Episode308 その人の視線の先にあるもの

 中学校生活最後の冬休みに入り、実家に帰省中の私。そして受験は最終段階に突入した。

 筆記はもちろんのこと、実技に関してはお庭を走り回って荒らす訳にもいかないので、既に早めの冬期休暇に入っているお兄様が私に付いて、早朝に屋敷の外周を走るのに付き合ってくれている。


 学院にいる間も休日欠かさず走り込みトレーニングをやっていたおかげで、すっかり体力は伸びた。何だかマラソン選手になれそうな気がします。

 そして隣を走るお兄様はさすがと言うべきか、麗花のように息一つ乱すことなく、とても余裕そうなご様子。この後はお父様に付いて会社へ行くと言うのに、本当にすごい人である。


 そしてそんなお兄様について、一つ気になっていることがある。

 私もお兄様も走ってはいるが余裕があるので、ここで聞いてみることにした。


「お兄様、走りながらでよろしいでしょうか?」

「僕は良いけどお前は転ぶかもしれないから、じゃあ最後まで行ってから一旦止まろうか」


 よそ事を考えながらだと駄目だと言われたので、言うことに従って屋敷の門まで走ってから止まる。

 私は一つに結んでいるので乱れることはないが、お兄様は風で乱れた髪を片手で梳くように後ろに向かって流しながら、私に顔を向けてくる。


「で、なに?」

「お兄様は大学院へ進まれるのですか?」

「ああ、何だその話?」


 そう。大学は四年制でまだ二年残っているが、家に戻って耳にした話だとどうも卒業後は百合宮コーポレーションに入社せず、大学に残って勉強を続けるということを聞いたのだ。

 つまりは大学院への進学である。


 ゲーム上では画面に一切姿を見せないお兄様だが、ストーリーの流れでは彼は自分が継ぐ会社にいたという記載があった。

 だから「えっ」と思って気になり過ぎて、どうしても本人からそれが本当の話なのかどうなのかを聞かずにはいられなかったのだ。


「長期休暇の間はお父様に付いて、会社に行かれていらっしゃるじゃないですか。インターンシップをされていらっしゃるから、ご卒業後はそのまま入社されるのだとばかり思っていました」


 私がそう言うと、お兄様は「うーん」と一回軽く唸ってから、腕を組んで門にもたれかかった。


「……別に、僕が入らなくてもいいかなって思ったんだよね」

「え?」

「自分の目で見てそう感じた。父さんの下で働いている従業員の顔も生き生きとしているし、業績だって未だ右肩上がり。今の環境で十分回っているのなら、僕が継ぐのはまだ時期尚早なんじゃないかってね。父さんもまだまだ現役でいけるし歳だし」


 まだまだってお父様、もうピ――歳じゃありませんでしたっけ? それにお見送りする時、最近のお父様はしょんぼりしているご様子だった。


「お父様はお兄様と一緒にお仕事するの、楽しみにしていたみたいですのに」

「あはは。確かに卒業後は会社に入らず大学院にって言った時、ショックそうな顔された。会社で何か嫌なことでもあったのかって、そう言われた時は可笑しかったよね。むしろ良かったからそう決めたのに。……まあ正直なところ、どうしようか迷ってる」

「何をですか?」

「そもそもの話、会社自体を継ぐかどうか」

「えっ!?」


 大きな声を上げてから思わず自分の口を手で塞ぐ。遅きに失しているが。


「それ、お父様とお母様には、言って……?」

「いや、それはさすがにね」


 肩を竦めて返されるが、今とんでもないことを話されている。

 ……これは百合宮家にとっての大事件である!


「ど、どうして。お兄様が継がなかったら、会社どうするんですか。皆さんを路頭に迷わせる気なんですか!?」

「何でそうなるの」


 だって! 絶対皆、お兄様が入ったら将来安泰って思ってるよ! お父様からお兄様に代わらない方が会社に激震走るよ!

 目をかっ開いて見つめる私に苦笑が返る。


「別に血統で継ぐと決まっている訳じゃないし。今のままの在り方で会社が良い方向へ進むのなら、その方が良いって思っているだけだよ。それに僕がインターンしている時、むしろ社内の雰囲気硬くなってたし。まあ父さんが僕たちを顧みず仕事に一直線になっていた頃を知っている人たちだから、思うところがあるんだろうね。多分それは…………信頼関係、と言うものなんだろう」


 信頼関係……。

 思いも寄らぬ言葉に目が瞬く。


「ですが、でも。それは入社して積み上げていけば」

「うん。初めからそこにあるものではないよね。確かに僕は百合宮コーポレーション代表取締役の息子で、百合宮家という家の跡取りではある。僕が外でどう言われ、評価されているのかもあらかじめ知っているだろう。そこにはある種の……例えば、『あの百合宮社長の息子なのだから』や、『神童と言われるくらいなのだから』とか、そういった信頼はあると思う。けどそれが逆に、今の作り上げられた輪を乱すことにもなりかねない」


 お兄様が仰るには、それはお父様のことがあるからだと。

 インターンシップ中は常にお父様の傍で仕事を教えられていたお兄様は、どことなく自分に向ける従業員の視線に戸惑いのようなものがあると感じたそうだ。


 色々その理由を考えはしたが人の気持ちなので考えるばかりでは答えは出せないと思い、お父様がお手洗いで席を外した隙に秘書である菅山さんに、彼がそれについてどう思うのか聞いてみたところ――



『……かつて社長には、部下の仕事を自らがやった方が早いからと勝手に請け負っていた悪へ……ゴホン、そういった行動を頻繁に取っていたことがございまして。当社の従業員たちはもちろん皆優秀な人材です。ただ……偽りなく申し上げると、本当に社長がやった方が早かったのです。ですからそのせいで一時期は皆の仕事に対する情熱ですとか、自信ですとかが地の底に堕ちてしまうということがありました。奏多坊ちゃんには大変失礼なことではありますが、恐らく皆その時の、社内恐慌時代のことが頭を過っているのではないかと』



 まさかの仕事一環鬼軍曹時代の弊害が起きていることを知ってしまった。


 お兄様がただただ完璧に近い神童と評価されている人間且つ『百合宮社長の息子』ということで、社内恐慌氷河期時代が再来するのかと怯え恐れる従業員たちの精神を鎮めるために、一時撤退措置、イコール大学院の進学を決めたとのこと。

 あとお兄様自身も、より専門の知識を学びたいという思いがあるそうで。


「経営学とかはいいけど、さすがに植物のことに関しては僕に父さん並みの知識量はないからね。家を継ぐのは変わらないけど、会社を継ぐことに関してはまた考えたり、僕自身の将来については……父さんにちゃんと相談しようと思う。それにインターンシップ中、あの会社を継ぐに相応しい人が他にもいるなとも思ったし」

「え、誰かいらっしゃるんですか?」

「うん。父さんに信頼されて従業員からも慕われている、今の会社の土台を支えてくれている人がね」


 はっきりと名前を出さないので再び誰と聞いてもお兄様は微笑むばかりで、それ以上は答えて下さらなかった。

 そんな会話をしている間に時間となり、今朝の走り込みトレーニングは終了と言われて、並んで門から家に向かう。

 ぷぅと頬を膨らませてねる私の頭を、くすりと笑ったお兄様の手がポンと撫でてきた。


「父さんが仕事に掛かりきりになっていた頃は、当然のように自分が継ぐものと思っていたけどね。けど家の中の雰囲気が変わって、僕に友人ができて、“外”に目を向けてみて。僕には『会社を継ぐ』以外の道もあるんじゃないかって、そう思い始めてきたんだ」


 家を継ぐことと会社を継ぐことは、イコールではないのだと。


「ほら。僕らのご先祖様って、頭の切れる実業家だったって話だろう? 趣味が生花を育てることで、いつの間にかそれが事業化して、今の会社になったっていう。ご先祖様が作り上げた道を歩くのも、同じ道かと思ったら詰まらないしね。自分の力で一からっていう方が、何だか楽しそうだとは思わない?」


 隣を歩く私はそんなお兄様の話を聞いてもまだ困惑の気持ちはあったけれど、最初に抱いていた驚愕と焦燥は治まっていた。


 ……お兄様はかつて、学院に向かって一石を投じた。

 初等部入学前にファヴォリの所属を辞退する例はあったけれど、入学してからその所属を返上するということは、学院が始まって以来初めてのことだった。

 生徒の意識を変えるために動き出し、有言実行を果たした。お兄様が在籍していた頃に抱いていたその意識は、力ある後輩にちゃんと受け継がれている。


 何かを成すということは、並大抵のことではない。

 神童と呼ばれるお兄様にだって、改革を進める中で何かの壁にぶつかることもあった筈。たまにだけど、疲れた顔をしている時もあったから。


 けれどそんな壁があったりしても、私が香桜で過ごした時間の中でたくさんのことを得たように、お兄様にとってもそれはかけがえのないものを得た時間だったのかもしれない。


「お兄様」


 穏やかで、温かな眼差しで私を見下ろしてくる。そんなお兄様を見つめて口角が上げる。


「ん?」

「私、お兄様のこと応援します。家族会議の時は鈴ちゃんも味方につけて、お父様に応戦しますから!」

「……ありがとう。花蓮も紅霧学院、受かるといいね」

「はい!」


 頭の上に乗っている手の温もりは、ずっと変わらない。傍にあると安心する、お日さまの香りも。


「楽しみだな」


 ふんふん鼻歌混じりに歩いていると、そんなことをポツリと溢している。


「何が楽しみなんですか?」

「うん、ちょっとね。瑠璃子ちゃんも銀霜学院に受かるだろうし、本当楽しみだよ」


 お兄様がそう仰るということは、瑠璃ちゃんの筆記合格ライン判定は間違いなさそうである。

 たっくんも頑張っているし、色々あるけど私も二人には志望している学校に受かってほしい。




 そんな風にお兄様の「楽しみ」を言葉通りに受け取った私は、そこに別の意味が含まれていたことなど知る由もなく。

 私がその言葉の真意に気づくことができたのは――――そう遠くもない数年後の話である。

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