Episode188 瑠璃子の本音

 そんな何かを感じるような時間だったが、ずっと走る姿を見つめていた春日井から再度ポツリと。


「……アドバイス、ということだけど。ちゃんと一定のリズム感覚で走れているし腕の振り方も正確だから、特に言うことはないんだけど」

「え? そうなんですか?」


 臨時コーチのお言葉に私も瑠璃ちゃんへと視線を戻して、ジィッと見つめる。


 ……今年だけ何もないのか?

 まぁ、それならそれで問題は…………ん?


 よくよく目を凝らす。ふぅっ、ふぅっ、ふぅっと彼女が走っているその隣には、既にマシンから離脱した蒼ちゃんが床にバタンキューしている。そしてそんな蒼ちゃんをお父様が甲斐甲斐しく、せっせとお世話をしてあげている。


 例えばルーム内冷蔵庫から飲料ドリンクを取り出して、コップに注いで飲ませてあげたり。ルームクローゼットからタオルを出して、流れ落ちる汗を拭いてあげたり。汗を、拭いてあげたり。……汗。


「瑠璃ちゃんストップ! ストップ!!」

「え?」

「百合宮さん?」


 世にも恐ろしい問題を見つけてしまい、慌てて制止の声を上げると瑠璃ちゃんはマシンを止め、隣から訝しげな声が上がる。しかし説明する間も惜しい程の焦燥に、私はタッと瑠璃ちゃんの元へ駆け寄った。


「どうしたの瑠璃ちゃん!?」

「え? なに? 何の話なの?」

「何で汗かいてないの!? 通り汗は?!」


 私の剣幕の理由と言われていることが理解できていないのか、「え? 汗……?」とオロッとしている。


 今まで動きにばかり異変がないか注視していたせいで、基本が頭から抜け落ちていた。


 麗花は薄ら額に汗を滲ませる程度だが、瑠璃ちゃんは毎年通り汗。持久力が付いて年々記録を伸ばしている彼女だが、最初の時から汗をかく量はまったく変わらなかった。

 持久力が伸びる分流れ落ちる汗の量も増えるので、最早用意されるのは彼女の場合だと普通のタオルではなく、大判のバスタオルになっている。


 ……それなのに今年だけ汗をかいていない!? 彼女の脳は一体どういう指示を身体に出しているのか!


「……あら? そう言えば、濡れた感触が全然……」

「もっと早く気付いて!?」

「どうしたの?」

「大変です臨時コーチ! 瑠璃ちゃんがっ、瑠璃ちゃんが汗をかいていません!!」

「え?」


 こちらにやってきた春日井に訴えれば、台詞通りの表情をする。


「汗? でも、走り始めてからまだ数分くらいしか経ってないよね?」

「そんな普通の認識は今すぐどこかに捨てて下さい! この時点で汗をかいていないことがもう異常なんです!」

「ええ??」


 初見のためにこのとんだ異常を異常と認識できていない春日井にそれがどれだけ異常なのかを伝えた結果、彼は瑠璃ちゃんを二度見した。


「えっと米河原さん。それ、本当の話……?」


 同じく私の話を聞いていた瑠璃ちゃんは、顔色を少し青褪めさせて頷く。


「はい。……そうよね。私、いつもすごく汗をかいているのに、どうして気づかなかったのかしら」

「そ、それだけ走るのに集中していたってことじゃないかな?」

「どうすればまた汗をかくようになりますか!? かかないと多分、大変なことになるのだけは分かります!」


 彼は顎に手を当てた。


「そうだね。汗は体温調整とか、皮膚を保湿して健康な状態を保つ役割があるから、かかないより断然かいた方が良いんだよ。汗をかいていたと言うことは無汗症じゃないし、後天性で発症したりすることもあるけど、それは大人と言われる年齢になってからの事例だし。……あー……」


 顎に当てた手を、今度は額に当てる。


「急に汗をかかなくなるなんて、初めて聞いたな……。ビート板消失も未だに原因が分からないし」


 瑠璃ちゃんの話なのに、ボソッと何故か私のビート板の謎に飛び火した。


 本当に何ですぐ無くなるのか、私も未だによく分からないよ。これでスロモ走りの謎も提示したら、何か春日井の頭が謎で埋め尽くされてしまいそうだ。


「な、悩ませてしまいまして、すみません……」

「いや、うん。大丈夫。人体はとても神秘的なものなんだって、改めて知ることができたから」


 恋愛の神様兼、白馬の王子さまの語録に女の子を傷つける言葉などありはしない。


「……原因か。発汗の調整って、自律神経が関係するんだ。ストレスや疲れの蓄積で自律神経機能に異常が出ると汗が出にくくなるんだけど、最近そういうストレスを感じたり、疲れたりすることってあった?」


 問われた瑠璃ちゃんは視線を床に落とし、少し考えて。


「この時期にお菓子を控えるのは毎年のことですし、疲れを感じたりするのも、特には……」

「お菓子の他に何か食事を控えたりしている?」

「いいえ。それは花蓮ちゃんともう一人の子から良くないことだと言われて、ちゃんと摂っています。高タンパク低カロリーメニューを維持して、それが苦だとは思いません」

「そう……」


 何とか原因を突きとめようにも、話は振り出しに戻るばかり。今の時点で改善されないと、今年の夏は汗をかかないまま過ごしてしまうことになってしまう。


 頭を悩ませる私達に、その時本宅の外線電話から繋ぐ場合にしか鳴らない呼び出し音が鳴った。一旦そちらへと瑠璃ちゃんが向かって取り、話し始める。

 すると受話口を片手で押さえて、「花蓮ちゃん」と私の名が呼ばれた。


「何?」

「麗花ちゃんから。代わってって」


 声を落として告げられた名前に目を丸くして受け取り、受話器を耳に当てる。


「もしもし? せいコーチ?」

『何ですのその呼び方は』

「や、コーチの名前を呼んだらちょっとアレな人が来ていて」

『アレな人? 他に誰か来ておりますの?』

「うーん。来たというか、私が召喚したというか。今年はコーチが不在だから、運動が得意な人に見てもらおうと思って」


 そう言えば、『貴女じゃ難しいですものね』と返ってきた。

 そうですね。自分でもそう思ったけど、今年の異常に最初に気づいたのはこの私だよ。


「それで、どうしたの?」

『いえ、貴女が口にした通り、今年は私が不在の中で行われておりますから。例の件が心配で連絡しましたの。今年は大丈夫ですの? 何か見つかりまして?』


 なるほど、麗花も瑠璃ちゃんの今年は何だろう……が気になったらしい。そりゃ去年は首カクカクだったから心配するよね。


「落ち着いて聞いて。実は……世にも恐ろしい事案が発生した」

『え!? なに、どうしましたの!?』

「汗をかかない」

『え』

「汗をかかない。始めてから一筋も。まっさら」

『……え!? え?!』


 二度驚愕の声を上げたので、正コーチの異常認識反応速度は私のそれと同等だ。


『汗をかかないって。それ、大問題じゃありませんの!』

「そうなの! 今どうすればいいかって、皆で顔を突き合わせて悩んでいる最中で。臨時コーチが言うにはストレスや疲れが関係しないかってことなんだけど、聞いてもそんなもの感じてないって瑠璃ちゃんが」

『ストレスや疲れ……自律神経の話ですわね。自己申告でも本人が気づいていないストレスがあったりすることもありますから、詳しく聞き出した方が良いと思いますわよ』

「本人が気づいていないストレス?」


 聞き返せば、詳しく教えてくれる。


『本人がストレスじゃないと思っていても、それが実際はストレスになっている、ということですわ。瑠璃子、毎年頑張ってはおりますけど、体重が減っても見た目に反映はされていないでしょう? 例えばの話ですけど、それが毎年のことだから「もしかして今年も」と意識下にあるのだとしたら、それが無意識のストレスになっている可能性がありますわ』

「なるほど……!」


 毎年の積み重ねが悪い方向で今回、遂に爆発してしまった、と。

 さすがしっかり者の麗花さん。目のつけ所が違う!


「分かった! ありがとう正コーチ!」

『ええ。……ただ』

「ん?」


 続く言葉を途切れさせたことに首を傾げて待つと、声に迷いが表れていた。


『……ダイエット訓練のことじゃ、ないかもしれませんわ』

「え? それって、日常にある何かで抱えているかもしれないってこと? ……もしかして、何か心当たりある?」

『今年の問題がそれということで、少し。ああ、私のせいかもしれませんわね……』

「えっ」

『もう一度、瑠璃子に代わって下さる?』

「う、うん。分かった」


 そして再度瑠璃ちゃんを呼んで電話を代わり、春日井のいるところへと戻った。


「傍で待機してなくていいの?」

「はい。多分、私は一緒に聞かない方がいいかな、と」


 瑠璃ちゃんのストレスに自分が原因かもしれないと彼女が判断したのは、恐らく麗花のやりたいことが関わっているのだと思ったからだ。

 なら内容を知っている瑠璃ちゃんが私に秘密にするくらいだし、取り敢えず様子を見た方がいいかなと。


 そうして暫く様子を見ていたが、小さく首を横に振っているあたりで何やら瑠璃ちゃんの様子がおかしくなった。


 ……? あれ?

 何か、肩が小刻みに震え出し……?


 話が終わったのか受話器を置いて、けど、その場から動かない姿に嫌な予感がする。春日井からも「百合宮さん」と声を掛けられ、無言で頷いて私は瑠璃ちゃんの元へ向かった。


「瑠璃ちゃん」


 振り返らない。横から覗き込めば顔を両手で覆っていて、その指の隙間から――嗚咽が漏れている。


 背中を軽く擦り、横からタオルを差し出されたので見れば、お父様が無言で持ってきてくれていた。蒼ちゃんはマシンの隣で眉を下げて、心配そうに自分の姉を見つめている。

 お父様の手からタオルを受け取って、「瑠璃ちゃん」と声を掛けて顔を押さえている手に当てれば、震える手でそれを顔へと押し当てた。


「……かれっちゃ、私、私……っ」

「うん」

「私、本当にね、二人のことがっ、だい、大好きなの」


 突然告白されて少々驚くが、頷くだけで口を開かず静かに耳を傾ける。


「うん」

「ほん、本当は、おう、応援しなくちゃって、おもっ、思って、いるの。でもっ、でもねっ。やっぱり、さび、寂しくて! 私にとって二人は本当に、大好きな、友達だから! 思っちゃ、ダメなのにっ、でも、ずっとっ、一緒にいたくて……!!」

「瑠璃ちゃん……」


 途切れ途切れに、けれど必死に伝えてくれているその内容。詳しいことは分からない。


 けど彼女が私と麗花とずっと一緒に居たいのだということだけは、強く伝わってくる。

 私の場合はやっぱり中学受験で、それも全寮制のところだからなぁ……。


 指示元へとチラリと視線を遣ると、背中を丸めて縮こまっていた。



『今は内緒だけど麗花ちゃんのそれは、きっと花蓮ちゃんにとっては嬉しいことよ』



 私にとっては、で気づけば良かった。きっとそれは無意識に出た発言で、私も瑠璃ちゃんがいつもニコニコ笑ってくれていたから気づかなかった。


 そうだよね。離れることになって寂しいのは、皆同じだよね……。

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