Episode181 海棠鳳⑩-忍の発露-

 幼少の頃から培ってきた修行の成果で毎年選抜リレーの選手に選ばれている足にも何とか追いつき、見開かれた目から未だにポロポロと涙を落としながらも呆然と、自分を見つめてくる新田さん。


 そしてそんな彼女に存在を認識されても初めて飛び退かれなかったと、場違いにもそんなことを思ってしまった。

 ……いやそりゃ真後ろに木はあるし、体育座りしているから飛び退きたくてもできないだろ。何を言っているんだ自分は。


 つい追い掛けてきてしまったが、これからどうすればいいのか先の経験がまったく以てないので、さっぱり分からない。まだ泣いてるし……取り敢えずハンカチ渡した方がいいよな。うん、そうしよう。


「……これ」

「え。あ、ありがとう、ございます……」


 ポケットから取り出したそれを差し出せば反射的に受け取られる。暫く彼女は手にしたハンカチを見つめていたが、そっと顔に押し当てた。


 布を隔てて微かに漏れ聞こえる嗚咽。思いっきり泣きたかったのに、自分が来てしまったから我慢しているのだろうか? また空気読めてなかったか。


 ――けど、後からではダメだと感じたのだ。


 立って見下ろしているのも図的にどうかと思うので、何となく。……何となく、新田さんの隣に座る。


 ……また置物化しているような、いないような。何て話し掛けたらいいのか分からん。多分麗花か城山か、そこら辺りのことでだとは思うが……。


「……どうして、私を追って?」


 小さな質問がポツリと落とされた。隣を見れば、未だその顔はハンカチに埋められている。


 どうして新田さんを追ったのか?


 どうしてと言われても、放っておけなかったとしか言いようがない。タイミングが色々重なり過ぎていて、自分ができるフォローも何もできていなかった。あっちもこっちも色々なことを取り零している。


 けれど今、新田さんに答えを返すのなら。


「……泣いていたから」



 言葉にして改めて思う。


 そう、自分は――――新田さんが泣くのも、見たくはなかった。傷ついて欲しくなかった。


 始まりは、麗花が俯いて泣くのを堪えていた時。

 その時の自分はただそれを見ているだけで、声も掛けなかった。掛けられなかった。


 笑っている顔を見て、この人の笑顔を守りたいと思った。傷つくことのないように、友達の自分が彼女の傍にいて、守ればいいのだと。……その半ばでいつの間にか、隣で泣いている女の子がその意識下にいた。


 一年生の運動会の件で疑いを持ち付いて回ったけれど、麗花の言葉に感化されて行動に移すような、正義感のある同級生だと知った。あんな兄を持った水島さんがずっと守っていた、大切な存在だった。


 自分と視線が合う度に飛び退いて、それが何故か気になって。泣きそうに……泣いている姿は、どこかあの時の幼い麗花にも重なって。


 誰にも言わず一人で泣く、その姿が――



「放っておけなかった」



 ――それは一体、どういう感情からくるものなのか



 グスッと鼻をすすった後、「聞いて、頂けますか?」との言葉に静かに頷く。すぐには話し出さず結構な間が置かれたのは、彼女の中で気持ちを整理していたからだろう。

 話し出した時の新田さんの声は先程よりも落ち着いていたが、途切れ途切れにしかまだ喋れないようだった。


「あの日、スケッチブック、失くしたって思ったんです。でも、今日中條さまから、大沼さんが私の鞄から持ち出していたと、聞いて。それで、薔之院さまが、私を疑っていると、思って。お話ししなきゃって。でも私、遅かったみたいです。もう……、嫌われた後でした……っ」


 ハッとする。

 麗花と、話したのか。


 自分は今日まだ話しに行けていない。麗花が新田さんに対してどう思っているか判っていたのに。自分は知っていた筈だ、新田さんは行動に移せることができる人間だと。


 ……そうだ。だから、スパイなんてものから遠ざけようとした。


 中條に引っ張られて赤薔薇親衛隊ローズガーディアンズに入隊したと言っても、正義感のある彼女なら麗花のために自発的に動くと、解っていたから。傷つくようなことになんてならないように暴走阻止なんて理由をつけて、秋苑寺くんに邪魔してもらうようにした。守りたかった。


 ――誰を?


 城山に狙われているのは麗花だ。あんな風に泣くのを耐えている姿は、もう見たくない。



 ――それだけか?



 気合いを入れて。麗花をいつもキラキラした目で見ていて。けれど入れた気合いはどこか空回りしている。忠告したのに情に迷って切り捨てられず、泣いている理由もいつも分からない。飛び退かれる。


 気になる。いつも一人で泣いている。

 泣かなければいいのに。



 ――――泣かせたのは、誰だ?



「……自分のせい。すまない」


 そう告げると隣から僅かに動く気配がした。

 視線を向ければ、驚いている濡れた瞳とかち合う。


「どうして尼海堂さまの、せいなんです?」

「気づけなかった。自分がもっとしっかり周囲を見ていれば防げたこと。……結局、どちらも泣かせてしまった」


 濡れている瞳がパチリと瞬いた。


「…………えっと。ちゃんと、聞いておきたいことがあるんですけれど、良いですか?」


 頷くと、けれど自分から言い出したのに彼女は少し悩む素振りを見せて、少ししてから意を決したように口を開いた。


「尼海堂さまは薔之院さまのために、秋苑寺さまと協力されていらしたのでは……? 先程のお言葉ですと、どちらもって、その、私も含まれてます……?」

「……何故?」

「ひえっ。え、だってその、私、いつも尼海堂さまに睨まれていますし」


 は? ……待て。ちょっと待て。

 いつ自分が新田さんを睨んだ? 中條から変な影響受けてないか? え、いつも飛び退くのはまさか、自分に睨まれていると思っていたからなのか!?


「違う。睨んでない。また麗花を見ていると思って見ていただけ」

「え。あ、う、合ってます、けど。え? 私、睨まれてない……? ブラックリストじゃない?」


 ブラックリストってどういうことだ。何から何まで変に勘違いされているなこれは。……まあ何となくは分かっていたけど!


「尼海堂さまは、じゃあどうして秋苑寺さまにご協力を仰がれたんですか? 私の身動きを封じるためだと、おこがましくも思っていたのですけれど」

「スパイ活動と聞いたけど、新田さんは城山さんと友人関係。仲が良いのにそういうことをすれば、新田さんが……傷つくと、思った、から」


 思ったことを淀みなく言い続けていた口が、最後少し回らなくなった。途中で信じられないと目を見開いた彼女の顔が、口が回らなくなるほどの驚きをそこに呈していたからだろうか。


「私のため、だったんですか? 排除とかじゃなくて?」


 自分という存在は新田さんに一体どういう風に見られているのか。最後の一言で何か察せられた。

 「ひぇっ」と首を竦めるな。自分はいま一体どういう顔をしているんだ。


「違う」

「そう、だったんだ……。あの、私、ずっと秋苑寺さまに付き纏われて、女子トイレまで逃げて、でも追い掛けられて。それで薔之院さまが偶然トイレの中にいらっしゃって。私、助けて頂いたんです。薔之院さまから秋苑寺さま対策で、絵のモデルを提案して下さって。それで親交行事の前日に、スケッチブックの感想をと、お預かりさせて頂いたんです……」


 気になっていた件が唐突に明かされ始めたが、話の途中からもう頭を抱えたくなった。


 秋苑寺くん……!!! 自分が緋凰くんに拘束されている間にそんなことしてたのか秋苑寺くん!?

 そりゃダメだ! その場に居合わせた麗花は激怒しただろうし、従兄弟にも見張られるだろうよ! もっと他に行動制限する方法あっただろう秋苑寺くん!!


 そこまで思って、突如ハッとなる。


 ……ということは元を辿ればこれは、本当に自分のせいなのでは? 対象と同じクラス且つ、頼みやすく力あるファヴォリとして秋苑寺くんに頼んだ自分が、全部悪いのでは……。いや、待て。根本的に一番悪いのは城山一派だ。そこを忘れるな。


 けれど守ろうとして結果、守れずに傷つけてしまったことに変わりはない。心に重いなまりが生まれる。


 これは自分の慢心まんしんが招いた結果だ。

 考えることが多いとその分何かを取り零す。


 分かっていたことだった。分かっていながらそれを受けてしまったことは、ただの慢心に過ぎない。言い訳なんてできるか。


 麗花にあんな顔をさせてしまった。

 ここで新田さんが泣いている。それが全てだ。


 城山一派が目的としていた麗花の印象操作は阻止できたが、が守れていない。


 ――守りたいものが、守れなかった



「尼海堂、さま」



 ふと意識を戻して新田さんを見れば、目を丸くしている。何も言わずに待っていれば、赤い目元を更に赤く染めて俯いた。


「私、ずっと尼海堂さまのこと、勘違いしていました」


 ……うん、だろうな。知ってる。


「ずっと、私みたいなのが薔之院さまのお傍に寄ることをよしとせずに、バリアを張っていらっしゃるのだと思っていて。私に秋苑寺さまを当てたのも、排除したいからだって」


 あの時言っていたバリアの意味がようやく分かった。あと新田さん個人に当ててない。彼に頼んだ内訳には、赤薔薇親衛隊暴走阻止で中條も含まれている。


「私、睨まれていると思って、怖くてずっと飛び退いていました。失礼な態度だったって、いま思います。すみませんでした。……あと、追い掛けてきて下さって、ありがとうございます。お話も、聞いて下さって」


 放っておけなかったんだから仕方がない。

 授業も一つサボってしまったが、まぁ……授業内容は問題ないだろう。あるとすればサボり理由だな。どうするか。


 と、クスクス笑う声が聞こえてきた。どうしたのか、新田さんが笑っている。


「……なに」

「いえっ、あの。本当に私、何も見えてなかったんだなって思いまして」

「?」

「尼海堂さまって、考えていることが顔に出ているって、よく言われませんか?」

「!?」


 何!? また出ているのか!?

 くそっ、顔面も修行して鍛えなければ……!


「ふふふっ。私、ここで尼海堂さまとお話できて、良かったです。少し元気が出ました」

「……麗花のことは、」

「あの、そのことなんですけれど」


 自分も彼女に話を聞く、と言おうとして遮られた。

 そして眉を下げながらも新田さんは顔をちゃんと上げて、しっかりとその瞳に覇気を宿す。


「嫌われてしまいましたけれど。もう遅いのだとしても、それでも私、ちゃんと薔之院さまに私の言葉で、私の気持ちをもう一度お伝えします。実は言葉が喉に貼り付いて、ちゃんと言えなかったんです。本気でぶつかれていませんでした。また、一方的に返されてしまって……。……あそこで退いたらいけなかったんだって、気づきました」


 また、と口にしたことで、以前にも自分の知らないところで麗花と何かあったことが窺える。恐らく自分と同じく、麗花に対して後悔している過去があるのだろう。


「だから決めました。一回はもう当たって砕けているんです。もう何度砕けたってそう変わりません! 見ていて下さい、尼海堂さま。薔之院さまに……城山さまにも、私の気持ちをしっかり伝えます」

「城山さんにも?」


 力強く言われたそれに眉間に皺が寄る。

 一体何を伝える気なのか。


 城山の周囲の人間は新田さんを除き、彼女に対して従順な人間で固められている。それは到底友人と呼べるものではない。

 今回の大沼のことを鑑みても恐らく自身が動くことなく、自らの思うように動かせる駒程度にしか思っていないだろう。そうすると、その駒が己に反意はんいひるがえすとなれば、アイツはどう出るか。


 自分のおもてに出ていただろうものを感じ取ったのか、けれど首を横に振られた。


 そして――――笑った。



「尼海堂さまのおかげです。尼海堂さまが追い掛けてきて下さらなかったら、一人でメソメソして諦めていました。去年忠告して頂いて、先日も転びそうだったのを助けて下さって、今日は立ち上がる勇気も頂きました。守って下さって、ありがとうございます!」



 いつも存在を認識されては飛び退かれていた。泣いていた。自分と視線が合う時は、いつもビクビクとしていて。泣かせてしまった。守れなかったのに。


 ――守れなかったのに、何故、笑顔でお礼なんて言うんだ



「尼海堂さま?」


 ……違う。うるさい。何だ。何だこれ。

 待て。ちょっと待ってくれ。こっち見るな!


 顔を隠すように腕をやり、相手から見えないようにするしかなかった。どうにも自分は顔によく出るらしいから。


 ……くそっ、何か熱い! 身に覚えがあるぞこれ。麗花と友達になる過程で経験したやつ! けど……。


 似ているようで、違う。



 ――それは一体、どういう感情からくるものなのか



 初めて飛び退かれなかった。

 初めて自分に、笑ってくれた。

 たったそれだけのことなのに。


 どうして、こんなに――……。





◇+◇+◇+◇+◇+◇+





「……麗花」

「忍?」


 放課後、サロンへと向かうまでの中廊下。

 向かうかは五分五分だったが、恐らく今日は来るだろうと思ったから待ち伏せていた。


 自分の呼び掛けにこちらを見た麗花は目を丸くしながら、真っ直ぐに自分の元へと向かってくる。


「どうしましたの、こんな半端な場所で。話があるのでしたらサロンで伺いますわよ?」

「……いや。確認したいことが」

「確認?」


 小首を傾げて不思議そうな顔をしている。

 自分とだと態度も変わらず、普通に会話をしている。……麗花の態度は、変わるだろうか?


 二人の間に入った、外野からの悪意による亀裂。

 どちらかに付く訳じゃない。自分は、自分にできることをするだけだ。


「新田さんのこと」


 ただ一言、その言葉に意味を込めた。

 聡い彼女なら意味はすぐに通じる筈。


 すぐに反応はなかった。ただ真っ直ぐに自分を見つめていた麗花は――スッと、目を細めた。



「……忍。また私に隠れて、コソコソと動いていましたわね?」



 ……。

 …………想像していた反応と違う。


 持ち手を掴んでいた鞄を腕に下げて組み、ねたように睨みつけられている。圧が掛かっていないから、普通に怖くない。むしろ可愛い部類。……ん?


「気づかなかった私も私ですけれど、言わない忍も忍ですわ! この私は薔之院家の人間でしてよ!? 自分にかかる火の粉くらい幾らでも対処しましてよ!」

「……」

「何ですのその顔」

「……どんな顔」

「そんなこと言われると思わなかったって顔ですわ!」


 当たっている!!

 絶対に表情筋を鍛えなければいけない!!

 というか、え? 本当にどういう反応だこれは。

 まさか意味通じてない??


 そう思ったのも束の間、ふぅと息を吐いた麗花は一度ぐるりと周囲を見、再度その顔が戻ってきた時には真剣な顔をして声を潜めた。


「丁度良かったですわ。そのことについては私も、貴方にお話がありましたの。――忍は新田さまのことを、どうお思いですの?」


 約一時間前にあった五時限サボりのことが頭に浮かぶが、違うとかぶりを振る。


 聞かれているのはこの場合だと、人間性のことだろう。彼女は新田さんと話して、『拒絶する』という選択をしている。もう既に麗花の中で彼女に対する答えが出ていなければ、そんな選択はしない。


 ……新田さんのことを、どう思っているか。


「正義感のある人間。迷って、誰かの影響を受けていたとしても、けれど自分で考えて納得して行動する。そんな人間」


 そう告げれば目を少し見開き、けれどその一瞬後に彼女は――――笑った。


「そうですの。忍、そう思いますのね」


 も? ……と、いうことは?


「……麗花は、彼女のこと」

「昔の話ですけれど。彼女、私に物申してきたことがありますの。当時の私は友達もできなくて、躍起やっきになって色々な催会に参加していましたわ。その中である日、彼女と仲の良い子とトラブルになりまして。別の催会に参加した時に、偶然同じ場におりましたの」


 過去のことを口にするその表情は、内容とは裏腹に穏やかなもので。


「思い返せば自分でも、私は近寄り難い子どもだったと思いますわ。周囲の子に嫌われていると疑心暗鬼になって、不機嫌で。それでも彼女はトラブルとなった子のために、そんな私に向かってこう言ってきたのですわ。『謝って頂けませんか』と」


 敢えて明言していないが新田さんが絡んでいるとなれば、現状から見てトラブルとなった人間は一人しかいない。


「あの時は気に入らなくて、キツい言葉で撥ね退けてしまいましたけれど。……私にそんなことを面と向かって言ってきた子は、新田さまだけでしたの。それだけで、彼女がどういう人間性かは判りますわ」

「……」


 ――――察した。


 どういう意図を以って、麗花が新田さんに対し拒絶の選択を取ったのか。極端過ぎないか?とは思うが。


 ……けれど。


「麗花が思っているより、新田さんは弱くない」


 パチクリと瞳を瞬かせる彼女を見つめていれば、自然と口許に笑みが浮かぶのが自分でも分かる。



『一回はもう当たって砕けているんです。もう何度砕けたってそう変わりません! 見ていて下さい、尼海堂さま』



 うん、見ている。新田さんを信じる。


 彼女は麗花が築いたを、必ずきっと粉々に打ち砕くと――……。

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