迷いと想い


 認知症発覚から2ヶ月が経とうとしていた調子が悪い日は特に酷く


41℃で温めた湯船に入浴剤を混ぜたつもりが

洗剤を混ぜていたようで『んんーごめんー……洗剤混ぜてた…』なんて反省している日もあったが決して責めずに


『洗剤の方がよく洗えそうじゃない?いいじゃん!』なんて笑って冗談を言ったりして誤魔化していたが


たまに『勘弁してくれよ…』という場面もあったりするので家事など2人でやっていたけれど


認知症を発症してからほとんどは僕が一人でやるようになった。


最近は毎日が失敗続きで美月も元気がない


その日はゴミ出しの日に何故か僕がお気に入りにしていた服を美月が捨ててしまい


怒りたかった所だがグッと堪えた。でも冷たく当たってしまった


『…もう……まあいいよ』

そう言葉を残してその日はほとんど美月とも喋らずに眠りについた


美月もずっと申し訳なさそうにしていたし

僕もずっと冷たく当たってしまった事を後悔していた。



眠りについて多分しばらくしてから


『おーいねたー?』『寝たのー?』と小さな声で確認してくる人がいる


少し目を覚ましたがこれは多分、夢だ


あの頃まだ美月が認知症の発覚する前か…

もう懐かしいや…


そう思いまた眠ろうとした。するとそのあと頬をツンツンしたり指で頬をぎゅーっと挟んだりされた。


そして僕の顔で遊び終わった後に突然



『うぅ…うぐぅっ…あうっ……あぁぁ…』

美月は苦しそうに泣き始めた。頬に温い水がポタポタ落ちてくる


……声が…美月の声だ……


泣いてる……?



『好きなのにさ……す…好きなのに…はぁ…あうっ…忘れちゃうんだね…うう…うわぁぁ…』と泣き出してしまった


少し気づいて寝たふりをしていたが僕も我慢出来ずに泣いてしまった。


だが美月の涙で僕の顔はびしゃびしゃだ。

僕も泣いているなんて気づかないだろう


また寝てる間にイタズラして

寝てる間に好きって言ってくれて


美月のその変な癖だけは病に侵されても変わらなかった。


それがまた堪らなく愛おしく僕は起き上がり美月を抱きしめた


『何もう…どうしたの?大丈夫?』


『やだよぉ…もうやだ!やだよぉお……』と

美月はさらに泣きはじめた。大人がこんなに泣くのもあまり見ないがそんな中で前に話してくれたことを思い出した。


認知症の人、全員が起こる事ではないのかもしれないが


一瞬だけ正気に戻る事があるらしくその時に全てを思い出して自分の置かれている状況を理解してしまう瞬間がある。と


今、それが起きたのだろう。計り知れない

不安と恐怖に襲われているのは理解できた


僕が婚約者であり美月も結婚を目前で認知症を発症し結婚はもう無理なのかな?という

状況を理解したのだろう。


その日はぎゅっと抱きしめたまま眠った。


怖いのは僕だって一緒だった。

美月を幸せに出来る自信を少しずつ失くしていたからだ。


次の日の朝、美月は朝から実家に行くという話をしていたので行かせることにした。


自転車で行くようなので自転車で実家までは15分ほどだ遅くても30分漕げば到着する


僕は美月に隠れて会社には午後から出勤する事を連絡をした。元々、今日の午前中は簡単な書類を整理する程度だったので午前休みは

すんなりと取れた


が、しかしこんな急なお願いにも対応してくれる会社には申し訳ない気持ちでいっぱいだ


僕は出勤をするふりをして美月が家から出てくるのを待った


しばらくすると美月は家から出て玄関の鍵を閉めて自転車で実家へと向かっていった。


そのあと僕も自転車で美月を追いかけたが

追跡していたら美月の実家に到着してしまった。


よく見たら美月は自転車にスマホを取り付けていて遠くでしか確認出来なかったが恐らくスマホに搭載されているナビを使い実家へ向かっていたようだ


スマホのナビがあればいいのか…そう思い安心して僕は会社に向かった。


仕事が終わり家に着くと美月も無事に家に着いていた

おかえりーと言ってきてくれた


ただいまーと返すその瞬間には間違いなく

今、目の前にいる人が認知症だという事実を他の誰かに言っても信じないだろう


当たり前の普通の光景かもしれないけれど

僕の幸せがそこにギュッと詰まってる


僕は正直に朝、美月の行動を見ていた事を言うと


驚いたあとに『心配しすぎだよ…』と笑って返してきてくれた。むしろ少し気持ち悪いくらいの感じではいただろう



『今はほら!スマホでナビも使えるしさ!』

と美月は言っていた。本当にそれだけに頼って大丈夫なのかな?とは思っていたが


美月が上手く一日を過ごせればそれで良いと感じた


出来れば毎日毎時間そばにいてあげたかったが


働いているとそうもいかないし、どちらかというと僕は時間があるほうだがそれでも時間が足らないと感じていた。



 次の日、僕と美月の二人の休みが重なった。


前持って美月の両親から家に招待されていたので

美月の実家へ美月と行く事にした。


美月の両親が住む家は一軒家で4LDKの

築30年ほどの綺麗な家で小さい庭もあり駐車場もついている


立派な大きめの家だいつか僕も美月とこういう家に住みたいなと思った。



『こんにちはー』


『あーら!こんにちはーいらっしゃいーどうぞ上がってー』


『はい!お邪魔します!』


昼の12時になる少し前に美月の実家に到着した。


美月のお父さんの『慶次さん』もそこにいて

立ち上がって出迎えてくれた


一瞬で緊張感が走るが美月のお父さんの慶次さんは


『おーお久しぶり!大翔くんや!そこ座るといいさ。ゆっくりしてってね』


と言ってもらえた。以前、美月に紹介されて初めて対面した時よりは緊張しなかったが

でもやっぱり緊張はする


『お久しぶりです!お邪魔します!

はい!すみません…失礼します…』

そう言って席に座ると


美月が唐揚げやポテトなどを持ってきてくれた


『はーいお母さんが作ってくれましたー!』


と言って美月はたくさん料理を運んできてくれた。


幸子さんは食べ物を事前に作ってくれていたようだ


美月と幸子さんが一段落して着席してから

食事が始まった


他愛もない会話で話は盛り上がった。

もちろん美月の認知症の事についても話題になったが特に暗い雰囲気にはならなかった。


一旦、話に区切りが着くと慶次さんは立ち上がり車の調子が悪いから見てほしいという事で


車に全然詳しくない僕を呼んで車を一緒に見に駐車場に行った


車は白のカローラフィールダーでエンジンのかかりが悪いとの事だったが何も問題がなくエンジンはかかった。


そのあと少しだけ車のことについて話し始めてから僕が抱いてた謎の違和感は的中した



『幸子から聞きましたよ。美月と結婚の挨拶に来てくれようとしたんだね?』


恐らくこの話をする為に2人きりになりたかったのだろう



『は…はい!そうです!』


『そうか…悪いね…大翔くん…気持ちは嬉しいよ…

大事に大事に育てあげた1人娘がこんな状態になっても結婚をするという覚悟を持った人が現れて』


そう言って慶次さんは車のイスに座り込んだ



『美月は私たちが見る…大翔くんは大翔くんの人生を歩んでくれないか?』


慶次さんがそう言った。泣いてはいなかったが目はうるうると涙を溜めているような輝きを感じた


『…美月さんのお母さんからも同じことを話されました…』


 『それも聞いたよ…それでも大翔くんは

美月と結婚すると言ってくれていたって』


『はい…』


『あれから何日か経った…迷いはあるかい?』


その質問に一瞬迷いが生まれながらも

『ないです……』


『そうか…わかった…もう少しだけ…考えてみてほしい……』


美月は僕が幸せにするし美月とじゃなければ自分も幸せになれない。今まではそう思っていたけれど


これからはそうやって胸を張って言えるのか

自分の中に迷いはないという答えにはまだ迷いがあったのだろう



いつだって遠い先の未来を見ていた。

隣にはいつも美月がいた。美月はその小さな体で背伸びをして僕と同じ未来を見てくれていた。


認知症という病魔が重くのしかかりながらも

僕のために無理をしていた事には気づいていた。


そんな姿が愛おしくそしてその愛おしさが

辛くて辛くて堪らなくなった。



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