Episode180 海棠鳳⑨-萌の傷心-
『忍。……新田さま』
私の名を紡ぐあの時の薔之院さまの声は、とても。
――とても平淡だったと、今なら思える。
三階の多目的教室が荒らされたと聞いて、残された一年生と私はずっと二階の空き教室で待ち続けていた。
現場へと向かわれた皆さまがかなり時間が経過してから戻ってこられた時に、緋凰さまから「問題は解決した」と告げられて一年生は良かったと安堵していたけれど、私は違った。
いえ、問題が解決されたことに対してはホッとしたけれど、何となく。――何となく、薔之院さまのご様子がおかしいと思ったのだ。
スケッチブックを失くしてしまったこともあって、少し前に謝罪をしようとしたところに問題が発生してあやふやになり、恐る恐る再度ご様子を窺ったのだが顔を合わせるどころか、目が合うことさえなかった。
昨日までは尼海堂さまに向けるような笑みを私にも見せて下さっていたのに、凛とされてはいらっしゃるけれど……どこか固い。声をお掛けすることも憚られ、薔之院さまは百合宮さまと手を繋がれて教室を出て行かれてしまった。
その後は親交行事中でお会いして言葉を交わす機会も得られず、もう一度スケッチブックをくまなく捜したけれど、こちらも見つからなくて。だから次に登校した日に、改めて謝罪をしようと考えていた。
……考えて、いた。
「――え?」
登校して教室に着き、クラスの子から中條さまに呼び出されていると伝言を聞いて指定の場所へ向かえば、やってくる私に気づかれた中條さまが途端、固い表情になるのが見えた。
そうして人目を避けたここで彼女から告げられた内容を聞いて、私の脳が思考停止する。
「そ、れ。本当、ですか?」
「……ええ。私の派閥にいる子が、大沼さんが貴女の鞄からノートを取り出すのを目撃したと。本人がいないのにと思って声を掛けたそうですが、借りる約束をしていたからと言っていたようで、そうならと引いたそうです。ですが……そのご様子では、そうではないようですね」
「借り、貸す約束なんてしていませんっ! だってあれは、あのノートは!」
「あの御方の、ですわよね?」
分かっていると頷かれるが、ドクドクと心臓が強く波打つ。
どうして。何で? あのスケッチブックのことは誰にも言っていないし、預からせて頂いたのだって、親交行事の前日なのに……!
それがどういう意味を持つのか、嫌でも悪い想像が過ってしまう。そして、中條さまからも。
「私は当日、家の準備とパフォーマンスの打ち合わせで、家の者とおりました。あの日、新田さんはどのように行動なさっていたの?」
「わ、私……。あの、荷物を整理した後、城山さまに呼ばれまして。彼女とだけではなく、数人の彼女のお友達とも、お話ししていました」
「廊下で?」
「Eの教室です。だってそんな、まさか、私」
「仰りたいことはよく分かりますわ。……誰だって自分の荷物が盗られるだなんて、想像にもしないでしょう。ましてやそれを、あの御方を嵌めるために持ち出されるなどとは」
「!?」
一気に顔から血の気が引いていく。
どういう、ことなのか。
深く息を吐き出して、それを告げられる。
「朝、少し耳にしましたの。三階の多目的教室が荒らされていて、行事前に薔之院さまがその教室に向かわれていたと」
「え……」
「三階の、しかも多目的教室だなんて。あそこは元々百合宮家から提供された、私がパフォーマンスに使用する生花植物を一時搬入していた教室です。そこにわざわざ薔之院さまが個人で向かわれる理由など、ありませんわ。誰かに、呼び出されでもしない限り」
呼び出された。どうやって?
……そんなの、答えなんて一つしかない。
「そして新田さん。きっとあの御方は貴女に呼ばれたと思って、あの教室に足をお運びになられましたわ。いつもは薔之院さまが貴女を迎えに来られておりましたが、今回は貴女から薔之院さまへのアクションを起こさなければならなかった。……貴女からの直接が難しいのならと思われて、メモでの呼び出しでも疑わなかったのではないかしら」
突きつけられる推測。いえ、推測などではない。
心当たりがある。親交行事中、薔之院さまの私に対する態度の変化。
「……私もよくよく注意しておくべきでしたわ。白鴎さまと連れ立って来られ、薔之院さまと新田さんが共に教室から出ていく姿は、誰もが知る光景でした。城山派は薔之院さまを快く思っていない。そして城山さんと近しい存在とされている貴女が、そんな薔之院さまと親しそうにしている。それが、城山派の生徒の目にはどう映るのか」
「あ……」
愕然とする。
私は。自分ではただ城山さまと友人なだけで、彼女の派閥に属しているつもりはなかった。けれど他の子はそうと認識していない。……分かっていたじゃない。彼女に近しい立ち位置として認識されていると!
『新田さまは城山さまと仲がよろしいでしょう? 女子の派閥は一応私も把握しておりましてよ。ですから私といるのが彼女の派閥の誰かに目撃されて、変な誤解が生まれないかと思いましたの』
薔之院さまだって、私のことをそう見ていらした。
薔之院さまは私に春日井家でのお茶会のことを以前謝罪して下さったけれど、私が城山派の人間だと認識されていらっしゃった。
……薔之院さまは城山さまのことを、彼女だけを快く思っていない。
私はあの頃から薔之院さまのことが苦手でも気になって、度々視線を向けるようになっていた。だから知っている。薔之院さまが城山さまだけを、避けていらっしゃったこと。
派閥の人間ではないと言った私の言葉を信じて、親しくして下さった。
尼海堂さまに向けるような笑みを見せて下さった。
『助け合うのに家格なんて関係ありまして? むしろ、その時助けられる人間が助けた方が、現実的ではなくて?』
助けて下さった。
城山派閥だと思われている、私のことを。
それなのに。
私が預かったスケッチブックに、薔之院さまを呼び出す何かがあった。感想を言うと約束していたから中條さまの仰る通り、きっと私からだと疑いもせずにそこへ向かわれたのだ。
行って、けれどいつまで経っても来ない私に、薔之院さまはどう思われた? あの時、男子生徒から自分が呼び出された場所が荒らされているのだと聞かされて、何て。
『多目的室?』
荒らされたこともそうだけど、場所に疑問の呟きを落とされていた。戻って来られた時、一度も目が合わなかった。固い雰囲気だった。
私は、謝罪をしなければならないことがあると、彼女に言ってしまった。
「あ……!!」
――薔之院さまは、私が嵌めたのだと思っているのだ!!
違う、違う! 知らなかった。スケッチブックが盗られていたことも、彼女が呼び出されていたことも! 私が疑われているのだって。
「な、中條さま。私、薔之院さまに……っ」
震える声で必死に紡ぎ出せば、中條さまも痛みを
「……こうなってしまったのも、私の注意が及ばなかったからですわ。薔之院さまのなさっている誤解を解くために、私も共に行きましょう。対極派閥である私と一緒なら、きっと信じて下さいますわ」
「中條さま」
頼れるお言葉にホッとして――――けれど、以前に告げられたあの言葉を私は思い出した。
『それに私に言いたいことがあるのなら、本人が言いに来るべきではなくて?』
鋭く刺すような声。不機嫌そうに細められた目。
……っ! ダメだ、中條さまを巻き込んでしまっては。思わず飛び付いてしまいたいほどの提案だったけれど、そのことに気づかなかったのは、私自身の責任もあるのだから。
薔之院さまはちゃんと話を聞いて下さる方だと、私はもう知っている。ちゃんと私が自分の口で話せば、聞いて下さる……!
震える手をグッと握り込んで、中條さまに向けて首を横に振った。
「私が、私からちゃんとお話しします」
「ですが…」
「大丈夫です。誤解なんですから。あの時とは私、違うんですから」
中條さまに言っているのか、自分に言い聞かせているのかよく分からなかった。
けれどこのままじゃいけない。誤解されていることもそうだけれど、何より。――何よりもそう思わせてしまったことは、薔之院さまを傷つけた筈だから。
私が浮かれていたからこんなことになってしまった。気づけなかった。
憧れていて……大事な、人、なのに。
『私、ここから離れられることにすごくホッとしているの。ずっと息苦しくて、私には合ってないって思っていたから』
美織ちゃんはもういない。遠くに行ってしまった。
けど、薔之院さまはここにいる。
まだ、ここにいるのだ。
「手遅れになんてさせません! 今度こそ、絶対に……!!」
何が私にとって大切なのか。
こんなことになるまでそれが決められないなんて、本当に私は――――遅過ぎる。
◇+◇+◇+◇+◇+◇+
バクバクと鳴る鼓動をそのままに昼休憩にAクラスを訪ねたけれど、薔之院さまは既にどこかへと出て行かれていた。中庭や図書室にも行ってみたけれどいらっしゃらず、当てのないまま校舎内を歩き回る。
十分休憩の時にお話ししたいとお伝えしに行こうともしたけれど、毎回白鴎さまと会話をしていらっしゃってお声を掛けることができなかった。
時間が経てば経つほどに焦燥が募る。サロンに行かれていたら、ファヴォリじゃない私はお会いすることができない。
他に薔之院さまが行かれそうな場所……と考えて、まだ行っていない場所で一つ浮かんだ。
もしそこにもいらっしゃらなければ、後のチャンスは放課後。ご予定があるかもしれないけれど、せめてアポだけは取らさせて頂かなくては……!
そうして私が向かったのは――美術室。
私と薔之院さまが、親交を深めた場所だった。
そっと廊下から教室を覗き込めば果たして、そこにいらっしゃった。廊下には背を向けて座っており、動作的に恐らく何かを描いていらっしゃるようだった。
一度深く深呼吸し、震える手を扉にかけてガララと開ける。音が鳴ったことで彼女も誰かが入室してきたことに気づいて振り向き、入ってきたのが私だと認識して――――目を眇めた。
「共有の特別教室とは言え、先人がいれば声を掛けて入室するのがマナーですわよ」
……冷たい声だった。
微笑みかけても下さらない。当然だ。自分を嵌めた一味として疑われているのだから。
覚悟していたとは言え、実際にそうされると心が委縮する。とても美しいお顔に険が浮かぶと何か言いたくても声が喉に張り付いて、微かな吐息さえ出てこなくなってしまう。
そんな畏怖を感じながらも、けれど自分を奮い立たせるようにグッと手を握り締めた。
「すっ、すみません。あの、私。薔之院さまに、お話を聞いて頂きたくてっ!」
頑張って絞り出すように口から出てきた嘆願の言葉だったが、それが届いても彼女の表情が変わることは一切なく。それどころか。
「お話? 何か私に話すことでもおありですの? もしこれのことでのお話であればよろしいですわよ。ご覧の通り、私の手元にありますので」
これと見えるように示されたそれは、確かにあの日、私が薔之院さまからお預かりしたスケッチブックだった。
本当は私の手からお返しする筈だったもの。その時、感想もお伝えする筈だったのに。
「……私、薔之院さまに謝罪させて頂きたい、ことが」
「何の謝罪ですの? 確か、親交行事の時にも何か謝罪すると言っておられましたわね。結構ですわ」
結構。どっちの、意味だろうか?
緊張して混乱する頭で推し図ろうとしても答えは出てこず、悩んで口籠る私に薔之院さまが続ける。
「貴女からの謝罪は結構だ、と言ったのですわ。謝罪される必要を感じませんもの」
「どういう意味、ですか……?」
「お分かりになりませんの?」
ハァ、と小さく息が吐き出された。
「今回のことでよく分かりましたわ。どんな手段を用いてでも、私を引き摺り落とそうとする生徒がいるということが。……新田さま、貴女もよくご存知ではなくて?」
答えられなかった。
その通りで、だけどそれを肯定してしまうと、私が故意に彼女を嵌めたのだと認めてしまうことになる。それでも何も言わないままだと、状況が悪くなっていくばかりなのはひしひしと感じた。
「知って、いました。けれど私は、薔之院さまと過ごせるお時間が本当に嬉しかったんです。秋苑寺さまから守って頂く延長のことでも、私にとっては何よりも大切な時間だったんです! 今まで薔之院さまにお伝えしたことで嘘なんてありません! あの時の謝罪の言葉は、お預かりしたスケッチブックを失くしてしまったとお伝えしたくて! 私は。私は、薔之院さまをお慕…」
「――新田さま」
必死に届けようとした想いが、固く冷たい呼び声に遮られる。私を見つめる薔之院さまの表情が、あの時からずっと変わらない。
「もう私のところへは、来ないで下さる?」
ひんやりと冷えた手に、心臓がギュッと掴まれたような、そんな気がした。視界がぼやけて滲む。
「……い、やです。だって、私……」
「貴女との時間はその時の私にとっては、確かに心地良いものでしたわ。女生徒に限ってはお友達と呼べる距離でお話ししたことなんて、今までありませんでしたし。短い間でしたが、色々と良い経験になりましたわ。ですから――」
途中僅かに逸れた視線が再びこちらを向いた時には、とても覚えのある視線が私に突き刺さっていた。
『貴女が言いに来ること自体、不愉快ですわ』
「――――もう近くに寄らないで下さいませ。貴女が私の傍にいると、とても。……とても不愉快ですわ」
言葉通りの不機嫌そうな声。
鋭く刺すような目つき。
「……っ」
解ってしまう。
もう私は弁解するのも許されない程、薔之院さまに嫌われてしまっているのだと。
不愉快。きっと私が視界に入るのも、その対象になっている。……なら、早く消えないと。嫌われているんだから早く消えないと、もっと嫌われてしまう。
――いやだ
足が震える。
嗚咽が、涙が零れそうになるのを、我慢する。
――嫌わないで
後ずさりして扉に手を掛けた。
きっと私の声を耳にするのもお嫌だろうから、もう何も紡げない。
――――大好きなのに
ポタッと。
我慢していたのに、溢れた涙が床に落ちた。
それを見てしまった瞬間、私は美術室から脱兎の如く駆け出した。どこに向かって走っているのかなんて意識になかった。
大好きな人に嫌われた。その理解したくもない現実を振り切るように、必死に走り続けて。
「っ!」
「きゃっ……」
誰かにぶつかった衝撃で転び、尻もちをつく。謝罪をしようと顔を上げたら…………尼海堂さまの、驚いた顔がそこにあった。
どうして今、よりにもよってこの人に会ってしまうのか。
立ち上がり小さな声で謝罪して、一人になりたくてまた駆け出す。走って、走って、息が途切れるまで走り続けて足が止まったのは、運動場の片隅。
上履きのままここまで来てしまったけれど、途中でチャイムも聞こえたけれど、そんなもの今の私にとっては全てがどうでもよく思えた。
どの学年もこの時間に体育はないのか、誰も来る気配がない。それをありがたく思いながら、運動場でも校舎側で、植林してある木の根へと腰を降ろして体育座りをする。
「……ひっ、ううぅーー……っ」
腕の中に顔を埋めて、我慢していた嗚咽が零れると同時に、溢れ出る涙。ひっく、ひっくと泣いて、一人きりの世界に閉じこもっていたのに。
「――――新田さん!」
聞き覚えのある、けれど初めて耳にするその人の大きな声に思わず顔を上げる。
すると私と同じように上履きのままで、先程ぶつかってしまった尼海堂さまが、目の前にお立ちになられていたのだった。
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