Episode255 花蓮の特訓状況と陽翔の変化

 八月に入って二週間が経過した。


 温暖化の影響もあるのだろうか、カラリと晴れた空には入道雲が遠く漂い、容赦なく真夏の陽光が地へと降り注ぐ。風など一切ない乾いた空気は熱を孕んで肌を焼き、滲み出た汗が顔の輪郭を辿って流れ落ちて、地面へと吸い込まれていった。


 果てのないみちの先を……見えないゴールを求めて走り続けていた足は、今や生まれたての小鹿のように小刻みに震えて持ち主に限界を訴え掛けている。

 一度は汗で濡れた筈の地面は、含んだ水気を一瞬の内に蒸発させて元の色を取り戻した。


 上から降り注がれる熱射と下から立ち上る熱気が板挟みとなった肢体に、際限なく纏わりつく。真夏の熱を全身に浴びるかのように受けて、思考は少し前から蜃気楼のようにもやがかってしまっていた。


 立ち止まったその場で天を仰ぐと、清々しいスカイブルーに目がくらむ。まるでありとあらゆるものを溶かすような熱気に顔を顰め、小さく息を吐いた。



「――今日もよく頑張りました」

「何やりきったみたいなていで言ってんだ。まだテンポ走百メートル三本が残ってんぞ」


 靄がかった思考でつらつらと今年の夏がどれだけ酷暑且つ、私の四面楚歌ぶりを脳内説明し最終的な締め括りを唱えたら、特訓メニューの続行を鬼コーチから容赦なくぶつけられた。


「もう体力ないです。私の脚は限界を迎えました。あと少ししたら崩れ落ちます」


 限界を自己申告したところ、緋凰の眉間に深い渓谷ができた。そして徐に首に下げているものに手を伸ばし、手に収まるサイズのそれを操作し始める。


「……三十四度。気温上がったな」


 操作しているそれはいつかの日々によくお目にかかっていた、赤くて薄い卵型の万能防水性ストップウォッチ。

 それ気温も表示できるの? 逆に何の機能が付いてないの?


「私のクマさんマスクのこと言ってましたけど、貴方だってそれ、ずっと持ってるじゃないですか」

「俺のこれとお前の草臥くたびれマスクを同列にすんじゃねぇ。こっちウン万円してんだぜ」

「ストップウォッチにそんな金額かかってるとか世も末です」


 髪を一つ結びにしてスポーツサングラスに日替わりジャージという、『夏も元気にスポーツ少女(平凡)』コーデの私。

 それに対し私の指導役をしてくれている緋凰も白の半袖シャツと、他は黒で統一したコンプレッションウェアで、バリバリの『夏も元気にスポーツ少年(本格)』コーデになっている。彼も自分のトレーニングを兼ねて走ることもあるので、着替えているのだ。


 緋凰家が展開している事業の一つにスポーツジム運営があり、その設営以前のモデルとして土地を買取った後色々施工したその場所は、緋凰の人間が個人的にトレーニングするのに訪れる場所になったとのこと。

 初宿泊からお兄様がご帰宅されるのを見送って後、車で向かう途中そう緋凰が教えてくれた。


 ちなみにお兄様もいる宿泊一日目は、あれから何の問題もなく過ごした。

 何かあったと強いて言うのなら、お兄様に緋凰の写真を撮ってくれとお願いし、携帯カメラを向けられた緋凰が演技する余裕もなくして素で嫌がったことくらいだ。

 「笑顔! 緋凰さま笑顔!」とコールして私の頭がはたかれても、お兄様は楽しそうな顔をして「仲良しだね」と言っていた。本当にお兄様の中でダメなことが何なのか分かりません。


 そうして私達が今いるこの個人施設には、テニスコートやら屋外リングコートやら何やら造った中に、陸上のオールウェザーコートもある、これ以上ない贅沢な運動場となっている。しかしながら真上は全面吹き抜けの青空。つまり天井なし。


「それ即ち、こんな真夏の酷暑の中をずっと太陽の下で走り続けていたら、私はもうじき干からびて死ぬということです。求めるは適度な休憩、水分補給、日陰のある場所です!」

「そんだけ元気に喋れんならやれんだろ。オラ、もうひとっ走りしてこいや」

「鬼! ここに鬼がいます!!」


 軽口を叩きつつも投げて寄越されたふわふわタオルをキャッチして流れ落ちる汗を拭き、小鹿の脚を踏ん張って何とかドリンクの置いてある場所へと辿り着く。

 キャップを開けて口に含むと温い温度になってしまっているものの、グリーンシトラスの爽やかな風味は失われておらず、水分を失った身体に染み入るようだった。


 一時的に必要な水分を体内に確保して振り返れば、緋凰はタブレットを今度は操作していた。やってきた今までの記録は、すべてデジタル保存しているのだ。


「記録どうですか? 縮まりました?」

「こういうのはやってすぐ効果が出るもんじゃねぇ。長い目で見て成果が現れるモンだ。けどま、やり始めた頃よりかは味噌っかす程度には縮まってんぞ」

「それもう変化なしって一思いに言ってくれた方がマシです。あ。さっきのスタブロ錬のって、撮ってくれてます?」

「見るか?」

「お願いします!」


 スタブロ錬とは短距離走でのスタートダッシュを強化するための、スターティングブロックを使用したクラウチングスタートの練習のことである。


 小学生の頃にクラウチングスタートができなくて痛い目を見、空気も凍らせた私。裏エースくんと麗花に特訓してもらったけれど、あの時は転ばなくなるようにすることがゴールだった。

 今回は走りのタイムを縮めるための練習なので、ちゃんと理想となるフォームで動けているか確認するために、タブレットに搭載されているカメラで動画を撮っているのである。


 スイスイと手慣れた操作でタブレット画面に動画が表示されたので隣に並んで覗き込むようにすると、タブレットを持っていない手で私の首に掛けているタオルを掴んで、ふわりと頭に被せるようにして乗せられた。


「あ、ありがとうございます」

「ん」


 頭に日差しが直接当たらないよう遮ってくれたことにお礼を告げるが、緋凰はそれに頷いただけでさっさと動画のスタートボタンを押した。

 少し前にしていた自身の動きを目で追いながらも、頭の片隅ではここ最近の緋凰の私に対する態度が思い浮かぶ。



 ――緋凰は自身の父親とのことを明かしてから、こうしたちょっとした気遣いをするようになった。


 バカアホ鳥頭の三拍子は相変わらず畜生な口から飛び出すし、普通に舌打ちもしてくるのだが、靴を履き替える時に手を貸してくれたり、歩く時でも歩幅を合わせてきたり。

 初めにそうされた時は思わずギョッとして緋凰を見たが、本人は至って気にしていないようだった。そんな様子から、これらはすべて彼の無意識下で行われたことだと思われる。

 それも頻繁ではなく極たまにされることなので、急に今まで全くされなかったことをいきなりされたら、こちらとしては何なんだとキョドるしかない。


 ……恐らくだがこういった行動が表面化してきたのは、緋凰の中で私への壁が一つ取れたからなのだと思う。

 大好きな春日井にはかける言葉も比較的柔らかいし、態度も同様。対する私はクソミソ舌打ちメンチ切りだが、個人的に会ってくれて話も聞いてくれて、こうして特訓も引き受けてくれている。


 多分今まで接する中でも、緋凰にとって誰かとコミュニケーションを取ることは手探りだったのだろう。その中でも私は最初から特殊だったので、だから言いたい放題ではあったが、それでもどこかで引いていた一線があった。

 そりゃまあ、仲が悪いよりかは良い方がいいに決まっているけれど……。


「おい」

「え? あ、終わってる。私ちゃんと前傾姿勢維持できていましたよね?」

「暑さで頭やられたかお前。終わってから二十秒も待った。あと姿勢は戻すのが三秒早ぇ」


 見ていた筈なのに思考していたことに囚われて、動画内容が頭に残っていなかった。そんな私へ緋凰は安定の暴言を吐くついでに、キッパリとダメ出ししてくる。三秒って……。


「三秒そんなに大事ですか?」

「クロールのフォーム練習でどれだけ時間費やしたか覚えてねぇのか鳥頭」

「ああ、はい。そうでした」


 バタ足もそうだが腕の動きだけでもタイムがどうのこうのと言われて、ずっとやらされていたことを思い出す。なるほど納得。


「最初に説明した通り、基礎を固めるのにやってることだ。受験までにそう時間ねぇからここでしっかりやって、香桜のグラウンドでもコーナーあるなら休日にちゃんとやれよ。鳥頭だからすぐ動きが混乱するとかふざけたこと抜かしやがるが、甘いこと言ってる暇なんざねぇからな」

「はいティーチャー」


 大人しく素直にお返事すると、日差しを遮るように片腕を動かす仕草をしている。


「あっちぃ」

「天気予報でお姉さん言ってましたよ、今日の最高気温三十六度いくって」

「酷暑日かよ。……気象のことまで組む時入れてなかったしな。じゃあ今日は上がるか」

「えっ、いいんですか!?」

「適度に休憩したり水分補給するっつっても、限界あっから。あー、帰ってアイス食うか。お前何がいい? 三鷹天屋みたかてんやのカップのやつがあるけど」

「ブドウ味があったらそれがいいです。あと緋凰さま」

「何だ」


 シャワー更衣室が併設されている方向に歩き始めて途中、先程思ったことを伝えてみる。


「好きな人にも、そういう風に接していったらいいと思います」


 一体どういう風に受け止められているのか、無言のまま歩みは止まらない。

 けれどその速度が次第に落ちてゆっくりとなり、まるで電池が切れた玩具のようにピタリと止まった。一歩程度追い越したので振り返ると、何やら小難しそうな顔をしている。


「お前の話はいきなりどっか飛んでって脈絡もクソもねぇから、全っ然解んねぇ。そういう風ってどんなだよ」


 無言だったのは私の発言の意味を考えていたからだったらしい。無視されていた訳ではなかった。


「さっきは頭にタオル被せてくれたり、一緒に歩くときに歩幅合わせたりしてくれてるじゃないですか」

「そうか?」

「そうなんです! そう言うってことはやっぱり無意識のようですが、女の子って、そういう何気ないことにキュンとしたりするものなんです! 緋凰さまの場合は一気に距離を詰めるより、小さなキュンポイントを積み重ねていった方が効果的だと思います」

「キュンポイント」

「キュンポイントです」

「マジでお前のネーミングセンスクソだな」


 はい出たお口悪い! マイナスキュンポイント!


「……待て。つーことはお前……まさか」

「全然してません。私は私でキョドっただけで、客観的に見てそうだということを言っております」


 うわぁって引いた顔するんじゃない。マイナスのキュンが降り積もっていくぞ。

 せっかく善意でアドバイスしたのにと憮然とするも、「客観的……」と呟いて緋凰が歩みを再開させたので、大人しく付いていくしかなく。


 その後の緋凰はシャワーを浴びて着替えて出てきた時も、お屋敷に戻るまでの帰りの車内でも、帰宅後のアイスを食べる時もずっと考え事をしていた。声を掛けても反応はないが手は動いていたので、何とも器用なことである。

 一応就寝の挨拶をしに行った時も、ベッドに腰かけて顎に手を当ててまだ考え込んでいたので、何も言うことなくそっとドアを閉じた。



 そうして緋凰が思索にふける海外の有名な彫刻のようになってから――翌日。



「よし亀子、遊びに行くぞ!」



 朝食の席で、そんなことを唐突に言い放ってきた。

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