Episode220 私と貴女、私と貴方

 あれから幾らか時間が過ぎても未だトイレの個室の中で充電の切れた携帯を握り締めたまま、固まって動けていない私。


 何だこの状況は。一体どうしてこんなことになった。充電が切れるとか、これも私と白鴎を婚約関係に結び付けるためのゲーム強制力なのか!?

 ヤダヤダヤダ!! どうしよう、もう本当にお腹下してお家に帰りたい! 胃がキリキリしているんだからお腹も下れ!!


 しかし本当に運よくお腹が下ったとして体調不良を理由に一抜けしようにも、携帯が繋がらない以上は再びレストランに戻って一言声を掛けねばならない。

 けれど、そこでもし来ていなかった誰かが立て籠もっている間に到着して既に席に着いていれば、もう私は終わったも同然である。


 だって対人運もくじ運もない人間に、究極の二択で望んでいる方佳月さまを神が采配してくれる運などあろうものか。

 ……いや待て。イースターでも聖母月行事でも聖歌を捧げているんだから、キリストさまは迷える私を救うべきであるぞ。


「無理、無理……。もう私はここで一生を過ごすしかない。従業員さんが来ても徹底抗戦してやる……」


 現実で立て続けに起きていることがショック過ぎて、考えがどんどん変な方向に飛躍していく。

 私がここに立て籠もっていることでこのトイレは開かずのトイレの間と化し、『サトバノグランドホテル三大観光名所(※怪奇版)』として登録されるのだ……。残り二つはあるかどうか定かでない。


 ジメジメしているせいで私の頭にキノコが生え、トイレがキノコの群生地となって『開かずのトイレ・キノコの間』になりそうだったその時、「花蓮っ!」と大きな呼び声が耳に届いた。……え。この声って。


「花蓮! どこに入ってますの!? まだそこにおりますの!?」


 麗花だ! やった! 来てくれたんだ!!

 パッと顔を上げ、頭からキノコがポロリと落ちた私は直ぐさま扉を開けようと、ノブに手を掛ける。


「麗花! ここ! 一番奥にいるよ! 待って、いま開け…」

「開けなくてよろしいですわ! 今から上に向かって投げますから、ちゃんと取るんですのよ!」

「え? 投げるってなに……いたっ!?」


 言われたことが理解できずに聞き返そうとしたそのすぐ傍から、何か柔らかいものがキノコが取れた頭に上から落ちて当たった。

 何だと思って確認すると、足元に新品らしき個包装されたトイレットペーパーが一つ転がっている。


「落としましたの!? ちゃんと取れって言ったじゃありませんの!」

「ちょ、待って。え、ていうか何でトイレットペーパー投げ入れた!?」

「は!? 紙が無くて困っていたから、私に助けを求めてきたのでしょう! ロールに紙が無いことに気づかずに入ったんじゃありませんの!? 貴女そういう変に抜けているところがあるから、そう察してわざわざ配達しに来ましたのよ!?」

「違うよ!!!」


 じゃあ何。麗花ってばここに来るまでの間私のこと、紙が無いのに気づかず用を足した間抜けって思ってたの!?


 憮然としながらトイレットペーパーを拾って解錠しガチャリとノブを回して扉を開けると、目元を少し腫らした麗花もまた、赤い目を眇めて私を睥睨していた……って。


「麗花!? やっぱり電話した時泣いてたの!?」

「ちょっと色々グルグルして、爆発したものが勝手に目から出てきただけですわ。取り敢えずいつまでもトイレで騒ぐ訳にもいきませんし、一旦出ますわよ」

「う、うん」


 偶然にも私がいる間は誰も入って来なかったが、いつ人が来るとも知れない。

 頷いて麗花と一緒に共有女子トイレから出て、入口のちょっとしたスペースに設置されているベンチソファへと並んで座った。


「それで紙が無いじゃなければ、どうしてあんな連絡をしてきたんですの? 貴女の格好を見る限りでは、同階のレストランでお食事をされていたのでは?」


 直球で尋ねられたことに、また胃がキリキリと痛み始める。


「……うん。あのね、今日、お母様の付き添いで来ていて」

「付き添い? ご家族との外食ではなく、誰かとお会いされておりますの?」

「そう。それで……そのお相手が、白鴎、さまで」


 誰かというのを伝えたら、息を呑むような気配がした。


「……白鴎さま? 私達と同学年の、あの方ですの?」

「えっと、いまお会いしているのはご夫人だけなの。けどもう一人来る予定で、その前に予定が入っているから遅れてくるって。けど、何か混乱しちゃって。胃も急に痛くなって、どうすれば良いのか判らなくなって麗花に電話しちゃったの。ごめん……そっちも、どこかにお出掛けしてたんだよね?」


 私がドレスアップしているように麗花もまた、普段彼女が着用している私服とは違う、ちゃんとした外用の装いをしていたから。もしご両親とどこかにお出掛けしていたのだとしたら、彼女の楽しみを潰してしまった形となる。

 申し訳なくなって眉を下げて謝れば、彼女はフルフルと首を横に振って否定した。


「確かに外に出掛けてはおりましたけれど、もう終わりましたわ。気になさらなくてもよろしくてよ。……気持ちは落ち着きましたの? レストランには戻れそうですの?」


 麗花が来てくれてホッと落ち着きはしたが、あの場に戻ることを考えただけで身体がヒヤリと冷たくなる。

 どこか貧血にも似た急激な血の下がりように、大丈夫と口にすることさえ億劫だった。


 そんな私の様子をどう彼女は捉えたのだろうか、膝に置いている手を緩く掴まれる。


「私が咲子さまに連絡しますわ。車で来ておりますから、一緒に帰りましょう。送りますわ」

「……ありがとう、麗花。お母様携帯持ってないから、レストランに掛けて」

「ええ、少々お待ちになって」


 そう言ってポケットから携帯を取り出して素早く操作し、麗花が耳に当てて店側の人に名乗ってお母様に変わってほしいと頼んで、少しだけ待ってから代わってもらったようで話し出した。

 私の体調が悪くなったこと。たまたま近くに来ていたから私を家まで届けるという旨をはっきりと話し、そうして切る。


「ご了承頂きましたわ。帰宅したら薬を服用するようにと。行きましょう」

「うん」


 頷いてベンチソファから立ち上がったところで、麗花に手を繋がれた。


「麗花?」

「ホテルの中は空調が効きすぎていて寒いくらいですわ。手も冷たいですし、もし貧血気味ならこうしていると、倒れる前に支えられますわ」


 そう言って歩き始めた歩調はゆっくりで、触れている温もりが曇っていた心にじんわりと浸透していく。

 何故だかそれがどうしようもなく嬉しくて、目尻に僅かに涙が滲んだ。


「……麗花。来てくれて、ありがとう」

「親友ですもの。当然ですわ」


 “それ”を当たり前のことだと言ってくれる。

 どうしてお兄様が無しとなった時点で、混乱して焦る中で迷わず麗花に助けを求めたのか。



 私が絶対に麗花を助けたいと思っているように。――麗花もまた、私のことを助けてくれる


 そんな絶対的な信頼感があるから。


 今はただ、頼れる親友の存在に感謝して、共に歩き続けた。





◇+◇+◇+◇+◇+◇+





 家まで送ってくれた麗花とは車内で一つ質問されただけで、それ以外は無言のまま過ごした。

 聖天学院の初等部に通っていた彼女なので、親の付き添いだとは言っても、私と会う予定だった人物のことが気になったのだろう。


「白鴎さま。いえ、次男で私達と同学年の詩月さまとは、今までお会いしたことはありまして?」

「ううん。会ったことないよ」

「……そうですの」


 それきり彼女は黙って、車窓の流れゆく景色を見つめていた。それで良かった。

 私も途中で抜けたため、お母様と白鴎夫人の話の行方が気になって仕方がなかったから。仲直りをしたとして、もしそれで私と詩月の婚約の話が出てきてしまったら。あの場に来るのは息子のどちらだったのか。


 心の内をグルグルと巡って、気もそぞろな状態のまま家に到着する。

 私が一人で帰宅したことにお手伝いさんは驚いて、体調不良でということを伝えたら直ぐさま自室で着替えてベッドに入るように促されたので、素直にそうした。


「今年も暑いですし、帰省されて環境が変わったから体調を崩してしまったのでしょう。お薬は飲めそうですか?」

「はい、大丈夫です。お母様からも飲むように言われております」

「すぐに用意してまいりますね」


 ベッドに入った状態でコクリと頷き、薬とお水の用意をするために退室していくのを見つめた後、はぁと重い溜息を吐き出す。

 お父様はもちろんお仕事で、お兄様はお父様に付いて会社に行っている。


 そして鈴ちゃんは蒼ちゃんに会いに米河原家へと遊びに行っていて、お手伝いさんを除くと家族の中では早くに帰宅した私しか家にいない。お母様もいつ帰宅されるか。


「……こんなんで、ちゃんと向き合えるのかな」


 詩月が来ると確定していた訳じゃないのに、結果こんなことになってしまった。彼と向き合えるかもしれないチャンスだった。

 それなのに、自分でそのチャンスを潰してしまったのだ。……あの“声”は一体、何だったのか。確かに聞こえてきた。どこかで聞いたような、声。


 布団を強く握り、ギュッと瞼を閉じる。


「しない。婚約なんてしないっ。太刀川くんがいい。太刀川くんじゃないと、やだ……っ!」



 好きな人とじゃないと、いやだ。


 私の運命は“貴方”じゃない。

 私の運命の人は――……。





 お母様がいつご帰宅されたかも知らぬまま、一日が終わり。起床して翌日、結果はどうだったのかをお聞きすると、無事に白鴎夫人と仲直りはできたそう。


 そしてお母様の口から……私と詩月の婚約の話が出ることは、終ぞなかった。

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