Episode138.5 side 水島 美織の悔恨② 聞こえなくなった音

 言いたくなくて、でも言わなきゃどんな目に遭わされるのかが、分かっていたから。


 微笑みながら、辛抱強く待ってくれている百合宮さまに。こんな私を白けた目で見ずに、ずっと待ってくれている彼女に。


「あの、あのっ。い、一緒に、庭園に行きませんか!」

「庭園、ですか?」


 小首を傾げる、そんな仕草もとても可愛らしくて。


「私でよろしいのですか?」

「ゆ、百合宮さまじゃないと、ダメなんですっ!」


 お兄ちゃんが握手を求めたから。

 指定される子は、お兄ちゃんが握手をした子。


 ――断って


 断ってと念じながら待ったけれど、彼女は了承してしまった。断られる訳がなかった。


 だって彼女は、優しい子だから。

 こんな私を受け入れてしまった。


 庭園に向けて一緒に歩いている中でも、優しい百合宮さまは色々と私に話し掛けてくれた。

 罪悪感と恐れで意識散漫になっていて、まともな返事も碌に返せなかったけれど、それでも百合宮さまはずっと微笑んでくれていた。


「……あら? 水島さま、この先は私達だけでは遠慮した方がいいと思います」


 その言葉に、いつの間にかあの迷路まで来ていたと気づく。来過ぎていて、意識せずともここに来るようになってしまっている。

 百合宮さまに戻ろうと促されるけど、縫い付けたように足が動かない。


 ここまで来た。ここまで来てしまった。

 あとは、迷路に入るだけ。



『次は、ないよ?』



 グッと拳を握りしめる。


「わ、私、百合宮さまとふ、二人だけで、お話ししたいです。ここ、誰も来ませんっ」


 どう受け取られたのか。

 百合宮さまは嬉しいと言った。そしてお兄ちゃんと仲が良いのだと言われる。


 違う。もう解っている。

 お兄ちゃんは私のこと、ただの道具としか思っていない。


 結局迷路の中を案内することになって、安堵と絶望が綯い交ぜになったような気持ちになる。足を踏み入れてしまって、もう戻れないと、何も考えられなくなる。


 だからなのか、百合宮さまの質問にも、口から勝手にスラスラと言葉が出始めた。そして話の流れで誕生日の話になった時。


「二月……。いいですね」


 誕生月を答えて、そう頷いて言われたことを疑問に思う。


 誕生日パーティ。水島の跡取りであるお兄ちゃんのパーティは盛大に催すけれど、私にはそんなものただの一度として催されたことも、お兄ちゃんにもお父さんにも祝われたことはない。


 それどころか、私に誕生日があることさえ忘れているのだろう。私のことを祝ってくれる人なんて、お母さんくらいしか。



『美織。お誕生日おめでとう。……ごめんね、こんな家の子どもとして産んでしまって。女の子に、産んでしまって』



 ……祝うどころか、産んだことを謝られてしまう、そんな日なのに。

 

 だから思わず聞いてしまった。


「どうして、いいんですか? 何もない、寂しい月です」


 すると、彼女は。


「寂しい? 私はそうは思いません。だって五月って、色々記念日が重なっているじゃないですか。ゴールデンウィークだって憲法記念日・みどりの日・こどもの日って三つもあるんですよ。連休があるのは嬉しいですけど、外出がどうだのあれしようだのって、何か忙しいのですもの。何で連休って出掛けたくなるんでしょうね? それに比べたら二月にも祝日とかイベントありますけど、でも何か比較的落ち着いた月じゃないですか。それって、ゆっくり自分の誕生日だけを考えてもらえる、特別な月って感じがしませんか? いえ、まぁ五月も五月で楽しいことがいっぱいって考えたら、それはそれで良い月だと思いますけど…………あれ?」


 呆然としてしまう。


 ゆっくり自分の誕生日だけを考えてもらえる、特別な月。考えてもらえない。私の誕生日なんて。


「……私、そんな風に思ったこと、ありません。自分だけの、特別な月だなんて……」

「個人の感性によりますから。でも、水島さまも同じように思って下さったら嬉しいです」


 分かる。


 百合宮さまは家族に愛されて、大切にされている子なのだと。――私と違って。


 そうでなければそんな考えにならない。

 同じようになんて、思えない!


「め、迷路の奥っ、噴水があってき、きれいなんです! 行きましょうっ」

「あ、水島さま!?」


 それはどういう感情だったのか、モヤがかった思考の中では名前なんてつけられなくて。

 衝動的に先へと足を進めると、百合宮さまも慌てたように付いてくる。


 何もかもが違う。私と百合宮さまは。

 どうして私が、私だけがこんなに……っ!


「えっと、二月は予定を空けておきますので、水島さまのお誕生日会にご招待いただけると嬉しいです」


 ――明るい声に、頭から冷水を浴びせられた。



 どうして。優しい子だって、知っていたのに。

 ……どうして私は!


「……誘っても、もう来ていただけません……っ!」



 違って当然だ。

 百合宮さまは純粋で、きれいで。どうなるか知っていて案内する私は、こんなにも汚くて。


 ダメだ。ダメ。ダメ、ダメダメダメ戻らなきゃ。

 触らせちゃいけない。私達みたいに、汚い手をしている人間が触っていい子じゃない!


 戻らなきゃ。家に帰さなきゃ!

 今ならまだ……!


 ……ここまで来ておいて、引き返せる筈がなかったのに。



「美織」



 あ。


 あ、あ。


 あああああああああああ!!



「やっぱりここに来てたんだね。美織、お父さんが呼んでいたよ? 早く戻らないと」

「あら、でしたら早く戻りましょう。お話しはまた戻ってからしませんか?」


 お父さんが呼んでいる。


 違う。

 

 違う、違う、違う違う違う違う違う違う違う!!


「……っ。ゆ、百合宮さまっ」


 ダメなの。ダメ、百合宮さまだけは。

 触らないで。汚い手で触らないで!!


「美織、一人で戻れるよね?」

「お、おにいっ……」


 反抗の意思を感じ取ったお兄ちゃんが、目を細めて私を見てくる。百合宮さまも戸惑いながら、一緒に戻ろうと言ってくれる。


 それなのに。


 それなのに……!


「せっかく美織がここまで案内したんだ。噴水のあるところまではあと少しだから、続きは僕が案内するよ。とてもきれいだから花蓮ちゃんにも見せたいんだ。……美織。何回も来ているから、


 何度も。

 何度も言われた言葉が。

 

 分かるよね、が。


 洗脳のように、生まれた反抗心と懇願を粉々に壊していく。



 お母さんの泣き声と悲鳴が聞こえてくる。

 物が何かにぶつかる音、割れる音。色んな音。



『美織。お誕生日おめでとう。……ごめんね、こんな家の子どもとして産んでしまって。女の子に、産んでしまって』


『せっかく可愛がってあげているのに。お母さんのようになりたいの?』



 いやだ。いやなの。

 やめて。もうやめてよ……!


 触らないで。汚さないで。

 同じように汚れてる私なら、いくらでも触っていいから……。


「水島さま? 私、大丈夫ですよ? 戻ったら、また二人でお話ししましょう?」


 百合宮さまが、とても美しく笑う。



 ――心が、砕けていく



「ごめっ、ごめんなさい……!!」



 私を呼ぶ百合宮さまの声が遠くなる。


 何で。

 何で、何で、何で何で何で何で何で何で!!!


 どうして私だけ引き返してる! 何で置き去りにしてる! 分かっているのに! 知っているのに!


 汚い。何で私はこんなに、汚い……!!







 どこか壊れたまま、いつの間にか会場へと戻って来ていた。


 もう、何も聞こえない。何も。


 いつものようにお父さんのところへと行くこともなく、ただただ人が動いているだけのどうでもいい景色を眺めていたら。


「――あの」


 話し掛けられた気がして顔を向ける。


 誰かを捉えて、誰かを認識した瞬間に、壊れた心の欠片が微かに音を立てた。


「俺とずっと一緒にいたご令嬢って、今どこにいる? 水島さんと一緒に移動していたの見ていたから、話し掛けたんだけどさ」


 目の前に立つ男の子は、百合宮さまと一緒に笑っていた彼。優しくて、きれいな、百合宮さまと。


「……うっ」

「え? ちょ、どうした!?」


 震える指を来た先へと向ける。


 言わなきゃいけないのに。

 百合宮さまのことを思うだけで気持ちがグチャグチャで、何も喋れない。涙を流す資格もないのに。


 でも、私には、こうすることしか。


 けれど彼はそれだけで何かを感じ取ったようで。


「庭園の方にいるのか?」


 頷く。


「……兄貴がいないの、関係あるか?」


 強く頷く。


 それだけ聞いて、男の子はすぐに駆け出して行った。


 お願い。早く。早く行って。助けて。

 百合宮さま。百合宮さま……!!


 泣き続けてその場から動かない私を、周囲の人達が困惑したように見つめていることも、外聞を気にするお父さんが慌てて回収に来たことも、ただただ彼女の無事を願っていた私の意識にはなかった。





◇+◇+◇+◇+◇+◇+





 後日、水島で一番権限を持っているお祖父さまより、お兄ちゃんと私は催会の参加を控えるようにと厳命が下った。

 それだけで間に合わなかったのかと、目の前が暗くなる。


「邪魔が入ったけど、花蓮ちゃん、可愛かったよ」


 耳元でそうわざわざ報告してきたお兄ちゃんの顔を、感情なく見上げる。


 反抗を見せたことで何かされるかと思ったけど、機嫌の良いお兄ちゃんには道具の反抗なんて気にする価値もないのか、そのことについて触れられることはなかった。

 そしてあの薄汚い建物と敷地は、水島の所有ではなく百合宮のものになったとも聞いて、空虚な気持ちになった。……もう、あそこに行くことはない。


 結局、百合宮さまは汚い手に触られた。

 汚されてしまった。


 家族に大切にされていると思っていた。

 それなのに、ただあの場所を買い取っただけ? 他には? 他には何もないの?


 一緒なの? どうでもいいの? あの可愛くて純粋できれいだった百合宮さまも道具なの?


 報復されない。水島よりも高位家格なのに、何も。

 何も起きない。何も起きない!


 壊れない。壊されない。今まで通り。


「ふっ、ふふ! ふふふふふ!!」



 ――――女の子はただの、道具





◇+◇+◇+◇+◇+◇+





 催会に出ることのなくなったお兄ちゃんが、何をしているのかなんて知らない。薄汚い場所がなくなったと同時に、道具の価値もなくなったらしい。


 声を掛けられることもなくなった。

 家ではお母さんと二人、息を潜めて暮らすだけ。


 壊れた欠片が戻ることはなく、どこかおかしくなってしまった私を、お母さんは心配そうに見つめている。けれど、ただ一人だけ。


 私が普通に、息を吸うことができる子がいる。




「萌ちゃん」

「どうしたの? 美織ちゃん」


 中々来ないから迎えに来たら、首を傾げて問い返された。

 苦笑して約束のことを話すと、慌てて謝って来る。


 萌ちゃん、結構抜けてるところがあるから……。


 そしてやっぱり諦めきれないのか、遊ぶ場所も催会のことも確認されてしまう。


 ごめんね。絶対絶対、萌ちゃんだけはきれいなままでいてほしいの。


 それ以上突っ込まれたくなくて、皆の話題になっていることを話すと、何故かビクッとする萌ちゃん。


 運動会の時も、こけたのを助けに行けなかった。

 だって私が行くと、私の大切にしているものがお兄ちゃんにバレてしまう。


 薔之院さまのことが苦手そうだったのに、あの一件で助けられた彼女は、薔之院さまのことをすごく心配していた。

 処分が軽いもので済んだと知って、ホッと安堵している。悪いことをしていないのに罰が下るのはおかしいと、間違っていると言う。


 そうだね。萌ちゃんの言う通りなのにね。

 汚い私はいつ罰を受けるんだろうね。待っている。ずっと。


 壊して。こんな汚い道具。

 存在する価値もない。


「萌ちゃんは春日井さまも、ね」

「えっ。そ、それを言ったら美織ちゃんも白鴎さまも、でしょ!?」

「う、うん」

「ね。先月の水島家のパーティ、白鴎さまもご参加されたのよね? お話しした? 進展とか」


 私が白鴎さまを気にしていることを、純粋な萌ちゃんは私が彼に恋をしていると思っている。



 ――違うのに


 あんな家庭環境で暮らしている私が、どうして男の子なんか好きになれる?



 あのパーティで白鴎さまが百合宮さまに向けて、微笑まれていたから。だから気にしているの。百合宮さまと唯一、繋がりがある人だから。


 どうなさっているのか。

 汚されてしまった彼女は、私のように壊れてはいないかと。


 面識がある白鴎さまでさえ、動かれる気配がない。

 動いてくれたのは、あの男の子だけ。


 そんなことを思いながら、表面上は萌ちゃんのからかいに対して。ごめんね、萌ちゃん。


 ――本当にこれが怒りの感情なのかも、もうよく判らないの



 突然現れたとしか思えない見知らぬ男の子に声を掛けられて、思わず萌ちゃんの背中に隠れてしまう。

 驚きながらも萌ちゃんが声を掛けて、その子の視線が私を見た時、その静か過ぎる眼差しが、何かを暴こうとしているような気になった。


 萌ちゃんに用があると言っている。

 でも、男の子と二人にして大丈夫なのか。


 先に帰っていてと言われ、それをよしとせずにオドオドする振りをして男の子の方を見るけれど、彼からはお兄ちゃんのような嫌な感じはしなかった。


 私がここにいても進まない。

 多分、この子は萌ちゃんを汚さない。

 

 何となく、この子はあの男の子のように動いてくれる、だと思ったから。





◇+◇+◇+◇+◇+◇+





 それから四年後。


 相も変わらずオドオド人見知りする振りをして、萌ちゃん以外に大切なものがないまま過ごしていた。

 家で息を潜めるように、お兄ちゃんに話し掛けられず見向きもされないままに。


 いつ、罰は下されるのだろうかと待っていたのに。



「美織」



 まさか、また道具としての価値が見出されたなんて思わず。

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