Episode195 向き合う決意

 なんで。どうして。

 佳月さまじゃなくて、どうして貴方が。


 彼を目にしたら無条件で好きになってしまうのではないか、強制力が働くのではないか。そんな風に恐れていたことは起きなかった。


 見ても執着するほど。彼に近づこうとする女子を排除しようとするほどの、狂おしい気持ちになんてならなかった。むしろ心には――呼吸が浅くなりそうなほどの、恐怖しかなかった。



「ゃ……、たすけて……っ」



 か細く、蚊の鳴くような声が口の中で木霊する。

 目を逸らしたいのに逸らせない。



 ――逸らしたら、捕まってしまう



 どうしてそんな言葉が浮かび上がってくるのか。


 手が小刻みに震えている。

 ギュッと、握り締める。


「お嬢さま、少々お待ち下さい」


 そう一声掛けて車から降り、坂巻さんが白鴎の元へ向かうのを見つめる。白鴎の傍にはスーツを着た男性がおり、恐らく白鴎家の運転手だと思われる。大人同士で確認している間、その話を聞き入っているように見えた白鴎は何故か不意に、こちらを向いた。


「っ!!」


 思わず息を詰めるが、後部座席はスモークガラスで外から中は見えないことを思い出して力を抜く。

 ……見えない筈なのに、どうしてか白鴎の視線がこちらから外れない。空気が薄くなったように感じる。息が、し辛い。


 胸元に手を当て――――手に、髪が触れた。



『俺だけの、蓮の花』



 彼の唇が触れたひと房を掴んで、祈るように握り締める。

 実際には短い時間で大人の話が終わるとともに視線も外されて、安堵する内に坂巻さんが戻ってきて説明を受けてから、キーセンサーを操作して門が開けられた。再度車に乗り込んでこちらが先導する形で中に入り、向こうが後に付く。


 玄関前まで来ると一旦停車し、坂巻さんだけが降りてインターホンを鳴らす様子を車内から見ていた。暫くすれば玄関からお母様と鈴ちゃん、そしてとても綺麗な子が出てくる。


 白鴎が再び車から降りて出てきて、お母様と鈴ちゃんに挨拶する。

 お母様は微笑んで、鈴ちゃんも淑女らしく丁寧に挨拶を返すも、そんな彼女の顔が我が家の送迎車を見つけた途端にパッと輝いた。とてつもなく嫌な予感がする。


 お願いだから、今だけはやめて……っ!!


 しかしそんな私の必死の願いも空しく、こちらへと駆け寄ってきた妹は、私側の窓をコンコンとノックして開けるように促してくる。


 降りたくないし、窓も開けたくない。いくら超絶可愛い妹からお友達を紹介したいと願われても、彼が同じ場に存在している限り拒否が先立つ。


 いやだ! いやだ!!

 会いたくない会いたくない会いたくない!!!


 自分でも、どうしてこんなに恐怖を感じるのか分からない。断罪される未来があるから? 捧げた愛を受け入れてもらえなかったから? ……違う。それだけで、こんなにも得体の知れない恐れを抱く訳がない。解らない。


 鈴ちゃんが不思議そうな顔で首を傾げているのが見える。お母様も少々困惑しているのが見える。彼の妹も――彼も、こちらへと顔を向けているのが見える。


 常識に外れた行動なのは判る。でもどうしても心が拒否する。足も縫いつけられたように、ベロア地の柔らかなマットから離せない。


 握り締めている髪だけが、心のり所だった。


 と、そんな膠着こうちゃく状況が一変したのは家からもう一人、人が出てきた時だった。


 「……お兄、様」


 玄関から出てきたお兄様が白鴎に挨拶してから、お母様に状況を確認しているようだった。一度私の乗っている車を見、そして何故か彼の視線が一度白鴎……詩月の方へと向けられる。

 それからこちらへと向かってきたお兄様が私側の扉ではなく、運転席側の扉を開けて車内を覗き込んできた。


「花蓮?」

「ぁ、お兄、さ」

「出てこなくていい」


 私と顔を合わせて何か言うより先にそう短く告げられ、扉が閉められる。

 お兄様が鈴ちゃんを呼んだようで、彼女がお兄様と手を繋いで戻っていくのを見つめていたら何事かを話した後、白鴎も言葉を返し、その妹もペコリと頭を下げて彼等の送迎車へと向かって行った。


 そうして白鴎兄妹を乗せた車が百合宮家の敷地から去って――ようやく、身体の強張りが解ける。


「花蓮ちゃん、どうし……どうしたの!? 真っ青じゃない!」

「お、母様」


 今度はお母様が扉を開けて車内を覗き込み、慌てたようにそう言うのをどこか上の空で聞く。酷く緊張を強いられていたからか、ホッとした瞬間、とてつもない脱力感に襲われていた。


「花蓮、掴まれる?」


 いつの間にか私側の扉が開けられて、お兄様が中から私を抱き上げようとしてくるのを、私も腕を首に回して抱きつく。

 肩に腕を回されもう片方の腕で足裏をすくわれる、所以お姫様抱っこで外に出されるとそのまま家の中へと入っていき、階段を登って私の部屋のベッドへと降ろされた。


 後を付いて来ていたお母様と鈴ちゃんに、「少し二人にしてもらえますか」と言って扉を閉めるのを見ていたら、戻ってきたお兄様が傍にしゃがんで再び顔を合わせてくる。その表情は、どこか探るようなものだった。


「……詩月くんが原因?」

「っ」


 ピンポイントで言い当てられたことに動揺し思わず肩を揺らせば、その眼差しが細くなる。


「彼とどこかで会った?」

「ない、です。あの、どう」

「どうしてこんなことを聞くのか、教えてあげようか? あの時と同じ顔をしているからだよ」


 あの時と言われたが、いつのことなのか混乱する頭では思い浮かばない。何も答えられない私を見つめ、お兄様は答えを告げた。


「佳月の名前を聞いてきた時。佳月の名字が、“白鴎”だと解った時」

「……!」

「幼い頃、白鴎家からの生誕パーティの誘いを行きたくないと拒否したよね。だから代わりに僕が行った。どうして行きたくなかったのか、今なら言える?」


 昔のことだから覚えていないと言えば、納得してくれるだろうか? けれどジッと見つめてくる眼差しから、逃れられないと悟った。


「会いたく、なかったから、です」

「……何度も考えたけど、よく分からない。佳月と会ってもそんな風にならないだろう? 歌鈴が女の子の友達ができたと話していた時も。佳月の妹のことだって分かっていた筈だ。白鴎でもこの二人にはそんな風にはならない。なら、そうなる対象は一人しかもういない。……詩月くんが怖いの?」


 会ったことのない人間を怖いだなんて、どうかしている。けれど私には記憶がある。いつも向けられていた、冷たい眼差し。


 婚約者である花蓮ではなく、空子へと向けられる微笑み。憎しみに濡れ、爛々らんらんとした瞳で断罪された。会社で秘密裏に行われていた悪事を暴かれ、家族諸共路頭に。

 説明ができない。ここは乙女ゲームの世界で、貴方の妹はあの白鴎家の次男に裁かれるのだと。


 そう、そこまでされれば相手に恐怖心を抱いてもおかしくない。けど、おかしい。違うと感じた。そうではなく――――理屈じゃない、心の底からの。


「解らないですっ。私も、どうしてあんな気持ちになったのか……っ」


 全然解らない。答えがない。“花蓮”じゃない、“私”なのに……!


 本心で告げた内容は、お兄様の中でどう受け止められたのか。探るような視線は伏せられて、若干眉間に皺が寄っている。あまりにも勝手な言い分で、呆れられてしまっただろうか。


 暫くお互いに無言の状態が続いたが、お兄様がふぅと息を吐いたことでそれも終わった。咎めの言葉が放たれるかと身構えたが、しかし彼は予想外のことを口にした。


「……気持ちを推し測ることはできる。けどその人の気持ちは、真実その人にしか解らないもの、か」


 目を丸くして見つめると、しゃがむ姿勢から胡座をかいて座り直す。顔を上げて見つめ返される中に呆れはなかったが、複雑、とでも言うように顔を歪めている。


「僕は白鴎家にも比較的よく行くから、彼がどんな子かは知っているつもりだよ。家を背負う時期跡取りとしての自覚を持ち、振舞いも品行方正。まぁ親しい身内には、多少それが外れる時もあるようだけど……。僕の目から見て、彼は学院生の中でもすごく優秀な生徒だと思っている。花蓮は佳月のこと、どう思ってる?」

「え。佳月さま、ですか?」

「うん」


 どういう話の流れなのか急に聞かれはしたものの、数回接する機会のあった彼の人のことを思い出す。


「えっと、ハンカチを快く渡して下さったり、柔らかい雰囲気をお持ちで、優しい方だと。気楽に会話もして下さって、良い人、だと思います」

「そう。……そう、なんだよなぁ……」

「お兄様?」


 うーんと唸るのをどうしたのかと疑問に思っていると、再び予想外のことを話し始める。


「僕は詩月くんを単純に言えば、良い子だと思っている。花蓮も佳月のことを良い人だと思っている」

「はい」

「たまに……ごく稀にだけど。僕も佳月に対して、得体の知れないを感じたことが、ある」

「……え?」

「気のせいかと思っていたんだ」


 そうして語られる、お兄様の佳月さまに感じた彼への違和感。


「同じ銀霜学院に在校し、僕は学院の改革のために中等部から風紀委員会に所属した。僕が抜けたから、ファヴォリ内の統率は佳月にお願いしてね。その件で色々と協力してもらったり、情報のやり取りもしたりしているけど、そもそも僕と彼は友人同士だ。日常の他愛ない会話だって普通にする。普通にしはするんだけど……」


 そこで一度言葉を切り、思い悩む間が生まれる。


「……日常会話の一環で、ある人物のことを話題にした時に。おかしいと、思う時がある。普通に僕の話を笑って聞いているんだけど……佳月は、何かを隠しながら聞いている。隠しているようで隠されていない、何か」

「隠しているようで、隠されていない……?」

「はっきりとどう言えばいいのか、当て嵌まる表現がそれしかない。初等部の頃からの付き合いだけど、その時の佳月が何を考えているのか、よく解らない。だからそういう時、僕の知らない彼がそこにいるようで……そう、これは――――怖い、という感情なのかもしれない」


 怖い。まさかと思う。だって私は佳月さまに、全然そんなことは思わない。


「だから花蓮が言ったことは、何となく僕にも分かる気がする。覚えがある。気の置ける友人の筈なのに、どうしてそんな気持ちになることがあるのか。確かに自分の中にある得体の知れない感情に振り回されるのは、怖い。けど花蓮」


 今は何も掴んでいない手に、お兄様の手が重なる。


「いつまでも逃げてはいられない」

「!」

「“今”は催会への参加を禁止されているから良い。けど百合宮家の令嬢である限り、いつかは必ず“百合宮の令嬢”として、その場に立たなければならない日が来る。百合宮コーポレーションの社長令嬢として社会に出るのなら、避けては通れない道だ。分かるね?」


 禁止になったきっかけは、水島家でのこと。

 年齢も幼く、親の庇護の下に守られる存在だった。まだ小学生。だけどこれから年齢を重ねて中学、高校、大学までを卒業し、大人と世間から認識される未来にまで至ったら、甘えることも許されなくなる。


 必然的にお父様とお母様は、私より先に旅立ってしまう。お兄様にだってお兄様の人生がある。私はいつまでも百合宮の人間ではいられない。自分の手で、人生を切り開いていかなければならない。


 コクリと頷く。


「分かります。私自身のために、交流をしなければいけないこと」

「……僕達がお前を守ってあげられるのも、期限がある。傍にいられない場面は歳を経る毎に増える筈だ。学校は違うけど家格が同等な分、花蓮と同年の詩月くんとは直接関わり合う可能性は高い」

「……はい」

「花蓮の抱えている“怖い”は、花蓮にしか分からない。けど、まだお前たちは出会っていない。どういう人間なのか、花蓮はまだ実際の彼のことを知らない」


 知らない。


 そう、確かに私は“ゲームの白鴎 詩月”のことは知っているけれど、“実際の白鴎 詩月”のことは――知らない。


「今日は会わなかったけど次にその機会が訪れた時、しっかりと彼と向き合いなさい。向き合うことで花蓮が抱いている“怖い”以外のものが見えて、それが無くなる可能性もあるだろう?」

「あ……」


 言われて思い出す。


 麗花だって、最初はそうだった。高飛車で典型的なお嬢さまと思っていたのが、不器用なツンデレで。


 春日井も白馬の王子さまだけどスルーするし、打算的な発言だってしている。


 緋凰も俺様で強引で、態度も悪いしお口も悪くて鬼で畜生の癖に、ヘタレなプリンセスだし。


 秋苑寺は軟派チャラ男なのに失礼の塊だった。



 白鴎に対してはどうしてあんなに酷く恐れを抱いたのか、解らないけれど。

 避けては通れない。学校が違っても催会に出ていなくても、兄妹間の繋がりで今日のようなことが起きてしまうのなら。


 受験までもうすぐ。中学を卒業してこちらに戻ってくるのなら、例え高校も違うところに進んでも近くにいる以上、遭遇する可能性はゼロではない。今まではたまたま運が良かっただけ。避けても、出会ってしまうのなら。


 と、ずっと共にいたいと望むのなら。



「――――はい。私、私のために、向き合います。ずっとあんな気持ちを抱いているのは、嫌です」



 真っ直ぐにその瞳を見つめて言い切る。

 するとお兄様は、柔らかな笑みを浮かべて頷いてくれた。


「うん。……強く望めば、きっと叶うよ」

「はい!」


 今はまだ、心強い味方が傍にいてくれる。

 一人じゃない。だから大丈夫。向き合う。知ることで、解決できることがあるのならば。


 ゲームの“白鴎 詩月”ではなく、実際にこの世界に存在している、白鴎 詩月あなたに。

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