Episode193 受け止めてくれる彼は、まるで

「……どうした?」


 落ち着いていて、柔らかく吹き込まれるような声に彼を見つめる。囁き声でも届く夜半の静寂に澄んだ室内で、暗がりにはっきりと表情が判別できないことを感謝すべきなのか。


「……私……一人だけ、違う中学じゃないですか」

「……」

「時間は有限で。楽しく過ごして、笑っていたいんです。三年が長いのか短いのか、分かりませんけど。気持ちは変わらないって、それは断言できます。でも……でもやっぱり、寂しいのは、寂しいです……」


 去年から分かり切っていることを今になってもグダグダ言うのは、自分でも呆れてしまう。

 そこに居ないから姿だって見えないし、声も聞けない。六年間、ずっと。ずっと一緒にいたのに。残された時間が短くなるほど、想いはより深くなっていく。


「……ごめんなさい、こんなこと。何があっても負けない、強い女の子になるって言いましたのに……」

「あのさ」


 両手で持っていたコップを取られて、シンクの上にコップが並べられる。


「香桜にいる間、俺にラブレター書いてくんない? 俺も有明にいる間、お前に書くからさ」

「え?」


 突然言われた提案に目を瞬かせていると、ポンと頭に手が置かれて、緩々と撫でてくる。


「俺ん家に初めて来た時のこと、覚えてるか?」


 覚えている。ラブレターのその後をどうしているか知りたくて電話して、それからお家に誘われたこと。


「はい」

「好きなところ十個でも何でもいい。俺のこと思い出している間は、寂しくないだろ?」

「!」

「俺のことじゃなくても拓也とか、相田たちとか。学校外の友達のことでも何でも。まぁラブレターじゃなくても、そうして俺達のこと思い浮かべて何か物語を作っても面白いんじゃないか? そうやって過ごしていると、三年なんてきっとあっという間だぞ」


 頭にある手が温もりを伝えてくれる。

 嬉しくて楽しい彼との思い出を、こうしてまた一つ作ってくれる。


「……私、気分が乗ったら筆が進むのは早いんです。皆のことを考えていたら、楽しくてあっという間に終わっちゃいます」

「そーかそーか。だったら夏休み終わっても色々、楽しい思い出いっぱい作らなきゃなー」

「ふふっ」


 思わず笑みが零れてしまう。

 ……本当にどうして貴方はこんなに簡単に、私を引き上げることができるのか。


「太刀川くん」

「んー?」

「私、貴方に “九年分”の想いを込めて、ラブレター書きます」


 緩々と撫でていた手がピタリと止まる。

 暗がりだから笑んでいる顔は、はっきりと分からないかもしれない。けれど声にこもる感情は、暗がりでは隠せない。


「だから。中学を卒業して、また出逢ったら。私から貴方へのラブレター、受け取ってくれますか?」


 二人だけの密やかな約束を。


 頭から重みがフッと消え、柔らかな檻に身体が囚われる。


「絶対に受け取る。俺も花蓮に、“九年分”。花蓮。俺からお前へのラブレター、受け取ってくれるか?」

「ちゃんと受け取ります。ちゃんと、お返事します」

「うん」


 背中にそっと手を回して添える。額を彼の肩に乗せて瞳を閉じれば、爽やかで清涼な香りに満たされる。


「花蓮」

「はい」

「不安を感じたり悩みがあったら、ちゃんと言えよ。我慢するより、どんなことでも言ってくれた方が俺は安心するから」

「分かりました」

「よし。――じゃあ誤魔化そうとしたこと、言えるな?」


 パチリと目を開けてゆっくりと頭を上げて見ると、この距離では暗がりでも顔が至近距離にあるので、どんな表情をしているのか丸判りだった。半眼になって私を見下ろしている。……あれ?


「いま言ったことも “本当のこと”なんだろうけど。俺が聞いた時に考えていたことと、違うことで返しただろ」


 待って待って、何で。どうして分かるの!?


「話していた直前の内容と関係ないし、話し出すまでの間が『どうしよう……』な感じの間だった」

「何も言ってないのに!」

「同じ場にいたら教えられなくても分かる。何てったって、お前とは六年の付き合いだからな」


 くっそう、人の心の機微に聡過ぎる! 家族関係のデリケートなことを、モヤモヤをどうして彼本人に吐き出せると言うのか!


「ほら言え。聞いても怒ったり、呆れたりしないから」

「……」

「チューするぞ」

「!?」


 何て事を脅しで言うの!? あっ、抱きしめられているから逃げられない! もしかしてこれはこうなることを見越しての拘束、っ……!?


 おでこにコツンと、額が重なる。


「花蓮」

「……っ、う、太刀川くんの、お兄様」

「……兄貴?」


 予想外のことを聞いたとでもいうような、そんな声に素直に告げる。


「貴方がさっきのような雑学を教えてくれる度に、貴方のお兄様の存在が頭を過るんです。拓也くんから聞きました。幼稚舎の時、下坂くんと西川くんが拓也くんに色々言うようになったきっかけが、年長くらいのお兄さんから言われたことだったって。今は貴方の様子から、お兄様との関係も良くなっているんだって分かります。分かりますけど、私は……モヤッとするんです。だって貴方は、一度は拓也くんのことも、私のことも諦めようとしました。貴方へのお兄様からの影響が強過ぎて、心配で……不安、なんです」


 私が想いを深めているように、彼に対して重い執着を抱えている兄だって、きっと。


 仲が良くなれば良くなるほど、それはきっと増していく。

 ……好きな存在ができることで自分から離れると思い、それが嫌だから引き離そうとしたなら、心のどこかでは今もまだその想いは消えずにくすぶっている筈。


 執着を向けている対象の気持ちを置き去りに、利己的な考えを通す人物であることは、私にされた件で把握できる。

 裏エースくんの気持ちを解っていて、けれど彼が望んでいないことなのに “それ”をさせた。


 落ち着いている。それは表面上のことだけだと、その考えが捨てきれない。



 ――いつかまた、何かをきっかけにして引き離されるようなことがあれば


 ――彼がまた、私を守るためにその手を離す決断をしてしまったら



「有明にいる間は、貴方はお兄様とは会えません。影響なんてありません。でも、でも……っ」


 言葉にして吐き出すほど不安が押し寄せ、止まらなくなる。けれどそんな私の身体を、今度はギュウッと強くいだかれる。


「……それがさっきの、『どうしよう……』?」


 目を伏せて小さく頷く。


「そっか。……そうだな。確かに今もまだ、兄貴のことは俺もちょっと信じきれてない」

「っ」

「アイツ、もうしないとか言ったけど。親も巻き込んで話し合ったけど、それで心底反省して二度としないなら、最初からそんなことしないだろ。腐っても半分は血が繋がってるからな。しかも頼んでもないのに構ってくるから、嫌でもアイツの考え方分かるし。けどさ」


 そう言った瞬間に拘束が解かれ、代わりに手と手を繋ぎ合う。見上げる顔に憂いなんて、どこにもなかった。


「また兄貴が何かしてきても。してこようとも。例えまたお前を傷つけようとしてきても――――絶対、あの時のようにこの手を離したりしない」

「太、刀川くん」

「守るよ、傍で。もうあんな風に泣きながら、手を伸ばさせたくはないから。そんなことさせないように、ずっとこうして繋いでいる」

「……うっ」



 ――私は馬鹿だ。好きな人を信じているつもりで、信じていなかった


 零れた涙を指で払ってくれる。

 漏れる笑い声が空気を震わせる。


「また泣いてる」

「……な、泣かせたのは、貴方ですっ。太刀川くんのせいです」

「へーへー。仕方ないから今は泣いとけ」

「何ですかそれっ……」


 嬉しいの気持ちと、後悔の気持ち。綯い交ぜになった感情が行き場を失くして目から外に出てくるのを、許されたからそのままにする。


 手を繋いでいる。心も、繋いでいる。


「笑っている顔が好きだけど。どうしても泣きたくなったら、しょうがないから泣いていいぞ。我慢するより泣け。ちゃんと受け止めてやるから」


 抑え込まなくてもいい。

 彼は、私の好きな人はまるで――



「笑ったり、泣いたり、怒ったり。色んな顔を知りたい。そうしてこんな風に、変わらず同じ時間を過ごしたい。離れるより一緒に居たいのは……好きなんだから、当たり前だろ?」



 ――そこにあって、輝きを見せつけ照りつける太陽とは違う。何があってもその懐に受け止めてくれる、青く、青く澄み渡った雄大な――――



 ――――そらのような人。

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