Episode176 海棠鳳⑤-萌の油断-
窓から差し込む光とともに、開けている箇所から穏やかな風がふわりと白いカーテンを揺らす。キラキラと光がそのお姿を照らし、艶やかな髪と白い肌を煌めかせて、何とも麗しい。真剣な眼差しが私を見つめ、不意に外される時が何度も訪れる。
それを私はドキドキと胸を高鳴らせ、下手をすればニヨニヨしてしまいそうな口元をグッと引き締めて耐え続ける。そんな私の様子に気づいて、苦笑したその人は手にしていたペンを机に置いた。
「今日はここまでにしましょう。新田さま、お疲れ様ですわ」
「はい、薔之院さま!」
ここは美術室。問題の親交行事が差し迫る中、数日前から私はお昼休憩の時だけ恐れ多いことに、薔之院さまの絵のモデルを務めさせて頂くことになっていた。それというのも――。
◇+◇+◇+◇+◇+◇+
いつものように、追い掛けてくる秋苑寺さまから逃げていた。あんな醜態を晒しても運動会では毎年選抜リレーに選ばれている足の速さで廊下を走ることはできなくても、他の生徒からは追いつけない競歩の速度で歩いている。……それなのに!
秋苑寺さまは普通に歩いている風なのに、笑いながら追ってくるその距離が開くどころか、だんだん縮まっていくのはどうしてなの!? 怖い!!
追ってくる人が人なために城山さま派の動向を中々スパイしに行けず、日々秋苑寺さまから追われる恐怖に晒される日々だった。
けれどそんな日々も、ある日唐突に終了することになる。「新田さーん」と呼ばれながら心の中で悲鳴を上げて、最早避難所となっている女子トイレにいつものようにパッと逃げ込んだら――
「新田さま?」
「しょ、薔之院さま!?」
――そこには私が憧れてやまず、どうにかして守らなければならない御方、薔之院 麗花さまがいらっしゃったのだ!
慌てて駆け込んだせいか、洗面台の前にいらっしゃった彼女は不思議そうなお顔で私を見つめている。
「大丈夫ですの? 個室は私以外におりませんので、どこでも空いておりましてよ」
何てこと! 憧れの御方に駆け込みトイレと勘違いされてしまった!
「ち、違います! 秋苑寺さまに追い掛けられてトイレに逃げ込んだだけなんです!」
「――何ですって?」
羞恥で顔が熱くなりながらよく内容を考えずに本当のことを口走ってしまったそれは、薔之院さまのお顔を盛大に歪ませた。
そしてスンッとした表情に変わって、そっと手を取り柔らかに繋がれ、その突然の接触にギョッとする。
「ひょ!?」
「あんなのでもファヴォリで、新田さまからすれば断りにくい相手ですものね。分かりましたわ。新田さまに代わりこの私が学院の風紀を正すべく、あの男を成敗して差し上げますわ!」
「えっ」
瞳に炎をメラつかせているのを見て、自分が何を言ったかとハッとして青褪めるも時すでに遅く。訂正して止める間もなく手を引かれるままに、薔之院さまがカチャと女子トイレの扉を開けるのを、ただただ見つめるしかなかった。
「……秋苑寺さま」
「ん? あ。げっ」
私の位置からでは秋苑寺さまのお姿は薔之院さまに隠れていて、声しか聞こえなかった。
「やっほー薔之院さん! あはは、トイレ入ってたんだね!」
「取り繕うのが遅いしセクハラ発言ですわ! 貴方、女子を追い掛け回した挙句、女子トイレの前で待ち伏せだなんて一体どういう了見ですの!? トイレまで追い掛けてきて女子を怯えさせるだなんて! とんだ変態でしたのね! 低脳で変態とか救いようがなくてよ!!」
「待ってマジでひっどい誤解受けてる!!」
「どこが誤解ですの! この状況全てが貴方を変態だと指しておりますわ! ……見直そうと思っておりましたのに。貴方とのお友達(仮)関係も、少し考えさせて頂きますわ」
「え!?」
「新田さま。変態なんて放置して行きますわよ」
「え、えっと……ひっ!」
口を挟む間もなく歩き出された薔之院さまに連れられオロオロとするけれど、後ろを付いてくる秋苑寺さまに気づいて条件反射でビクッとしてしまう。私の声に反応して薔之院さまも振り返り、後ろにいる人を見て眦が吊り上がった。
「ちょっと! 変態は付いてくるんじゃありませんわ!!」
「だから誤解だって! ちょっと事情がさー」
「あっ」
前方から歩いて来る人物に気づいて声を上げたらお二人も気づいたし、向こうも私達に気がつかれた。腕に筆記用具と教材を抱えられていて、休憩後の授業は移動教室であることが分かる。
「晃星。薔之院」
艶やかな黒髪をサラリと揺らし、男女ともに目に毒なお顔がこっちに向かって近づいてくる。
「あまり良くなさそうな雰囲気だが。どうかしたのか?」
「白鴎さま! 従兄弟の手綱はしっかりと握り締めておいてもらわないと困りましてよ!」
「げっ。だから違…」
「この人が! こちらの嫌がる女生徒を追い掛け回して! 女子トイレの前で待ち伏せしていたのですわ!! 私が中に入っておりましたから良かったものの、そうでなければどうなっていたことか!!」
ビシッビシッと指を突きつけて訴える薔之院さまのお言葉を耳にされた白鴎さまが、スッと目を細めて秋苑寺さまを見遣る。
「晃星、お前……いつからそんな変態に。伯父さんが泣くぞ!」
「違うっつーの!!」
反論する秋苑寺さまを無視して、麗しいお顔が私を向いた。
「晃星がすまないことをした。二度とそんな犯罪まがいなことをさせないよう、暫く俺が責任を持ってコイツを監視しておく」
「え!? いえあの……」
まさかそんなことを白鴎さまにさせる訳には!と一瞬否定しようとしたものの、ハッとした。
……待って? 秋苑寺さまが動けなくなるのなら、これでスパイ活動に専念できるのでは。
「はい、すみません。ありがとうございます!」
「ごめん新田さん。お願いだから変態だけは否定してくれないかな!?」
「お黙り変態」
「黙れ変態」
「マジで詩月にだけはそれ言われたくねーわ! いてっ!?」
スパンッと白鴎さまが秋苑寺さまの頭を叩いている隙に、薔之院さまに手を引かれてその場を後にする。
通りかかった生徒たちが何事かとお二人に視線を向けている中、私達に注目する人はいなくて暫くそのまま歩き続けた。
というか。普通にお返事とかしちゃったけど、私、あの白鴎さまとも直接お話してしまった! ファヴォリでもトップの方達の中に私いた! 怒涛の展開で、台風みたいに目まぐるしかったけど!
「新田さま」
「はいっ」
ハッと意識を戻すと、いつの間にやら非常口まで連れてこられていた。え、何でここに?
「無理に連れてきてしまって申し訳ありませんわ。ここならあまり人は来ませんし、差し障りないかと思いましたの」
「えっ。薔之院さまが謝られることなんて何も! むしろ助けて頂いて……差し障り?」
着いた時点で放されていた手をとんでもないとパタパタ振って、けれど妙な発言に首を傾げる。そんな私に薔之院さまはパチリと瞬きをして、苦笑された。
「新田さまは城山さまと仲がよろしいでしょう? 女子の派閥は一応私も把握しておりましてよ。ですから私といるのが彼女の派閥の誰かに目撃されて、変な誤解が生まれないかと思いましたの」
言われてハッとする。
お守りするどころか私が助けられた上に、気を遣わせてしまっている! ……ん? あれ? ちょっと待って、薔之院さまにまで私が城山派閥だと思われている!? 周りからも友達だからと勝手に派閥の人間扱いされているけれど、私は初めからどこの派閥に属しているつもりもなかったし、更に言えばもう隠れ薔之院派なのに!
普段の学院生活だって、別に城山さまを中心にしている訳じゃない。城山派じゃない子と行動することだって多いのに。
城山さまに対する気持ちが離れかけているせいか、薔之院さまにまでそう思われていることが何だかとても嫌だった。
「私、あの。城山さまとはお友達ですけれど、派閥というグループ分けでは違います!」
「え? ……そうでしたの?」
「はい!」
私は隠れ薔之院派です! 中條さまに引き込まれた赤薔薇親衛隊員です! ご本人の前でそんなことはとても言えないけれど!
と、秋苑寺さまから守って頂いたことのお礼がまだ途中だったことに気づく。
「薔之院さま、ありがとうございました! 秋苑寺さまから守って頂いて」
「お礼なんてよろしいですわ。女子トイレの前で待ち伏せだなんて、明らかなセクハラですもの! 言い訳も見苦しくて、二の句が継げませんでしたわ。事情がどうとか言っておりましたけど、あんなセクハラ行為に正当性なんてなくてよ!」
プリプリされる薔之院さまのお言葉を聞いて目が遠くなる。
私は尼海堂さまじゃないからチクらない。尼海堂さまがスパイ活動を妨害するのに秋苑寺さまをけしかけたなんて、絶対にチクらない。
……あの時は何かドキドキと心臓がうるさくて、顔も熱くなっちゃったし恥ずかしくなって逃げちゃったけど、後からあれは一種のつり橋効果なんじゃないかと考え直した。
うん、絶対違う。だって私は男子で言うと春日井さま派だし、尼海堂さまなんて春日井さまと全然違う。そりゃ椅子と一緒に後ろに倒れかけたらドキドキするし、男の子とあんなに近づいたのも初めてだし。尼海堂さまも顔は……お綺麗だし。
それに怖いもの。いなかったのに、いきなり現れるとか。気づかない間に見られている可能性とか。
チラリと薔之院さまを見たら、口許に手を当てられて何事かを考えていらっしゃる。どうしようか迷ったけれど、勇気を出して口を開いた。
「すみません、薔之院さま。えっと、お聞きしたいことがあるのですけれど、よろしいでしょうか?」
口許から手が離され、小首を傾げられる。
「私が答えられることでしたら」
「あの、尼海堂さまのこと、なんですけれど」
「忍?」
意外、という顔をされて、すぐに納得されたように「ああ」と。
「忍のことが気になりますの? 新田さま、よく忍のことを見つめていらっしゃいますものね」
「え?」
「忍の方は……あら、私が口にするのは野暮かしら? まぁ、こういうことは相手側の一番身近な人間に聞きたいものですわよね。そうですわね、私が一番忍の身近にいるお友達ですものね!」
何故か頬を染められて嬉しそうなお顔をされていらっしゃいますけれど。とてもお可愛らしいけれど。とてつもなく珍妙な勘違いをされていらっしゃる……?
私がよく見惚れているのは貴女ですよ!? えっ、何で? 私、いつも怖くて飛び退いているのに何でそんな風に見られているの!? 待って薔之院さまが私のことを認識されていた!? 嬉し恥ずかしい!!
心の中で大騒ぎしていたら追撃がくる。
「新田さま、いつも恥ずかしがって逃げておられましたもの。ええ、ええ! 忍の一番身近なお友達の私で良ければ、何でもお答えしますわ!」
違うううぅぅぅ!!
キラキラのお目めが眩しいいぃぃ!!
本当はいつも尼海堂さまと何をお話しされているんですか?ってお聞きしたかったのに、何かまた誤解が加速しそうな気がして聞けなくなった!!
「やっぱりいいです……すみません……」
「あら、そうですの? 残念ですわ……あ、そうですわ」
少し残念そうなお顔をされて、けれどすぐにお言葉が続く。
「先程考えておりましたのだけど。新田さま。お昼休憩の時間は、私の絵のモデルになって下さらない?」
「えっ?」
「後ほど白鴎さまともご相談して、あの変態に対する防衛策を練ろうと思いますの。同じクラスなのはどうにもできませんが、私とともにいれば一先ずは秋苑寺さまからの虫除けになれましてよ! それに風景画ばかりでなく、そろそろ人物画にも挑戦してみたいと思っておりましたの。どうかしら?」
薔之院さまを虫除け扱いとか、何て恐れ多いご提案をなさるの。薔之院さまの絵のモデルとか、何て誘惑大なご提案をなさるの。
中條さまと城山さまのお顔がチラと頭を掠めたが、薔之院さまを見つめて見惚れていても許される正当な理由の前では、砂が風に流されるようにサアァァーと薄れていった。それに遠くよりも近くにいた方がお守りできるかもだし!
――そういう訳で、私は暫く薔之院さまの絵のモデルを務めさせて頂くことになったのだ。
◇+◇+◇+◇+◇+◇+
お昼休憩にCクラスへ薔之院さまと白鴎さまが連れ立って来られるようになって、秋苑寺さまに追い掛けられることはなくなった。そして私は薔之院さまの後ろを付いて歩き、美術室へと向かうことが最近のルーティーンと化している。
中條さまにはあれでも抜け駆けのように思われてはいけないため、ちゃんと事情を説明したら理解して下さった。
『そうですわね……。私も秋苑寺さまの行動はさすがにアレだと思っておりましたし、さすが薔之院さまですわ。新田さんなら尼海堂くんの時のような衝動も起きませんので、大丈夫です』
何の衝動なのかは良く分からなかったけれど、無事にお許しも頂けたのである。
「今日はここまでにしましょう。新田さま、お疲れ様ですわ」
「はい、薔之院さま!」
そう声を掛けられて、椅子などを戻すのをお手伝いする。今日で絵のモデルも四回目。私、どんな感じになっているんだろう?
ガタリと元の場所に戻して、開けていた窓も閉める。ああ、今日も良い天気だわ……。
「新田さま」
呼び掛けに振り向くと、ノートサイズのスケッチブックと筆記用具を胸の前で抱えられた薔之院さまがお近くにいらっしゃる。そして彼女は微笑んで、何故かスケッチブックを私へと差し出してきた。
「気になりますわよね? どうぞご覧になって」
「え。よ、よろしいんですか?」
「ええ」
まさか見せてもらえるなんて思っていなくて、恐る恐る受け取って白紙のページから捲る。
「わぁ……!」
そして最新のページに至り一目見て、無意識に感嘆の声が自然と出ていた。
全体じゃなくて上半身のみだったけれど、とてもお上手だった。髪の毛やまつ毛なんかも、すごく丁寧に描かれていて、細部まで濃淡の差があって立体的に見える。私は絶対ここまで描けない!
「すごい! すごいです薔之院さま!」
高揚のあまり語彙力のない感想しか口から出てこなかったけれど、薔之院さまはとても嬉しそうに笑んで下さった。
「そんなにですの? まだ完成してはおりませんのよ?」
「えっ、これで? そうなんですか!?」
「ふふっ。今まで学院では忍にしか見せる人がいなかったから、とても新鮮ですわ。……そうですわ。新田さまさえよろしければ、他の絵の感想も聞かせて下さるかしら? お家に持ち帰られてよろしいですわよ」
また衝撃的な提案をされて目を剥きそうになる。
なっ、何か、ツキ過ぎている気がする!
私大丈夫かな!? これ夢じゃないよね!?
けれどせっかくのご提案で、私にとったら願ってもないことで。だから本当は令嬢らしく控えめに微笑まなければならなかったのだけれど、私は満面の笑みで「はいっ!」と元気に返事をしたのだ。
――――その様子を、美術室の外廊下から見ている生徒がいるとは知らずに。
そしてこれは、親交行事の前日の出来事だった。
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