Episode220.5 side 百合宮 咲子の懺悔② 娘の幸せを願う

 仕立ての良いベージュ色のスーツを着こなし、涙を流す母親とそれをハンカチで拭う友人の母親の姿を見て目を丸くしていた彼は、自身の母親の傍へと行く。


「すみません、遅れました。ちなみに、これはどういう状況で……?」


 確かに到着した途端にこんな場面に遭遇したらそんな反応になるだろう。

 戸惑いを顕わに佳月くんが私達にそう尋ねると、静香がスンと鼻をすすりながら説明した。


「別に、これは嬉し涙よ。……でしょう?」

「……ああ、ですか」


 たったその一言だけで理解したらしく、ホッと安堵したように笑って彼は頷く。

 そして静香の面差しと重なる美しい顔をこちらへと向けて、にっこりと微笑んできた。


「こんにちは、百合宮夫人。お久し振りです」

「お久し振り、佳月くん。見ない間にすっかり大きくなったわねぇ」

「ははっ。いつの頃と比べていらっしゃるんですか」


 今は大学生活と息子と同じように会社のことを学んでいて、忙しくしているからだろうか?

 小中学生の頃はたまに遊びに来ていたのに、随分長いこと我が家に訪れていない。まあ彼が来ない分、息子の方が白鴎家に訪れてはいるけれど。……そう言えば彼は幼い頃、持病のせいでよく倒れていたと聞いていた。

 思い出せばあまり彼が訪れて来なかったのも、息子の方が向かうことにも頷ける。しかしもうすっかりと健康的に見えた。


 佳月くんが来たことで落ち着きを取り戻した静香の隣へ彼が着席し、私も浮かばせていた腰を元の位置へと戻す。


「料理を…」

「ああいえ、お構いなく。時間的に既に終えられていると思って、余所で軽食を摂ってきましたから。……娘さんはお手洗いですか?」


 正面の空席を見て尋ねられたことに否定を返す。


「外と中の気温の差のせいか、途中で体調を崩してしまったの。娘は先に帰宅したわ」

「そう、ですか。確かに気を付けていないと、外の暑さは尋常ではありませんからね。でも花蓮ちゃんとも久し振りに会えると思って楽しみにしていたのに、ちょっと残念です」

「ごめんなさいね」

「いえいえ」


 普通に返答をしてくる彼と小さく笑んで私達の会話を聞いている静香の様子を見て、連れて来るのは初めから佳月くんの方だったのだと知る。

 ……てっきり、連れて来るのは次男である詩月くんの方だと思っていた。歳が少し離れている佳月くんよりも同年の子の方が話はしやすいだろうと、静香はそうするだろうと考えていたのに。


 だからこそ。あの会話を聞いて娘が次男と向き合うと決意していたからこそ、いつ訪れるかも分からない一対一の構図になるよりは、私が傍にいて近くにいるところで向き合った方がと考えた。……結果、そうはならなかったけれど。


 それから暫くはお互いの近況や他愛のない話をし、緩やかな時を過ごした。静香とも今度いつ会うかと約束をし、嬉しそうに笑う彼女に私も嬉しくなった。

 そうして帰る時に佳月くんから静香に来る前にあったことの報告をしたいからと、そのためにわざわざ部屋まで取ったそうで、レストランを出てすぐのところで白鴎家の二人とは別れる。


 エレベーターに乗るのを見送られて一人でエントランスホールを歩いていると、エレベーターに向かう数人とすれ違う。そのすれ違う数人の中に…………見覚えのある顔が、いたような気がした。


 それが誰だったかと記憶を探り――――あっ、と思い出す。



「――――太刀川くん?」



 思わず足を止めて振り向き口にすれば、エレベーターに向かおうとしていた子もまた、その呼び掛けが届いたようでピタリと足を止めた。

 呼んだのは誰かと彼も振り向き、私を目に映して少し考える素振りを見せてから気づいてハッとする。


「花蓮……さんのお母さん、ですか?」

「ええ。すぐに思い出せて良かったわ。毎年一度しか会わなかったから」


 娘が小学校に通っていた頃、毎年運動会にしか会うことのなかった娘の友人。――今のところは。

 彼は一緒に歩いていた大人の方数人に「すみません、先に向かっていて下さい」と告げ、私へと視線を移した彼等は頷いて会釈し、エレベーターへと乗り込んで行った。


「えっと、あの」

「こちらにはレストランに食事をしに来たの。上の娘も一緒だったのだけど、外が暑いからかしら。体調を崩してしまって先に帰らせたの。……娘の友人が近くに来ていて、送ってくれているから大丈夫よ」


 体調不良と耳にして途端心配を表情に乗せた彼へと安心させるように言うけれど、それでも薄れない。


「ここに、来ていたんですか」

「私と二人で……と言いたいところだけど、知り合いの方とその息子さんと一緒にね」

「知り合いの……」


 僅かにだが眉根が寄り、何か葛藤しているような印象を受ける。

 ……娘は彼を特別に想っているが、彼の方はどうなのかと敢えて言ってみたら、そんな反応が返ってきて娘の想いは一方通行ではないと悟る。


 以前、娘を傷つける者から助けてくれた子。守ってくれた子。

 年にたった一度だけど、会う時はいつも礼儀正しくて。柚子島くんを交えて一緒に笑い合っていた娘の顔は、心からの笑みを溢れさせていて。


「娘から聞いているわ。今、有明学園に通っているのよね? 学校生活はどう? 楽しい?」

「あ、はい。色々学ぶことが多いですけど、親しい友人と一緒に切磋琢磨しながら過ごしています。でも小学校の頃と違って上流階級出身の生徒も多いから、色々苦労もあったりしますけど、楽しいです」

「そうなの。……小学生の時のように、家に電話してくれて良いのよ?」

「え」


 戸惑うような視線に優しく微笑む。


「娘から直接聞いた訳ではないけれど、想い合っているのでしょう?」

「っ!」

「交際するとしても、私の考えとしては家格など関係ないと思っているの。娘が想い、娘のことを大切にしてくれる人なら反対なんてしない。太刀川くんのお家は中々複雑なようだけれど、“百合宮”は貴方を、娘の相手として認めるわ」


 家族では今のところ私しか気付いていないけれど、あの人も息子も、きっと娘の気持ちを尊重する筈。この子が相手ならと受け入れる。

 ……ここのホテルのレストランは雅さまとかなりよく訪れている。


 先程彼と一緒に歩いていた大人の方達は、このホテルを経営している上役の方々。そしてそんな上役に囲まれて歩く姿は、ウチの息子にも共通している――。


「もう“太刀川くん”って、呼ばない方がいいのかしら?」

「……いえ。確かにもう姓は変わりましたけど、“太刀川”も俺です。どちらでも好きなように呼んで下さい。あの、」


 真剣な強い眼差しが、真っ直ぐと見つめてくる。


「今は、事情があって花蓮さんに連絡はできません。俺が帰省していること、伝えないでおいてもらえませんか? 余計な期待は持たせたくありませんから」

「どうしても難しいの? 娘は長期休暇の度、表には出さないけれど、ずっと貴方からの連絡を心待ちにしているわ」


 帰省したらまず初めに柚子島家に連絡して帰省の確認をしているけれど、いつもしょんぼりと落ち込んでいる。

 柚子島くんと会えないことへの落胆もあるだろうけれど、彼から目の前にいる子の話が聞けず、近況を知ることができないということが一番大きいと思う。


 母親として娘の恋路の後押しをしようとしたけれど、それを聞いても彼の目に揺らぎや迷いは生じなかった。


「花蓮さんとは高校への進学が決まって、そこで連絡をすると約束しました。彼女との約束は必ず守ります。……俺は、あの家のという立場です」

「!」

「家格は関係ないと百合宮家が認めて下さっても、口さがない人間が必ず出てきます。……まぁ、その、出てきても父と兄がソイツを潰す未来しか見えませんが……それでも、俺自身が自分の力でそんな考えを捻じ伏せられるように、認めさせられるような人間にならなければと思っています。ずっと、花蓮さんと一緒に居るために。彼女をこの手で守るために。だから、会えないんです」


 聞いていて、強く伝わってくる。

 生半可な気持ちではない。娘だけじゃない。


 彼も娘に会いたい筈なのに、ずっと、ずっと遠くを見据えて今を我慢しているのだと。彼のその想いの根幹も――――娘。



『……僕達がお前を守ってあげられるのも、期限がある。傍にいられない場面は歳を経る毎に増える筈だ』



 奏多さん。花蓮ちゃんには、こんなにも素敵な人が傍にいる。お互いがしっかりと手を取り合って、前へと進んでいける。


 ――だからきっと、大丈夫。花蓮ちゃんもその“恐れ”と向き合い、乗り越えられる日が必ず来る



 宣言をしっかりと受け止め、私は娘の最愛へと約束を口にする。


「分かりました。あの子の母親として、貴方と今日ここでお会いしたことは口外しないと約束します」

「ありがとうございます」

「長々と引き止めてしまって、ごめんなさいね」

「いいえ、お話ができて良かったです。……それでは、お気を付けてお帰りになって下さい」


 ありがとうと礼を伝えた後、経営に携わり関わっていく者として、彼は百合宮家の夫人という上客を見送った。

 車に乗り込みホテルを後に暫くして、口許に自然と笑みが浮かぶ。



 ――――先の未来。心待ちにしている連絡を受けた時の、娘の幸せそうな顔を想像して

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