Episode220.5 side 百合宮 咲子の懺悔① この選択は

 娘がお手洗いに行って戻って来ないのを不審に感じ始めたところで、たまたま近くに来ていたらしい娘の昔からの友人――麗花ちゃんから私宛の連絡だとウェイターから受ける。

 何事だと思い子機を受け取り会話してみると、娘が体調を崩してしまったとのこと。切り上げるべきか迷うも麗花ちゃんから娘を家まで送ると言われて、逡巡したが結局はそのようにお願いした。


「……花蓮さんに何かあったの?」


 断りを入れて出た電話を終えて返却しウェイターが去った後、そう正面に座す彼女から問われる。


「どうも体調を崩してしまったようで、先に帰宅すると」

「一人で?」

「いいえ。たまたま近くに娘の友人が来ていて、送ってくれることになったの。今の電話はその子からよ」

「……そうなの。今年も猛暑だし、体調を崩しやすい季節だものね」


 そう言い、目線を下げて憂う顔には確かな心配の気が見える。


「ごめんなさいね。後から来られる息子さん、一人になってしまうわね」

「そう、ね。とても……とても残念だわ」


 疎遠となって久しいが、こうして目に見えて心底残念そうな態度を見せるのは、彼女にとってはとても珍しいことだった。

 そんな静香と向き合うことを決断するには、そのことを突きつけられて約一年何も行動できなかったほどに、強い迷いがあった。


 どうでも良い存在だったなら、そのまま切り捨てていた。向き合おうとも思わなかった。

 けれど静香は――この子は、私にとってどうでも良い存在ではなかった。ずっと一緒に時を過ごして心を深く触れ合わせた、大好きな存在だったから。


 だからこそ許し難かった。私が受け入れた人達を、よりにもよってそんな貴女が排除しようとしていたこと。私には何も言ってくれなかったこと。

 彼女が物静かであまり話さない分、私が沢山喋っていた。いつも嬉しそうに、楽しそうに聞いてくれていた。

 成長して学校に通い、催会で社交するようになってからもその関係は変わらずに。


 その過程で人に囲まれ私に友人が増えようとも、静香の態度は変わらなかった。私と会話している友人にも楽しそうな態度でいた。

 ……本心はまったく逆の感情で満ちていたことなんて、知らなかった。


 裏切られた、そんな思いでいっぱいだった。

 自分たちは遠く離れなければいけなかった。絆されて許してしまえば、この子は変わらない。きっと同じことを繰り返す。


 何故ならば――――私に向けている静香の想いが、“執着”だから。



「静香」


 手にしていた冷水入りのグラスを置き、居住まいを正して真っ直ぐと彼女を見据える。

 貼り付けていた微笑みを消す。あの時は何も聞かずに離れた。聞きたくなかったから。けれど。


「どうしてあの時、 “あんなこと”をしようとしていたの?」


 相手も私を真っ直ぐに見つめている。

 彼女もまた、そっと手にしていたものを置いた。


「どうして今更そんなことを聞くの? 咲子、優秀なんだからとっくに解っているのではないの?」

「今更だとしても、貴女の口からちゃんと聞きたいと思ったの」

「…………」


 ふぅと微かな息を吐き出し、どこか諦めたような眼差しをしてゆっくりと語り始める。


「咲子のことが大好きだったからよ。未就学児童の時から咲子とずっと一緒に過ごして、共にいたのは私だったのに。貴女の一番はずっと私だったのに、いつの間にか貴女の周りを誰かしらが囲むようになった。それが私にはとても許せるものではなかったのよ。それだけ」

「今は?」


 間髪入れず問うたことに、怪訝そうな表情を向けられる。


「今も同じ思いなの? 私に対する貴女の“それ”は、ずっと変わらないものなの?」

「……何が言いたいの?」

「静香。どうして私が貴女とちゃんと話して向き合おうとしているのか、解る?」


 彼女の口から訳を聞きたくなかった。それは何故。

 どうでもいい存在ではないのに、即座に切り捨て向き合おうとしなかったのは、何故。



「――昔も、。静香のことが、大好きだからよ」



 目を見開いた静香の口が音を発することはなく、薄らとだけ開く。

 そんな彼女のする一連の反応と態度が示している。最善と思って、関わり合わなくなった空白の長さを。


 どうでも良くなかったから敢えて連絡も取らず、ずっと会わなかった。自分を見つめ直して欲しかった。


「大好きだから離れたの。聞きたくなかったの。私の知らない貴女を知って、嫌いになりたくなかったの」


 許せなかった。裏切られた思いがして悲しかった。

 けれど――――嫌いにはなれなかった。


「私のことが大好きだから、自分以外を私の周りから消そうとする。そんな想いを抱えていた貴女を、私は知らなかった。ずっと一緒にいたのに、知らなかったの。そんな私の知らない静香がいたことが…………怖かった」



『はっきりとどう言えばいいのか、当て嵌まる表現がそれしかない。初等部の頃からの付き合いだけど、その時の佳月が何を考えているのか、よく解らない。だからそういう時、僕の知らない彼がそこにいるようで……そう、これは――――怖い、という感情なのかもしれない』



 偶然にも隔てた扉の向こうから聞こえてきた、たどたどしく述べられた息子の心情。

 車中であんなにも真っ青な顔色をした娘の様子はただ事ではなかった。二人で話したいと言われはしたが、心配で様子を見に行って聞こえてきた会話を耳にして、密かに息を呑んだ。


 息子はあの子の息子と何のきっかけがあったのか、いつの頃からか仲が良く、家を行き来するほどの友人となっていた。一人で何でも出来る息子が選んだ友人が、偶然にもあの子の息子だっただけ。

 私と静香の疎遠は息子の交友関係には関係のないことだと思って、何も口は出さなかった。


 母親同士の因縁は知らない筈。

 それなのにどうして息子が……私と同じような感情を、あの子の長男に対して抱いているのか。



『いつまでも逃げてはいられない』



 娘に言っていることだと解っていても、鋭く心に突き刺さった。

 私はずっと。ずっと静香から逃げている。怒りよりも恐れの方が、私の静香への感情を占めている。


 それに加えどういうことなのか、娘までが会ったことのない白鴎家の……同学年の次男に対して何かを抱えていると言う。向き合うと、ずっとあんな気持ちを抱いているのは嫌だと言う。

 娘が車中で真っ青になっていたのも、降りて出てこようとしなかったのも、白鴎の次男の存在が関わっているらしかった。


 娘が白鴎の次男に対してどういう訳で恐れを抱いているのかはさっぱり分からないが、あの子は私が産んだ愛しい娘。娘がいてくれたから私は……“あの人”に対して救われた。

 息子は娘のために自分の足で立てと、向き合えと告げていた。家を継ぐ跡取りとして厳しく言いながらも、その根底にあるのは娘への――妹への愛情。


 息子は娘のためを思い考え、学院で行動を起こした。……ならば、私も。

 二人の母親だからこそ、彼女とちゃんと話をしないといけないと思った。彼等の母親が、“百合宮”に対して何を思っているのか。子どもたちの関係をどう見ているのか。


 私のことを、ずっと。


「貴女と離れることが最善だと思った、私の選択は間違ってはいないと今も思っているわ。そうしないと私達はきっと、お互いがダメになっていたから」

「……嫌いに、なっていない? 私のこと……?」


 小さく、小さく震える声が耳に届いてくる。

 どんな時も私を真っ直ぐ映していた静香の視線は俯いていて、合わない。


「咲子、全然、私の説明を聞こうともしなかったじゃない。ずっと、一緒にいたのに。最初からずっと、私には素でいたのに。他人に見せる微笑みを初めてあの時向けられて、私が、どれだけ絶望したか……っ!」


 お互いが離れることの選択は間違ってはいない。けれど…………間違っていた。

 黙って離れるのではなく、話をしてから離れるべきだった。彼女のことを恐れたが故、嫌いになりたくなかったが故に期間も決めず、ずっと今日まで会うこともなかった。


 私が静香を知ろうとしなかったから。

 綺麗で美しい思い出の中にいる静香だけに目を向けていたから。


 ――こんなにも、彼女を傷つけてしまう結果となった


 “執着”されていても、嫌いになんてならなかった。怖いという感情を抱いていても、嫌いになんてならなかった。

 一緒にいた頃には向けられることのなかった、『何を言ってもどうせ』と態度に出した、諦めの眼差しを受けて――――こんなにも胸が痛くなるなんて。


「ごめんなさい。ごめんね、静香。私に執着している貴女も“静香”なんだから、ちゃんと話を聞くべきだった。するべきだった。嫌いになんてなっていない。大好きだから怖くて、黙って離れたの。反省してほしかったの。でも、長いこと貴女と向き合わなくて、ごめんなさい。私からの一歩が踏み出せなくて、ごめんなさい……!」

「今、更、なんで。どうして、そんなことを言うの? 咲子が謝るの? だって、だってどう見ても悪いのは私じゃない。私が、貴女の大事にしている人間を、私の感情を優先して消そうとしたから」

「静香だって、大事よ」


 彼女の目尻から一筋、滴が頬を伝った。


「静香だって私にとって、大事な人よ。貴女から今まで直接私に何も音沙汰がなかったのは、私の最後にした態度のせいだと解っていたわ。だから私から貴女に一歩を踏み出すべきだったの。いつまでも恐れを抱いてそこに留まっていた私は、最善じゃなかった」


 そっと、静香へと手を差し出す。


「静香。こんな怖がりで何年も待たせてしまった私だけど、仲直り、してくれる……?」

「……っ。ごめ、んなさいっ。私っ、咲子がずっと、ずっと好きで……っ! 咲子の大事な、人、傷つけようとしてっ、ごめんね……っ!!」


 差し出した手を取ることなくその瞳から止めどなく溢れさせて、美しい顔を濡らすものを手で拭う静香。

 苦笑してテーブルから身を乗り出し、取り出したハンカチで彼女の涙を拭いてあげる。


「あーあ、もう。せっかく綺麗にお化粧しているんだから、そんなに擦らないの」

「うう~っ」


 仲の良かった、幼いあの頃に戻ったように。

 まるで子どものように泣く静香に、優しい気持ちが溢れてくる。……きっと、私に“執着”しているのは変わっていない。


 美麗ちゃんと会ったことを知っている。どういう反応をするか敢えて雅さまの話も出したけど、何かを抑えるような気配を感じた。

 美麗ちゃんと会っていたことを知っているのなら、雅さまとよく会っていることも知っていた筈。


 けれど彼女は何もしなかった。何年経とうとも、何も。

 私にとって、それが全てだった。




「――お母さん?」



 母と呼ぶ声がすぐ近くで聞こえ、誰かと振り向けば――


「……佳月」


 ――――己の母親の泣いている姿を見て目を丸くしている、白鴎家の長男がそこに立っていた。

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