Episode284 劇中・イエスとユダの関係

 皆、カーテンが開く前と同じ位置に座る。そうして再び軽快なBGMが流れ出して照明も明るさをゆっくりと増していくと、観客の前には三幕目が始まった時と同じ光景が広がっていた。

 やはり弟子たちは三人一組で会話をして盛り上がっているし、私はそんな楽しそうな弟子たちの様子を見ながら一人で食事を摂っている。


 どの世界の英雄も英雄であるが故に特別な存在であると一線を引かれ、同じ人間だとしては扱われない。

 特別とされる人間にはその人間にしかない何かがある。それが多くの人々の目には正統と映るか、異端であると映るかは見る人の立場次第。


 正統と映っているから十二使徒や信者がいるのだし、異端と映っているから排斥しようと動く者もいる。

 何にしても人に特別扱いされる存在――人間とは、最早彼らの目には神か悪魔、どちらかとしてしか映されていないのだ。


『――過越祭の前夜、再びイエスと十二使徒たちは楽しい夕食の時間を過ごしていました。そして相変わらずイエスが一人真ん中でポツンと食事をしております。会話の仲間に入れてほしそうな目で弟子たちを見ております。……ああ、誰とも目が合いません。遂にイエスはその口を開きました』


 そんな深いことを考えていたら、またもや失礼なことを語られる。

 台詞を言えとナレーションが言ってきたので、遂にここからが『最後の晩餐』の始まりだ。


「弟子たちよ」


 その一言に、今まで楽しそうに会話を交わしていた十二使徒たちが一斉にピタリと口を閉ざす。BGMも楽しそうな曲調からゆったりとしたメロディーに変調し、次第にフェードアウトしていった。

 弟子たちの視線がこちらに集中していることを見回して確認してから、私は彼らに告げる。


「私は明日、この身と精神に苦しみを受けます」


 すると弟子たちは皆一様に驚き、疑問を呈す。


「主よ、それは一体どういうことなのですか」

「明日は過越祭です。そんな祝いの日の始まりに、何故主が苦しみを受けるのですか」


 言われて当然の疑問を向けられた私は寂しそうな表情を面に乗せ、薄く笑った。


「弟子たちよ。その疑問に答える前に、私の前には一体何があるのか答えられますか?」

「それは……パンと、葡萄酒ですよね?」

「ええ、そうです。例えるならばこのパンは私の身体、この葡萄酒は私の血です。これから多くの人のために流れるであろう、私の契約の血なのです」


 物騒な発言に弟子たちは互いに顔を見合わせ、動揺を広げる。


「血が流れるとは、まさかそんな」

「私はその苦しみを受ける前に、この過越祭の食事を皆と共に過ごしたいと願っていました。何故ならば……の国で明日から行われる過越祭を貴方たちと祝うまで、もう二度とこの過越の食事をすることはないのですから」

「にっ、二度と……!?」


 そこで私はペトロを見た。

 数日前、足を拭かれるのを拒否しようとしたあのペトロである。


「ペトロよ。私が貴方の足を拭こうとした時に言った言葉の意味を、いま教えましょう。弟子たちよ。私が貴方たちの足を拭いたのは、貴方たちが私にした通りのことを今後していくように、それを示したのです。人の上に立つ者はへりくだった心を持って、深々と人々のために尽くしてもらいたいのです」

「おお、そんな意味があったのですか……」

「あとペトロ。耳の穴は掃除してきましたか?」

「えっ。し、してきましたけど、いまお話しされるんですか? えっ、私の話を皆のいる前で伝えられるんですか!?」


 鷹揚に頷く。


「ひええっ!」

「そんなに怯えるものではありません。これは予言です、ペトロよ。貴方は鶏が鳴く前に三度、私のことを知らないと言うでしょう」

「え? ……え? 足を拭いて頂いたのにもしかして私、主から縁切られてるんですか?」

「貴方も後で分かるようになります」

「主いつもそれしか言わないじゃないですか! 怖い!!」


 喚くペトロを深い微笑みで黙らせた後、私は目の前のお皿に乗っているパン(これだけ本物)を手にして眉尻を下げた。


「貴方たち十二人は、私が選んだ者たちです。それなのに、貴方たちの中に私を裏切ろうとしている者が一人います。私が苦しみを受ける“事”が起こった時に、貴方たちが信じるようにと今、事の起こらぬ内に伝えたかったのです」


 はっきりと告げ、愕然とする面々を見遣る。


「そんな……裏切り者など」

「だが私達は、主の奇跡をいつも目の当たりにしてきただろう。その主が予言されたことなのだぞ」

「では本当に私達の中に裏切り者がいると?」

「まさかペトロ、お前なのか!?」

「えええ!? 後でって言われてこんな秒で理由分かっちゃう感じなの!? と言うか私、本当に心当たりなんてありませんけど!?」

「……主よ。その裏切り者とは一体、誰のことなのですか?」


 弟子の一人が意を決して尋ねたそれを受けた私は、手に持つパンを千切り、杯に注がれている葡萄酒へと浸した。


「この血に浸した私の身体の一部を、私が今から与える者こそが裏切り者です」


 椅子から立って一度全体を見渡してから静かに、その者の後ろへと立った。


「――――さあユダ、お受け取りなさい」

「……っ!?」


 息を呑むユダ。周囲にいる弟子も呆然としている。


 私を裏切る者を強い視線で見据える。

 身を震わせたユダは様々な奇跡を起こしてきた私――イエスに言い逃れはできないと悟り、観念したかのように恐る恐るとそのパンを受け取った。


「……貴方がしようとしていることを、今すぐしなさい」


 言うや否やユダはすぐさま席を立ち、舞台袖へと立ち去った。その様子を見ていた弟子たちは自分が裏切り者ではなかったとホッと安堵するのではなく、未だ信じられないと口々にしている。

 それはそうだろう。ユダは、イエスから会計係を任されるほどに信頼されていた弟子なのだ。


 ユダが裏切った明確な理由はどの福音書にも明かされていない。

 イエスがユダの求める姿と違って失望したからか、その身に悪魔が入ったからだとか、語られる理由は諸説ある。そしてイエスを想うが故に、彼の行動を止めたかったからだとも。


 イエスは神の使命を果たすために過越祭を都イェルサレムで過ごす必要があったから上京したが、当時の宗教主導者である大司祭カイアファがイエスの思想に危機感を抱いて一行を捕えようとしており、彼等から逃げていたという状況にあった。


 しかしイェルサレムにはローマの圧政に苦しむ人々がいて、その圧政から救ってくれる救世主を求めていた。

 求めていても救世主の姿など知らない人々にとっては、イエスがその救世主とは分からない。だからこそイエスは己こそが人々を救う救世主であるのだと、当時の宗教主導者やローマの権力者などから「コイツは危険だ」と見做される派手な登場をしたのだ。


 その後もイエスはイエスの信念で以って行動したが、それを見ていたユダは疑念を抱く。

 そしてそんなイエスを止めるべく、敢えて敵対関係にある大司祭カイアファの元へ向かった。「どうか先生を止めて下さい」と。


 そう。イスカリオテのユダだけはイエスのことを他と同じように“主”ではなく、“先生”と呼ぶ。

 このことから元々ユダは、イエスのことを救世主としては認めていなかったのだとも取れる。けれど他の弟子たちはイエスのことを神の子だと信じ、皆彼のことを“主”と呼んだ。


 神の子とは、最早同じ人間であるとは見做されていない。

 人智を超えた奇跡をイエスが起こしていることも弟子たちから、イエスは神の子だと崇められる拍車が掛かっている。

 ここで先程、私が深く考えたことに回帰する。


 ユダだけが敢えてイエスを“先生”と呼び続けていたのは、彼だけがイエスを同じ地に足を着けている人間だと見ていたからじゃないかと。たくさんの奇跡を起こしていても、彼は人間なのだと。

 だからこそユダは、イエスを“人間”として敬っていたのではないかと。


「……何故、私を裏切るのですか。私はただ人々を苦しみから救いたかった、それだけなのに……」


 思い浮かんだすべては推測に過ぎない。真実は途方もないほど遠い昔に亡くなった、イスカリオテのユダにしか分からないのだから。

 ユダが消え去った場所を静かに見つめ、この場に残る弟子らに晩餐を終えることを告げた。


「今からゲツセマネに行き、我が神へと祈りを捧げます。皆私に付いてきなさい」


 そうして『ゲツセマネの祈り』のシーンへと移り、これから受ける苦悩を思って必死に祈りを捧げていたのに呑気に三回も眠りこける弟子たちを同じ回数叱った後、そこでイエスを捕まえるために大祭司カイアファの兵を伴ってきたユダと再会する。


「先生!」


 裏切りが発覚したにも関わらず、まだ私のことを親し気に先生と呼ぶユダ。

 眠気の誘惑に耐え切れず三回も寝ていた弟子たちはすぐに状況が把握できないのか、咄嗟に動くことができなかった。


 ――逃げようとは思わなかった。


 人間の身である私は既に父へとこの身に受ける苦しみと悲しみを吐露したし、これから父と同じ存在になるのだと思えば、そもそも逃げることは私にとって愚かな選択だったから。


「先生」


 向かってくるユダを避けはしない。彼が私の元へ来るのを待つばかり。

 笑って私の元に近づいてくるユダを見つめ続け、頬に口付けをする――――振りの演技を受ける。


 それを合図にイエス一行を捕えようと動き始める兵士と逃げようと動く弟子の喧騒が始まるも、そんな周囲の騒ぎなど耳に入っていないかのように私はただ、ユダの顔を見つめ続けた。


 ……口付けを。親愛と愛情を伝えるその行為を、お前は私を捕らえるための道具にしたのか。



「――――を裏切る人間など、生まれてこなければよかったのに」



 お前が裏切ったせいで私は、もうお前と同じ“人”としては生きられないのだから――……。


 ユダは大きく目を見開いた。一瞬傷ついたように顔を歪めたのは、彼女の演技力のたまものだろうか。

 そう、ユダ役はクラスの演劇部員が担っている。この口付け頬にキス場面シーンがあるがために、私に近づいても耐えられる(?)人間でなければならなかったらしいのだ。


 ユダと私の空間に兵士が割って入る。

 縄をかけられ捕縛された私は逃げて散り散りになった弟子たちのことを思い、連れられて行った。

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