Episode220.7 side 白鴎 佳月⑤ その運命に抗う術

 ホテルのレストランで取っている予約席へと向かい、着いた先の光景につい驚いてしまった。

 感情をあまり表には出さないあの母が大粒の涙を止めどなく流しながら、それも一度は拒絶された百合宮夫人からハンカチでその涙を、優しい手つきで拭われているということに。


 訳を聞けばあまりにも端的だが的確な答えを返されて母の心情を思い酷く安堵したと同時、一瞬だけ眇められた目に素知らぬ振りをして席に着く。

 要らぬ追及をここでされるより前に、自身としても久しぶりにお会いする百合宮夫人とにこやかに会話を始めた。


 ――奏多と良好な関係を維持している俺の健康は、いまや完全に回復している。


 現在では彼と一緒の大学生活を送るとともに、仕事を覚えるため白鴎の会社にも多少出入りしたり、取引先との顔合わせにも赴いたりしている。

 と言っても家を継ぐ立場としてではなく、あくまでも将来の後継たる詩月の補佐という立場で。


 親から打診があったとかそういう訳じゃない。これは俺自身が望んだこと。健康になったからと言って、今更俺が後継として返り咲いて一体どうするというのか? 弟と争うなんて御免である。


 可愛い弟の立場を脅かしてまで得たいものじゃない。そんなもの、俺にとっては何の価値もないことだ。

 ……きっとそれは、奏多がファヴォリの所属を返上した時と同じ理由。


 体調が回復して催会に参加することも多くなったが故、数多の人間と交流することも増えた。そうして経験を積むと、どういう思惑で近づいてくるのかが自然と判るようになる。

 こうして公の場に出ることで、詩月から俺に後継が移るのではと期待し、繋がりを得たいという欲。残念だけど俺は後継にはならないよー。


 中にはあからさまに態度に出してくる者もいて面倒臭い時もあれば、逆に心配する時もあったりする。こんなに素直で大丈夫かなー?とか、騙されたりしないのかなー?とか。

 だから自分がそういうのを受け始めると、奏多がああも関心がなく自分以外を見下していたのも、何となく頷けるような気がする。


 神童と呼ばれる程に(対人能力は含まれない)出来の良い奏多なら、欲に濡れた視線にさらされるのも俺の比ではなかった筈。(素の辛辣対応以外)何でも出来る奏多から見て、出来ない人間なんて気にする価値はなかったのだろう。


 本心を仮面で覆い隠し、当たり障りなく対応することが当たり前だった。そんな彼の“当たり前”を崩したのが――花蓮ちゃん。


 その花蓮ちゃんが席を外している理由を尋ねれば、体調不良で帰宅したと聞いて心配と同時、肩すかしを食らったような気分に陥った。


 小中学生の頃たまに百合宮家にお邪魔していたけれど、その中であの子と会うことはなかった。

 訪問日を設定する時、奏多は彼女が家にいない日を指定してきたからだ。……“白鴎の血を継ぐ者”が百合宮の者へ抱く衝動に気づいているのか、いないのか。


 しかし気づいているとすれば、俺に対する態度が変わる筈。重い執着を向けられていると知って、奏多はそのまま付き合い続けるような人間じゃない。

 だから母から秘密を打ち明けられた日からずっと耐え、隠し続けてきた。悟られてはならないと。


 優秀な彼だから、どんなに慎重且つ排除する動きを密かにしても必ず気付かれるだろう。気付かれたら、奏多は俺から離れていく。


 それが手に取るように解るから今まで何もしなかった。

 ただについて楽し気に話されることを笑って聞いていた。――――グツグツと煮えたぎるモノを、理性で押さえつけて。


 自分の欲を優先して手を出して永遠に離れてしまうくらいなら、我慢し続けた方が余程マシだ。

 俺にとって家族以外に、奏多との繋がり以上に優先されるものなんて何もないのだから。だからこそ、母のあの時の推測は当たっていると思う。



『ただでさえ貴方がなのに、あの子がじゃないとは限らないでしょう?』


『私も貴方も想いは強く根深い。だから詩月もきっとそう。だからせめて仮面をつけ始める前に会わせたかったの。成長して、仮面をつけた状態で会わせたらきっと歪になる』



 ……確かに詩月には、がある。


 俺と奏多だけが知っている。文通の相手である天さんは、“百合宮 花蓮”であるということ。けれど詩月の対だと知るのは俺だけだ。

 秘密を知る前は気が合って良かったなーとしか思っていなかったが、知った後では詩月の文通に対する反応の意味合いが変わってくる。


 天さんから中学は全寮制のところに行くから、もう文通のやり取りができなくなると受けた時、詩月はそれを『終了』ではなく『中断』と受け取った。ではこちらに戻ってきたらまたお話しましょう、と。


 弟にははなから彼女との文通繋がりを止める気はなかった。それを知ったのは奏多が花蓮ちゃんから、


『私は終了のつもりで書いたのですが、何か続ける感じになりました。まぁ続けたいと言われて私も嬉しいので、こちらに戻ってきたらまたお兄様にお願いしても良いですか?』


 と言われ、そのことを俺にも伝えてきたという経緯。

 思えば最初に抗議文を受け取った時から、文通相手に対する態度が目に見えてガラリと変わった。


 手紙はまだかと催促されるわ、何か予定があっても手紙を読むのを優先するわ、いつも……壊れ物でも触るかのように、大事そうに受け取るわ。

 ……それが文字を通して素を見せた、自分の対である存在を弟が嗅ぎ取ったのだとすれば?


 過去にも一度噴出した相手側からの文通止める止めない問題の時、帰宅してあまりにも落ち着いていない様子にどうしたのかと心配になった程、普段の弟と様子が違った。

 詩月は文通にというより、その相手に執着しているようだった。


 相手が誰かも知らない筈なのに、花蓮ちゃんに執着を見せている。……けれど。

 それでも詩月は幼い頃に出会った天使ちゃんのことを、忘れてはいない。





「あ、すみませんお母さん。報告したいことがあってちょっと部屋を取ったんです。確かこれ以降のご予定はありませんでしたよね?」


 三人で他愛のない話をしてレストランを出て直後、母にそう尋ねる。


「ええ、そうね。私も少し貴方と話したいことがあるし、いいわ。ごめんなさい、咲子。ここで失礼するわね」

「ふふ、分かったわ。それではお先に。静香、またね」

「……またね」


 頬を淡く染めて嬉しいを顔いっぱいに表す母に、百合宮夫人も笑って受け止め、そうしてエレベーターに乗り込んで行くのを見送って――母が表情を消した。


「どういうこと佳月」

「……こんなところでする話ではないでしょう。行きましょう」


 場所を移動して取った部屋に入り母がソファに座ったのを確認して、自身もその正面へと腰掛けた。母の眼差しは鋭く俺を射抜いている。


「何故貴方がここにいるの? 詩月は?」

「詩月には俺が行くからと伝えました。お前がエスコートする予定の子と面識があるし、俺もその子に久しぶりに会いたいからと。詩月は快く譲ってくれましたよ」

「私に話が来ていないわ」

「そりゃそうですよ。サプライズしたいから内緒だよって言いましたもん」


 肩を竦めて返したら、その眼差しに怒りが滲んだ。


「邪魔をするの?」

「はい」


 まさか迷わず肯定されるとは思わなかったのだろう。聞いてきた癖に驚いた顔をされた。


「……詩月が、可愛くないの? 対がいる私達は、この血に流れる“運命”には逆らえない。それは貴方も身を以って知っているでしょう?」

「もちろん詩月のことは可愛いですよ。可愛いからこそ、俺は花蓮ちゃんと会わせるのに反対しているんです。……お母さん。お母さんが今日百合宮夫人とお会いしたのは、貴女にとって、夫人との仲直りが目的ではありませんよね? 夫人から連絡があっても、貴女の中で夫人と仲直りすることなんて一ミリたりとも考えなかった。そうですよね?」

「…………」


 知っている。理解できる。それがどれほど辛いことなのか。

 母は拒絶されたから、絶望して諦めたのだと。


 自身の執着を越える程の絶望を大好きな存在から与えられたから。自身の対に関するすべてに対して、何かをする気力もなくなってしまったのだと。


「お母さんは詩月と花蓮ちゃんを会わせることを目的として、誘いに頷いた。それがなかったら例え相手から誘われたとしても、夫人とお会いする気なんて初めからなかったんじゃないですか?」


 核心を突けば肩に入っていたらしい力が抜けて、母はソファの背もたれに深く凭れかかった。


「……今でも、現実じゃない気がするわ。咲子が、仲直りを言ってくるなんて……。話も聞かずに離れたから、もう私は、咲子の内側から弾かれたのだと。あの子の意志が固いことなんて、よく知っているわ。当たり前じゃない。ずっと傍にいて、ずっと見つめてきたんだもの。有り得ないわよ。切り捨てた癖に、私のことが今も…………好きだったなんて。そんなの、思う訳がないじゃない……っ!!」


 母は自分のようにならないために、俺に助言した。

 どうすれば奏多の隣にいられるのかを。排除するのではなく、別の方法を考えろと。

 詩月の誕生日パーティへの招待状をご当主に手渡し、弟には彼の対と引き合わそうとした。


 自身の対に対して執着の残り火はあるから、ただ相手の近況を知るだけでも満足していたのだろう。

 対に対して動く気力が何もなくても、けれど自らが産んだ子どものことを想って、直接は触れたくないだろう“百合宮”と関わろうとした。


 本当は話したくなかった筈だ。拒絶された、その時のことを思い出すようなことは。


 ――母は、俺のために。詩月のために



「詩月のためを思うなら、俺は会わせない方が良いと判断しています」

「……何故?」

「アイツには今もまだ、ずっと想っている子がいるからです」


 目が見開かれる。


「以前、貴方が言っていた? 花蓮さんじゃない、別の……」

「そうです。詳しくは俺も知りませんが、その子と約束をしたそうです。また再会しようと。そのことを口にしていた詩月の顔はとても穏やかで、優しい眼差しをしていました。今も時折、そんな顔をしているのを見ます。俺は、詩月が大事にしているその気持ちを守ってやりたいんです」

「それは……、でも」

「不安に思われるのも解ります。俺だって不安です。花蓮ちゃんと……“対”と出会った瞬間、想いが執着に呑まれるかも知れない、と。けど」


 けれど。

 グッと、膝の上に置いている拳に力が入る。


「正直に言います。詩月は、花蓮ちゃんと繋がりを既に持っています」

「!?」

「相手がお互い誰か分かっていない状態で、です。けれど、それでも詩月は幼い頃に出会った“その子”のことを、今も想っているんです。忘れたりはしていないんです。これは、“白鴎の運命”に抗っている証明になりませんか?」


 そして抗っているのは。


「お母さん。俺、思うんです。“白鴎の運命”は、抗えるものであると」

「運命に抗う……? そんなこと、」

「できる筈です。俺も白鴎の血に秘められた欲に唆されず、奏多を失いたくないから必死に抗っています。俺の欲は、奏多を失ってまで得たいものじゃない。お母さんだってそうでしょう? 失って、自分から夫人へ直接何かをする気なんて起きなくて。けど、俺や詩月のために関わろうとした。立ち上がっていた。貴女のその行動の原動力となったのは――――俺たち子どもへの愛情。お母さんだって、対への執着ではない別の想いで、“運命”に抗っているじゃないですか」


 母は身動ぎもせず、ただ呆然と俺を見つめている。

 そうしてゆっくりと、両手で顔を覆った。


「……どうしても。どうしても失いたくなかったの。咲子に切り捨てられて、私には、何も。静夜兄さまが家から出て行って、気付けばお見合いして、結婚していて。そうして貴方たちが生まれて……。佳月も、詩月も、満月だってこの手で初めて抱いた時、涙が出たわ。咲子がいなくても、私にはこの子たちがいると。私が守っていかないとって。……それなのに、貴方は長男のせいで健康を損なって一時はアメリカに行かされるかもしれなかったし、詩月だって対が異性で、あんな手記が残されていたし。逃れられないものだと受け入れていたけれど、“白鴎の運命百合宮”をその時初めて――――憎んだわ」


 抱いた愛と憎しみを吐露する、隠されていた母の想い。


「貴方たちを失うくらいなら、嫌われている咲子に会うことだって何でもないことのように思えたわ。貴方と満月は上手くいったけど、でも、詩月はまだだもの。詩月が花蓮さんと出会いさえすれば、仮面を付けていたとしても気になる存在と認識する。そうしたら後はどうにか婚約さえ結べれば、対内的にも対外的にも花蓮さんは詩月のひととなる。詩月が百合宮家との婚約を断る訳ないわ。あの子は父親に厳しく跡取りとしての教育を施されてきたから、家同士の繋がりの重要性を理解しているもの。それに白鴎の人間は、他人に対して総じて淡泊よ。それが、気になる存在が目の前に現れる。……その時対へどんな感情を抱いていたとしても、『逃がす』という選択肢は絶対にないわ。だって…………私たち先人がそうなのだから」


 それを聞いて、やはりと思う。

 詩月からこの話を世間話のついでで耳にした時、母は今回の食事の席で、詩月と花蓮ちゃんの婚約の話を持ち掛ける気なのだと。

 だからそんなことを提案させないように俺が向かった。まあ何も知らない当人同士が会うどころか、その対象は先に帰宅していたが。


 母も予想外の展開になって、元々考えていたことが吹き飛んでしまったんじゃないだろうか? 夫人に婚約の “こ”の字も口にすることなく、相手のする話をただニコニコとしながら聞いていたのだから。


「……佳月」

「はい」


 顔を覆っていた手を外し、ヒタリと見つめられる。

 憂いの感情が宿る瞳には、母親が子へ向ける心配しかない。


「詩月は、“白鴎の運命”に抗えるかしら……?」


 優しい顔をしている弟の顔を思い浮かべて、俺は笑った。


「何も一人で抗わせなくてもいいじゃないですか。お父さんもお母さんも、俺や満月だっているんです。アイツ自身が頑張ることも大事ですが、もし負けそうになった時、俺たちが詩月を助けてやれば良いんですよ。……家族って、そういうものでしょう?」


 母はきょとんとしていたが、そうねと、俺に釣られたように笑い始めた。その美しい笑顔に曇りはもう、どこにも見当たらなかった。

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