Episode219.5 side 薔之院 麗花⑰ 彼女が向き合う現実 後編
問われた両親の反応が気になって隣を見ると、お母様のなさっている表情は判るものの、その向こうに座っていらっしゃるお父様の表情までは判らなかった。
お母様は、胡乱気な眼差しで緋凰夫人を見つめていらっしゃる。
「……聞いてないわよ、樹里」
「そりゃそうよ。言ってないし。――麗花さん」
勝気そうに煌めく眼差しが不意にこちらを向いて、私の名が呼ばれる。
「はい」
「結構前から私と貴女のお母様との間ではお話していたのだけど、どうかしら? ウチの陽翔と婚約しない?」
「……はい?」
夫人の唇に引かれているルージュが弧を描くのを、ただ見つめた。
確かに緋凰夫人の話は聞き取れた筈なのに、内容がすぐに頭に届いてこなかった。こんやく。こんやく?
<ひおう はると ひおーはると
ぴよぉーはると ピヨー>
あ、こんにゃくの聞き間違いですわ。
「すみません、緋凰夫人。あの、こんにゃくは冬場が旬ですわ。今は夏の盛りですし、作るのも食すのも、早くても十一月頃が最適かと思いますわ(と前におでんの話になった時、瑠璃子が言っていましたわ!)」
「え? こんにゃく?」
「あのね麗花ちゃん」
話し掛けられそちらを向けばお母様は微笑んでいらっしゃるものの、どこか表情が硬い。
「パパもママも、よくよく話し合ったのだけどね? 仕事が忙しくてずっと海外を飛び回っていて、中々帰国も難しいのは、麗花ちゃんも理解してくれていると思うの。家で働いて下さる方が麗花ちゃんの傍にいてくれているけれど、学校までは把握できないでしょう? それに今はいいけど、あと一年と半年。ママたちと約束したこと、覚えてるわよね?」
一年と半年。両親との約束。
「……はい。もちろんですわ」
「うん。やっぱり高校生になると、色々感情が多感になると思うの。麗花ちゃんはしっかりしているし、引き摺られることはないとは思うけど。それでももし学校で何かあったりしたらと、ママたちも心配で」
「家の名前に釣られてくる輩もいるかもしれないし、こう言っては何だが……外からも入ってくるだろう? だから緋凰さんが提案して下さって、パパたちも余計なものから麗花を守りたいと思ったんだよ」
身を乗り出して顔を見せてくるお父様も、気遣わしそうな表情をなさっている。
こんにゃく こんやく ――――婚約
「
積もる話があると仰っていた。積もる話とは、これのことなのか。
両親から緋凰さまへと視線を移す。彼は真剣な表情をして、私を見ていた。
「ああ」
「どう……いえ」
どう思っているのか聞こうとして、やめた。
緋凰の血筋であるご夫人から話が出された上で肯定の返事をするということは、彼はこの話に反対していないということ。
女子を煩わしいと思っていらっしゃる。
……けれど私は同士で観察対象。
女子とは滅多に会話をなされない。
……けれど私にはグイグイ来ている。
何かが、グルグルしてきた。
「そう深く思い悩まずとも、実際にそのまま結婚まで進める訳ではないよ。取り敢えずは、お互いに男女間での煩わしいことから解放されることが目的の婚約。麗花さんほどのご令嬢が息子の隣に立てば、ご令嬢は皆退くでしょう。そしてその逆も然り。麗花さんにとっても悪い話ではないと思うわ。“緋凰”が“薔之院”を守る盾となるのだから」
それはいつまでの話になるのだろうか?
聞いていたら両家の利害が一致した、期間のある話に聞こえる。実際そうなのだろう。
交わした約束は守る。私が香桜女学院に通うのは――――中学校まで。
両親が私のためを思い、考えて下さってのこと。男女間での煩わしいことからの解放。煩わしいこと。
振り回されている気持ちがある。グルグルとした、訳の分からない感情が。
――煩わしい
自分の気持ちなのに。怒りもあるし悲しいもあるし、嬉しいもあった。こんな気持ちを抱えたままで、どうすれば良いのかが分からない。
――煩わしい
離れている。もう姿を見ることも声を聞くこともない。それなのにどうして、思い出してしまうのか。
――煩わしい
それで終われば良いのに。どうして私は未だに……彼に、囚われているのか。
嫌だ。もうあんな風に傷つきたくない。心を揺さぶられたくない。
結婚まで進める訳ではない。期間のある関係性。圧倒的オーラを放つ顔からジッと観察される。
あんな煩わしいだけのものから解放されるのならば、緋凰さまの
仮初でも婚約者となるからには、緋凰さま以外の殿方を見てはならない。……見なくて良い。
女子の生態を知るために、あれやこれやグイグイ来られるくらい構わ――
『ずっと、変わらないでいてくれてありがとう。薔之院さん』
――――構う
「……麗花ちゃん?」
構う! 構いますわ!! 何で私がいつまでもいつまでもこんな訳の分からない感情に振り回されなければいけませんの!? 嫌ですわよっ、ずっと強い視線で、しかもあんな顔にオーラのある方から観察されるだなんて!
何をずっと臆病風に吹かれているんですの、麗花! 今も未だ解決しないのは。こんなに悩むのは、ちゃんと私が春日井さまと面と向き合っていないからじゃありませんの! ほぼ初対面も同然ですのにグイグイ来ないで下さいませ!!
「れ、麗花!?」
ああもうっ、グルグルする……っ!!
何やら外野が騒然としている気配がするが、あとスカートポケットに入れている携帯が振動している気がするが、突き上げてきた怒りにも似たそれに意識がかき消される。
「わ、私……っ、私は……っ!」
どうしてなのか声が震えている。
ポタポタと。スカートを握っていた手に水滴が落ちていくのが、いつの間にか滲んでいた視界に入ってくる。
「そんなっ、夫人が仰るような、人間じゃありませんわっ。ずっと、目を逸らし続けてっ! ちゃん、ちゃんと、向き合ってなくっ! だか、だから(観察対象として)緋凰さまにも相応しくなくって! わず、確かに煩わし、でも、ジッと見られ続けるのも嫌ですし顔が光って目がシパシパしますし、ピーポーとかピヨーとか何かもう色々ゴチャゴチャなのですわ!! 申し訳ありませんが一度お手洗いに行かさせて下さいまし!!」
気持ちがしっちゃかめっちゃかになっているせいで、口から出てくるものまでがしっちゃかめっちゃかになっている。
自分でも最早何を口走っているのかがまったく分かりませんわ!
堪らずソファから立ち上がって皆を見ると当然ながら呆気に取られていて、よく分からない羞恥やら何やかんやらが込み上げてきて返答も聞かぬまま、そそくさと部屋から退室した。
一人になって気持ちを落ち着けるのもそうだけど、きっと顔も酷いことになっている。
手伝いの者に案内されたトイレルームでまずは涙を拭おうと、ポケットからハンカチを取り出そうとした時――反対側のポケットから短い振動があったのに気づいた。
……少し前にも振動していたような気がする。
何だろうと思ってハンカチより先に携帯を手にして画面を点灯させると、不在着信一件とショートメール一件が届いていた。
しかもどちらとも花蓮からのものだったので気になってメールを開いて見れば、何やらトイレの中から助けを求めてきている。
どういうことなのか訳が分からないながらも拙い文面から彼女の焦りを感じ取ったので、まだ落ち着いていなかったけれど折り返した。
そして掛けた途端に出たと思ったら、切羽詰まった声が受話口の向こうから発せられてくる。
『もしもし麗花! 助けて!!』
「ちょっ、なん……ですの、いきなり! っ、たすけ、って」
『あのね! あの、いますごく麗花に助けてほしくて麗花にしか頼めなくて、すごく困ってて、そのホテルの三十八階…………え? あれ待って、何か麗花、声変じゃない? もしかして泣い<ブツッ>
ブツッ?
「え? 花蓮? ちょっと花蓮!?」
受話口の向こう側から声が突然聞こえなくなったのと同時、ツーツーと通話が切れた音がして耳に当てていたのを離して確認すると、やはり切れている。
再度折り返そうにも、<電源が入っていないため~>と機械的な定型アナウンスが流れてくるのみ。
……まさかあの子、充電がなくなったとかいう訳じゃないですわよね……?
え。ちょっと何ですの? どういうことですの!? 私はどうすれば良いんですの!!?
一方的だったが、話す声からは酷い焦燥が伝わってきた。
よく分からないが親友が窮地に陥っているらしいということが漠然と目の前に提示され、自身が直前まで抱えていたグルグルと混乱したものは一旦鎮静する。
「そのホテルの三十八階……? どこのホテル……」
情報が少ないながらも相手の状況を把握するために、再びメールを開いて文面を見つめた。
「サトバノグランドホテルのトイレの中。すごく助けてほしい。切羽詰まる……」
奇しくも自身がいま居る場所もトイレの中。
トイレカウンターのある室内は足場も広く、
私が見つめる視線の先。無くてはならない存在が、そこにあった。
そして場所がトイレということと、彼女の切羽詰まった様子から助けを求めてきた理由を瞬時に察し、こうしてはいられないと直ぐさまトイレから飛び出して皆のいる部屋へと戻った。
扉を開けて中に入れば私を見た両親がソファから立ち上がったが、一秒も惜しい状況に失礼ながらもこちらの事情を優先させてもらう。
「申し訳ありません。大事なお話であることはよくよく承知しておりますが、今回のお話、辞退させて下さいませ! あと緊急の用件が突如として発生致しましたので、私はここで失礼させて頂きたく存じますわ!」
「え、ちょっと麗花ちゃんどういうこと!?」
「お母様、申し訳ありません。私の親友がいま、社会的危機を迎えておりますの! 向こうの状況から見て、私しか助けてあげられる人間がおりませんわ! お願いします、行かせて下さいませ!!」
「あい分かった」
パンと手を鳴らした緋凰夫人が、何故か楽しそうな表情で私を見つめてきた。
「麗花さんにとっては急な話で、混乱させてしまったようでごめんなさいね。取り敢えず今回の話、麗花さんの意思としては“無し”で良いのね?」
愉快そうに笑みを浮かべながらも、私を見つめる目は真剣なものだった。
色々と思考がゴチャゴチャしてしまったが、婚約しない?と聞かれて最初に心に浮かび上がったのは――『したくない』という否定。
「はい。申し訳ございません」
「……そう。じゃあその親友とやらのところに行っておあげなさい。麗花さんに助けを求めているのでしょう? なら早く行ってあげないとね! ね、美麗」
話を振られたお母様が小さく息を吐いて、頷いた。
「麗花ちゃん、解決したら真っ直ぐお家に戻りなさい」
「……分かりました」
「気を付けて行きなさい」
「はい、お父様」
無事に了承を得られその場を辞そうとして……一瞬迷ったものの、緋凰さまを見ずに退室した。
女子を疎ましく見ていながらも私のことは同士だと好意的で、仮初であっても婚約の提案を受け入れていた彼。
それを断ってしまったことで繊細な心を持つ緋凰さまを傷つけてしまったのだと思ったら、言葉を掛けるどころか顔なんて向けられる筈もなかった。
私が玄関から出てきたのを車内に待機していた田所が気付いて、「お嬢さまお一人ですか?」と聞いてきたため頷き、開けてくれた中へと素早く乗り込む。
そして運転席に乗った田所に、これから早急に向かわなければならない場所を告げた。
「緊急事態ですの! ここから最短ルートのディスカウントショップに寄った後、サトバノグランドホテルへ向かって下さいませ!」
「はい? え、ディスカウントショップにはどういう…」
未だトイレの個室で繋がらなくなった携帯を握りしめて、困り果てている親友の姿を頭に思い浮かべた。
「――――あの子の社会的名誉のために今すぐ紙を購入し、配達しなければならないのですわ!!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます