時には何事も起こらない話を。
春羽が佐藤沢邸で爺孫サミットを交わしていた頃。
HAL社、オフィスにて。
「社長、上手く話をつけられたかしら」
帳簿の整理にひと段落ついた夏瀬は、一息つきながら問いの言葉を投げかけた。
その相手は秋紗だ。こちらもまた春羽が円寿郎にどう話をつけられたかで動きが変わってくるため、待ちのフェーズなのである。どうせ手持無沙汰なら、と素人なりに夏瀬の仕事を手伝っていたのだ。
この組織内における夏瀬と秋紗の力関係は絶妙だ。そもそも夏瀬はビジネス、秋紗はスパイ活動が専門であり、活躍できる分野がまるで違う。実年齢なら夏瀬の方が上だが、秋紗は創設メンバーのひとりである。そのため、互いに実力を認め合う形で対等の関係となっている。
「おそらく突っぱねられることはないだろう。あの爺さん、ハルには激甘だから。ただ、いらんことのひとつくらいはしてきそうだけど」
「……詳しそうね、アキさん。話をしたことがあるの?」
「まあ。ハルとは小さい頃も友達だったから、その縁でね」
と秋紗は何気ない口調で言う。
秋紗にとっては「友人のおじいちゃん」くらいの認識なのかもしれないが、かつて大企業で幹部候補生を張っていた夏瀬は違う。「財界の重鎮」「経営のカリスマ」と呼ばれた伝説的経営者だ。
そんな現人神にも等しい存在と近しい距離だというなら、実益があるかどうかはともかく、少し羨ましい気もする。
──そのとき。夏瀬のリストフォンが鳴った。
社長からの連絡かと見た夏瀬は、その相手を見た途端に緊張を解く。
「ナツ、電話?」
「ええ、妹から。少し話してきても?」
「どうぞ。こっちは何の問題もないし、もしハルから連絡があったら教えるから」
と秋紗に促され、夏瀬はオフィスを出ると着信に出た。
「……もしもし、灯夏?」
『あ、夏瀬? 久しぶりぃ』
スピーカーから妹、中鈴木灯夏の声が届く。
灯夏は夏瀬の7つしたの妹だ。17歳、現在高校2年生。こことは鈍行電車で30分くらい離れたところにある中鈴木家の実家に住んでいる。
『もうお仕事終わった? それとも残業中?』
「一応、業務時間外よ。それより何かあった? 父さんの調子はどう?」
『あ、パパには何の変わりもないよ。私もママも元気元気』
と灯夏は脱力気味の口調で言う。
いつもクールでパリッとしている夏瀬の実妹でありながら、灯夏は能天気な性格。「悪戯しない冬峰」というとなかなか近い。
『それでさ。夏瀬、今週末空いてる?』
「今週末? 何かあるの?」
『蓮舎庵市でステラ劇団の公演があるんだけど、一緒に見に行かない?』
「ちょっと急な話すぎない? 第一、チケットはとれたの?」
『それがね! それがね! 最初の抽選には当たらなかったんだけど、キャンセルチケットの再抽選に当たったの! すごくない!? もちろんふたり分あるよ』
「ふたり分って、誰か呼ぶつもりだったんじゃないの?」
『そうなの。最初から夏瀬を呼ぶつもりだったの』
と灯夏は人懐こい口調で言う。
何が狙いかは、なんとなく分かる。
「そう。で、そのチケット代を私が多めに出せば良いのね?」
『さっすが夏瀬、話が早ーい! どう? 可愛い妹にちょっとカンパしてくれない?』
「自分で自分のこと可愛いと呼ぶの、そろそろやめなさい」
『えー、どっちかっつーと今が旬じゃん! 今しかできないじゃん! で、どう?』
この小悪魔な妹に、夏瀬はため息をついた。
「お金は少し出してあげても良いから、友達と行ったら? それか彼氏とかいないの?」
『それがさ、一緒に観劇行ってくれる友達がいないの。みんな映画ばっかり。それに、夏瀬を見てると彼氏なんて作ろうと思えないよぉ』
最後の言葉が夏瀬の心にグサリと深く突き刺さる。
──説明しよう。
中鈴木夏瀬。『特に優秀な学生は中学校・高校の学習内容を4年で修了することを認める』という新カリキュラムにより、20歳にして大学を卒業した才色兼備の優等生。
名門大卒という肩書と数々の資格を持つ彼女は一流企業に幹部候補生としての採用を勝ち取り、そこでメキメキと頭角を現していった。
しかし、順風満帆のエリート人生が続いたのはここまで。
彼女を破滅に追いこんだきっかけとなったのは、実にくだらない話だが、当時交際していたイケメン彼氏に社長の娘が一目ぼれしたことだった。イケメン彼氏も社長令嬢の逆玉に乗るチャンスだと思ったようで、2人は邪魔になった夏瀬に機密漏洩と横領の容疑をかけ、社長に懲戒解雇させたのだ。
優秀ではあったが何の後ろ盾もなかった夏瀬は、こうして何ひとつ弁明することもできずクビに。しかも不幸は重なるもので、同時期に父が病気で倒れ働けない状態になってしまう。
父の治療費と家族の生活費を稼がねばならなくなった夏瀬に、自らの無実を証明する余裕は残されていなかった。新たな就職先を探そうとするも、既に横領の噂が広まっていたため一流企業では書類選考落ちの日々。
そんな心の衰弱が次の悲劇のトリガーとなった。残り少ない貯蓄が尽きる前にまとまった金が欲しかった夏瀬は、普段なら視界にも入れないような怪しい求人にすがりついた。今にして思えば見え見えの甘い罠だったと言うのに。
実のところ、その求人の正体は悪の組織の戦闘員募集であった。夏瀬は強制的な身体改造を施され、組織のアジトに監禁された。金やキャリアどころか、人としての尊厳、中鈴木夏瀬という人格、現代社会における居場所、そういった物まで夏瀬は一度奪いつくされたのだ。代わりに得た身体能力など、誰が欲しいと望んだというのか。
落ちるところまで落ちた夏瀬。いっそ何もかも捨てて死んでしまいたい。そう絶望していたとき、ついに転機が訪れた。その監禁施設を悪徳財団が襲撃し、捕らわれていた夏瀬は春羽と秋紗に救助されたのだった。
──それから、夏瀬はHAL社に雇用された。春羽の好意、というだけではない。メンバーが春羽と秋紗しかおらず、民間企業勤務経験者をひとりくらいメンバーに加えたかったというHAL社側の事情がたまたま噛みあったのだ。それで夏瀬は現在もHAL社で勤務している。会社の規模は以前の職場よりずいぶん小さくなってしまったが、給与だけ見ればむしろ以前より上がっているので、家族たちに十分な仕送りをすることもできている。
夏瀬にとって春羽は恩人である一方、雇用主という見方も強い。だからこそ社長と呼んでいるわけだ。
それにしても、と夏瀬は思う。なぜ私はこんなに男運がないのだろう、と。
「って、ちょっと待って。今週末?」
『そ。今週末。もしかして夏瀬こそデートの予定でもあった? その男、本当に大丈夫?』
「そんなんじゃないわよ」
と夏瀬は言ったが、そこで言葉を止める。
今週末、ネオ-デストロイ団の一斉攻撃がある可能性が高い。だというのに灯夏がこの蓮舎庵を訪れるのはいかがなものか。
しかし、それを直接的に公言してしまって良いのか。しかも相手は口の軽そうな灯夏だ。秘密を守らせるということには不安しかないので、夏瀬は悪徳財団に所属していることも教えていない。
「悪いこと言わないから、今週末は家にいなさい。チケット代は全部出してあげるから」
『え、やだ。絶対行く。やっと抽選当たったんだよ?』
灯夏の決断は堅いようだ。この分では、事情を話さずに灯夏を止めるのは難しいかもしれない。夏瀬はここで考えを少し変えた。
「ちょっと待って」
と言ってミュートにし、部屋に戻る。秋紗が顔を上げた。
「アキさん。今週末の話なんだけど」
「うん、どうかした?」
「私は何か予定はあるかしら。バックアップ要員として、とか」
「……いや、別に。私とハルで全部こなせると思う。ナツは普通に休日として過ごして良いよ。家族で何かあるの?」
「家族というか、妹がね。どうしても今週末こっちに来るって言うのよ。でも今週末は危ないかもしれないじゃない? だから、妹に付きっ切りでいようと思ってね」
「なら、そうしてあげて。こっちはこっちで上手くやるから」
「ありがとう」
そうして夏瀬は、また部屋に出てミュートを解除した。
「分かったわ。じゃあ、今週末ね。チケット代2枚分のお金を教えて。今度、送金するから」
『やっっっったじぇ。さっすが夏瀬。そんじゃ今週末ねぇ』
「ええ。それじゃあね」
として電話を切る。そうして一息ついたそのとき、夏瀬はすぐ隣に冬峰がいることに気づいた。さっき夏瀬がオフィスに出入りした間に、ここへ来ていたらしい。
「ナツさん、今週末、なんかあるんですか?」
「ええ。実はね──」
夏瀬が説明しようとしたが、冬峰はニヤニヤしながら言葉を遮って
「ははーん、分かりましたよ。さてはハンサムボーイとおデートですね?」
「違うわ。妹が来るのよ」
そう言うと、夏瀬は諦め混じりの遠い目をしながら、言葉をつづけた。
「それに。男は当面、いいわ」
「うぉぉぉぉぉぉーッ! 言ってみてええええぇーッ!」
§ § §
「オラんハンサムどおデートすでみでえだぁ……」
縁側でひとり、冬峰は焼き芋をかじりながら黄昏れていた。
自慢の自家製ハチミツを焼き芋に塗りたくりながら食べる。これぞ冬峰の贅沢というもの。アンニュイな夕方は糖分で乗り切るに限る。
が、
「んあ。もハチミツねえ……」
気づけばハチミツがもうない。そう言えばこないだのカレーで使ったし、小腹がすいたときに少しずつつまんでいたのもある。とどめに、今の焼き芋にいつもの5割増しで塗りたくったものだから、なくなってしまったのだ。
仕方ない。
冬峰は靴を履くと、縁側から外に出た。オフィスがある建物に周り、中にいる秋紗や夏瀬に向かって窓越しに
「すんません、ちょいと山さ行ってきます」
と報告する。
「暗くなる前には戻るのよ」
夏瀬にそうOKをもらい、冬峰はHAL社の敷地外に出た。敷地外といっても道路ではないし、愛用の古ぼけた自転車にまたがるわけでもない。むしろその反対側、野山に隣接した裏口から出た。
それから夕暮れの中、冬峰はけもの道を歩き続ける。道は踏み固めた程度の幅しかなく、もちろん舗装なんてされていない。
進むこと10分。山肌の中に小さな洞穴が開いている。冬峰はここを目指していたのだ。
その中に入る冬峰。すると、中で眠る大きなツキノワグマと目が合った。
「おーい! 起ぐろ、豪傑大吉丸! 出動ん時間だぞ!」
冬峰はそのツキノワグマ、豪傑大吉丸に声をかける。大吉丸は冬峰に襲いかかることもなく、のそのそと巣穴の外に出た。そしてそれにまたがる冬峰。
「行ぐぞ、大吉丸! おデートだぁ!」
勢いの良い冬峰の号令が野山に響き、大吉丸は冬峰を乗せて走り出した。
──田中屋冬峰。
いつ廃校になってもおかしくないような田舎の学校で育った田舎者、と思いきやその学校すらまともに行っていなかったクソ坊主。他の人にはない少し風変わりな力を携えて産まれた冬峰は、まともに勉学を励むこともなく、ほとんどの時間を野山での修行に費やしていたという。
変わり者だったのはそれだけでなく、普通の子なら勧善懲悪のヒーロー劇などを見て「○○レンジャー格好いい!」となるところ、クソ坊主だった冬峰は「悪の幹部になればあんな自由なことができるのか!」と感動したらしい。
それで札付きの悪に成長した冬峰は、来客用に母が買っておいたお菓子を勝手に喰う、近所の家から犬や猫を誘拐する、スパゲッティをすすって食べる、寺社の賽銭箱から5円玉を盗む、父の秘蔵のエロ本を母の前で熟読する、隣町の番長に夏休みの宿題をやらせる、学校行事で来校していた村長にカンチョーをキメるなど非道の限りを尽くしていた。
中学は卒業したものの、そんな悪名高いクソ坊主を雇うところが村の中にあるはずもなく、生家の農作業を手伝ったりもしてみたが、ある日ついに
「オラぁ都会さ行っで玉ん輿さ乗るだ」
と宣言して、悪の大幹部かアイドルになるという夢を叶えるために単身上京。
学もない、資格もない、都会には身寄りもない。
金もない、家もない。当たり前のようにホームレス。
日銭の稼ぎ方は詐欺と窃盗。野良猫を抱いて暖をとる。
そんな底辺ですっかり燻っていたある日、ある人物との出会いが彼女を劇的に変えることになる。
その人物の名は【便器怪人ベン・ザ・カバー】!
各住宅をまわり、そこのトイレにある便座カバーを同じ形の芝生にすり替えようとしていたこの怪人に、冬峰は「これがオラん理想だぁ!」と弟子入りを希望。
しかしベン・ザ・カバーは何度もこれを拒絶。ベン・ザ・カバーの所属元である悪徳財団はいくらでも怪人を製造できるため、一般人の受け入れを全く望んでいなかったのだ。それに、悪の怪人が現れたとなれば一般人は逃げ惑うのが普通なのに、自ら弟子入りを所望するホームレスなど怪しい以外の何物でもない。
ところが冬峰は諦めが悪く、勝手についてくるわ、頭から紙袋をかぶって勝手に一番弟子「マスク・ザ・ウィンター」を名乗り始めるわで、もう大変。しかもその状態で騒ぎを聞きつけたジャスティンガーが到着する始末。
だがここで、誰もが予想しなかった大番狂わせが発生する。厳しい訓練を受けているはずのジャスティンガー99名の全員が、頭から紙袋を被っただけの即席怪人「マスク・ザ・ウィンター」にたったの2秒で完全敗北したのだ。
これを受けて悪徳財団は「あんな危険人物を野放しにはしておくことはできない」と判断して、冬峰を懐柔する方針にチェンジ。これにより冬峰の長く孤独なホームレス生活は終わりを迎えたのであった。
なお、これでいよいよ冬峰は制御不能の暴れん坊になったのかと思いきや、悪のボスでありながら素行の良い春羽を見て「悪のカリスマは悪事を小出しにしない」と勝手に感じ取ったようで、悪徳財団所属後の方がむしろおとなしくなったという。
大吉丸に乗って野山を進むこと10分。まず他人が踏み入らないだろう野山の奥地にたどりついた冬峰。ここには、彼女が築いたツリーハウスがある。
「大吉丸。こごで待っでろ」
冬峰は大吉丸から降りて気を登り、ツリーハウスの中に入った。中にはミツバチ用の巣箱がある。ちなみに、このようなミツバチの巣箱を設置したツリーハウスはここ以外に何か所もある。
彼女の存在を察知した途端、ミツバチが冬峰に纏わりつく。しかしその中に彼女を刺す冬峰は一匹もいない。防護服もなしにこんなことができるのは、冬峰ならではといったところだろう。
「ひひひっ、今日も大量だぁ。おめら、こんからん頼んぞ」
巣箱の中にたまったハチミツを収穫しながら、冬峰はニンマリした。
そうして冬峰はハチミツをビン2つぶん収穫すると、大吉丸に食べかけの焼き芋を渡した。
「大吉丸。おめえはどだ? 最近、良いこどあっだが?」
冬峰が尋ねる。しかしクマに人の言葉が分かるわけもなく、大吉丸は冷めた焼き芋を黙々と食べている。だが冬峰はその様子にすら満足げに
「すが」
とうなずいた。
§ § §
同時刻、蓮舎庵スカイマックスタワー屋上。
この蓮舎庵市の中で最も高い建物であるこのタワーの屋上は、本来なら許可なく部外者が立ち入ることはできないのだが、そこには街の明かりを見下ろす青年の姿があった。雪のように白い肌、燃え上がるほど鮮やかな赤に染まる眼、鋭い爪と硬い鱗に覆われた両手。明らかにこの星の人類ではないが、それ自体は異星間交流が盛んなこの時代では珍しくないことだ。が、実はこの男、そうした「正規の旅行者」というわけでもなかった。
「若!」
そのとき、彼の背後にまた別の男が現れた。屈強な肉体を漆黒の鎧で包んだ、鬼のような大男だ。
「若、探しましたぞ。何故、このような場所に」
「ふんっ、今のうちに見ておくのも悪くないかと思ったんだよ。これから自分が焼き尽くしてやる街が、元はどんなところだったのかをな」
そう言って街を見下ろす彼、ネオ-デストロイ団残党の首領、アクーラJr.は嘲りに満ちた笑みを浮かべていた……。
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