いた息を戻すように、再び息を吸うと、下駄箱と向き合う。
震える手で。もう一度扉を開ける。冷えた金属が、ほんの少し心地いい。
バッグから、昨日したためた手紙を取り出す。
そしてそれを、靴に手が触れないよう、そっと、中に置いた。
告白まで、あと、8時間。
告白まで、あとn時間 明石 裕司 @Lamp_piedra
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