第2話
1時限目の授業中、先生の解説を尻目に、花澄は、朝下駄箱に入っていた紙を取り出した。朝、慌ててバッグにしまったせいで、紙にはしわが寄ってしまっていた。
しわを伸ばして、改めて紙を見てみる。
二つに折ったら片手に収まるくらいのサイズで、紙には罫線が引かれている。破れた跡もあるから、きっとノートを破ったものだろう。
字はところどころ繋がっており、慌てて書いたようにも見える。もともと字が汚い人なのかもしれないが。
「じゃあ、ここの問題を……滝川」
紙に名前でも書いてあったら誰か分かったのだが、さすがにそんなことはなかった。やはり、ここから誰かを推測するのは無理そうだ。
「滝川」
そもそも、花澄にはよく話す男子の知り合いなんて、数えるほどしかいない。クラスメイトとは最低限話すが、よく話す男子なんて――。
「ちょっと、滝川さん!」
「は、ひゃい!」
突然、前の席の子に呼ばれ、花澄の思考は途切れる。同時に、こちらをじっと睨む先生と目が合う。
「どうした、滝川。昨日夜遅かったのか?」
クラス中から、クスクスと笑い声が聞こえる。
珍しく、自分の顔に熱が集まっていくのを感じる。少し、変な汗もできてきた。
「す、すみません……」
うつむいたまま、かすれた声でなんとかそれだけ言うことができた。
「仕方ないな……。じゃあ、千田」
どうやら隣の渡に白羽の矢が立ったらしい。花澄は音をたてないよう、そっと席に座った。
だが当てられた本人は、ボーっと前を見つめているだけで、先生の言葉に反応しようともしない。
「千田―、聞こえてるか?」
何か考え事をしているのか、はたまた、ただ眠いだけなのかは分からないが、やはり反応はない。
花澄はシャーペンの芯をしまうと、それを左手に持ち替え、隣の席の机めがけて振り下ろした。
「いってっ!」
手の甲に命中したようで、渡が授業中にもかかわらず叫び声をあげた。
渡がキッとこちらを睨もうとして――周囲の視線に気がついた。
さっきまでのダルそうな目が一気に開かれ、その顔は火が出そうなほど赤くなる。
「お前ら、二人そろって夜更かしか? 隣同士、仲いいんだな」
「ちがっ……!」
「そういうんじゃ……!」
慌てて否定する。渡もかなりあたふたしているようだ。
しかし、その必死さが逆効果だったようだ。
「ぷっ」という声が、どこからか聞こえた。それにつられるように、教室中に笑いが伝染していく。
やがて、5秒と経たないうちに、この狭い部屋が笑いの渦に包まれた。
その中心にいる二人はと言うと、顔を真っ赤にしてじっと机を見つめていた。
(顔、熱い……)
もはや火事でも起こっているんじゃないかと思うほどだ。
ちらりと、横を見る。渡も、多分自分と似たような状況だと感じたからだ。
だがちょうど、そのタイミングで、渡も同じようにこちらを向いた。
結果、ばっちり目が合ってしまう。
「……っ⁉」
「~~っ⁉」
真っ赤な顔を突き合せたら、当然恥ずかしさは加速する。
見つめ合った渡の顔。林檎みたいに赤かった顔が、さらに赤くなる。
耐えきれなくなったタイミングも同じで、同時に頭をフルスイングして、顔を逸らした。
多分、目が合っていたのは一瞬だったが、渡の顔を長い間見ていた気がする。
若干早まった鼓動を、深呼吸で落ち着ける。
(あいつのあんな表情、初めて見た……)
今までにないくらい感情を丸出しにした顔。恥ずかしそうに口元を隠して顔を逸らす仕草。
それをなぜか、かわいいと感じてしまった。
結局、そこから授業はまったく頭に入らず、目に焼き付いた渡の顔と、耳に残った心臓の音が離れぬまま、チャイムが鳴ってしまった。
告白まで、あと6時間。
「いやぁ、数学のとき、すごかったね」
「こっちは大迷惑……」
机を向かい合わせた目の前で、美智がにやにやしている。花澄はそこから目を逸らして、購買で買ってきたたまごサンドをもそもそ食べていた。
今は昼休み。あの後、休み時間のたびに周囲からじろじろ見られた上、何人かから冷やかされしまった。おかげで、だらけることも、渡と話すこともできていない。渡との間に、気まずい空気が流れてしまっていた。
一時限目、何か言ってやろうと思ったのに、授業が終わった途端、そそくさと教室を出て行ってしまった。それ以降もタイミングをつかめず、今に至る。
それに、いくら考えても手紙の相手だって分からない。モヤモヤしたまま食べるご飯は、あまりおいしく感じなかった。
「あ、そういえば」
「何?」
食べ終わったたまごサンドの包み紙を丁寧にたたむ。
「花澄、今朝何かあった?」
「……っ⁉」
突然の質問で驚いてしまい、思わずたたんだ包み紙をグシャ、っと潰してしまう。
「別に、そんなことないと思うけど……」
「でも、朝会ったときからなんかそわそわしてるし、髪型変だし」
「あ、寝癖……」
美智に言われるまで、すっかり忘れていた。
「これは、朝寝坊して……」
「でも前は、休み時間に直しに行ってなかったっけ?」
「あのときは……あ」
自分で言って、思い出す。
(そういえば、前は千田が言ってくれたんだっけ)
二週間ほど前、花澄は同じように、寝坊して寝癖を直していない日があった。その日は、一時限目の後、渡に指摘されて直しに行った。
そうでなくても、寝癖があるときや、髪を切ったとき、渡は決まって授業の後に言ってくる。どうせなら朝の間に気づいてほしいものだ。
「どうしたの?」
「……なんでもない。ただ、今日は数学のときいろいろあったし」
渡と話さなかったから、なんて言ったら寂しがっていると思われかねない。ここは適当な言い訳でかわす。嘘は言っていないはずだ。
「それもそっか。じゃあ……朝から妙にそわそわしてるのは?」
「……」
忘れたかと期待していたが、どうやら無理だったらしい。
美智から目を逸らし、パックのジュースをちゅーちゅー吸う。
「え、なになに? やっぱりなんかあったでしょ! 聞かせてよ~」
「な、何もない……」
「うっそだぁ!」
はぐらかそうとしても、追及は止まない。きっと、正直に話すまで放してくれないだろう。
花澄は観念して、ストローから口を離した。
「…………下駄箱に、手紙が入ってた」
自分でも聞こえるかよく分からないくらい、ぼそぼそとした声になってしまう。
しかし、美智の耳はかなり良かった。
「えぇっ‼ それ絶対告白じゃん‼」
「ちょっ、声大きい……!」
ばっちり聞こえていたようで、テンションが一気に上がっており、一瞬肝が冷えた。幸い、教室の喧騒のおかげで、誰もこちらを見てはいなかったようだ。
「ごめんごめん。とりま、その手紙見して?」
花澄は、机の中にしまっていた手紙を取り出すと、ためらいながらも美智に渡した。
「……うん、確定でしょ」
美智は手紙を畳むと、それを机に置き、花澄に向き直った。
「ねえ、花澄」
「な、なに……?」
机に両肘をつき、圧迫面接でも始めようかという体勢だ。少し俯くような姿になっており、表情はうかがえない。
そんな美智の真剣な雰囲気に、花澄も思わず姿勢を正す。
「オッケーするの?」
顔を上げた美智の顔は、笑っていた。いや、正確に言うと、ニヤニヤしていた。いじりがいのあるおもちゃを見つけた、という顔だ。
「そんなの、分からない……。こんなこと初めてだし」
花澄の言葉に、美智の笑顔が一層深くなる。
「なるほどぉ。だからそんなにそわそわしてるんだぁ!」
「ちょっ、やめてっ……!」
ツンツンと指で突かれ、思わず体をよじる。
何度かやって満足したのか、美智は手を止めると、片づけていなかった弁当箱を包みだした。
「それに、誰か分からないし」
「まあ、そうよね……」
花澄は、こくりと頷いた。
「心当たりとかはないの?」
「ない。あるわけない」
即答した。
当然だ、自分が誰かから好かれるような人間じゃないことは、自分が一番よく分かっている。
「え~、なんでよ~」
「……よく話す男子とか、全然いない」
「でも、一目惚れとか、あるんじゃないの?」
「……私、全然かわいくないし」
「え~、なんでそんなこと言うの? 花澄かわいいのに~」
若干頬を膨らませ、不満そうにこちらを見てくる。
その言葉に、ついムッとしてしまう。
「……嫌味?」
「え、違う違う! そんなんじゃないって~」
つい、嫌な聞き方をしてしまった。褒め言葉にあんな返しをしてしまうなんて。
焦った顔で否定する美智を見て、改めて自分の心の狭さに恥ずかしくなる。
「……私なんかより、美智のほうが、か……かわいいじゃん」
だから、こちらは本音を織り交ぜた、褒め言葉を呟いた。
さっき「かわいい」とからかわれたことに対する、ちょっとした仕返しだ。
しかし、
「え、ありがと~。こんなかわいい子に言ってもらえるなんて、にやけちゃうなぁ」
少し戸惑っていた表情から一変、ぱぁっと表情が明るくなったかと思うと、頬を緩めて、花澄に抱き着いてきた。机越しだから、抱き寄せられるとちょっと苦しい。
「や、めて……!」
「ぶぇ」
さすがに距離が遠かったからか、あまり力が入っておらず、簡単に引きはがすことができた。
「ごめんごめん、あんまりにも花澄が愛らしくて」
「もう、何それ」
花澄に押された頬をさすりながら、謝ってくる。けれど、ニヤついたまま言われたところで、誠意は伝わってこない。
「でもほんとに、花澄はかわいいよ」
と思ったら、急にふざけている雰囲気がなくなった。
「どうしたの? 急に」
「いや? あんまり花澄が否定するからさ?」
どうやら、自分はよほど不満そうな声を出してしまっていたようだ。
「……さっきは、私が変な返し方しただけ。ごめん」
うつむきがちに、謝罪の言葉を口にする。
ほんの少しだけ顔を上げると、美智は小さく笑って、うなずいてくれた。
「いやぁ、やっぱり花澄は素直でかわいいな~」
そしてすぐ、いつもの調子に戻る。
「さ、さっきから、かわいいとか、言いすぎ……!」
いい加減何度も言われて、花澄もしびれを切らし、抗議してみる。
「そ、その、さすがに照れるというか……」
しかし後半は、どんどん口ごもり、最後はあちらに聞こえるか聞こえないかくらいの音量になってしまう。
「ごめんねぇ~」
やはり、微塵も反省していない。
花澄で遊ぶのがよほど楽しいらしい。下手したらさっきより笑みが深くなっている。
「そ、そもそも、私のどこが、その……アレなの? 顔普通だし、スタイルもよくないし、表情乏しいし……」
自分で言いながら、その言葉にショックを受ける自分がいる。自覚はしていても、コンプレックスなのだから仕方がない。
「やっぱ気づいてないか……」
「……え?」
何を言われるか、少し身構えていたのだが、美智の反応が予想外で思わず呆けてしまう。
美智は何か迷うそぶりを見せたあと、こちらに向き直った。
「……やっぱ、なんでもない!」
「絶対ある……」
しかし、笑顔の美智に「まあいつかね」と流されてしまった。
そしてすぐ「それで」と切り出してきた。
「告白の相手、ほんとに誰も心当たりないの?」
かなり強引に話を逸らしたが、あえて触れないでおく。
「ほんとに、ないよ。よく話す男子とか……千田くらいだし」
「じゃあその千田君は?」
花澄も、考えなかったわけではない。むしろ、クラスの男子は、渡以外はフルネームを言える自信がないほど、関わりがない。
そんな状態で告白してくる人なんているとは思えない。
それでも、花澄はかぶりを振った。
「ないよ。好きな人に、あんなズバズバ言わない」
朝、課題を忘れたとき、かなり容赦なくいろいろ言われた気がする。
そんな相手に告白をするとは、思えなかった。
「緊張してキツいことしか言えないだけかもしんないよ?」
だが、そんな花澄の考えは、あっさりと否定されてしまう。
「そ、それに、字だって千田のじゃない……」
「五秒で書いたら、誰でもあのくらいになるって」
「す、好きな素振りとか見えない……」
「隠してるのかもよ?」
「……」
美智が、疑うような目をこちらに向けてくる。
「ねえ花澄、なんで、そんなに否定しようとするの?」
「……っ⁉」
ぴくりと、花澄の肩が跳ねる。
確かに、何度も否定している。
それ以外の可能性が、今では思いつかない。そのはずなのに、なぜかその可能性を潰そうとしている。
「な、なんでだろうね……?」
その反応を見た美智が、さらに眉を寄せる。
自分でも理由が分からず、混乱する。もう頭が限界を迎えようとしていた。
「花澄は、千田君からの告白、嫌なの……?」
『渡からの告白』
それをリアルに想像してしまう。
目の前に立つ彼。まっすぐこちらを見つめながら、そっと口を開く――。
ボフン、という音が頭の中で響き、ついに脳のキャパシティをオーバーした。
「……ね、寝癖直してくる!」
「あ、ちょっと!」
かすれるような声で叫ぶと、美智の制止から逃れるようにトイレへと走った。
結局、昼休みは、授業が始まるまでトイレから出られなかった。
告白まで、あと3時間。
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