Episode138.5 side 水島 美織の悔恨① 信じていたものは
※こちらのside話は内容が内容なので、全話かなりシリアスくん出ずっぱりです。
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ずっと、ずっと怖かった。
見えないところで、お母さんの泣き声と悲鳴が聞こえてくる。
物が何かにぶつかる音、割れる音。色んな音が。
部屋の隅で縮こまって震えていると、いつの間にか温かい何かが私を包んでくれて、音を遠ざけるようにしてくれていた。
頭を撫でてくれて。抱き締めてくれて。
この温もりに触れている時だけは、すごく安心できた。
「美織」
そっと見上げれば、薄く笑っているお兄ちゃんの顔がある。
何も知らない私はそんなお兄ちゃんの顔が、優しさで溢れているものだと、微塵も疑っていなかった。
◇+◇+◇+◇+◇+◇+
お祖母ちゃんは病弱が祟って私が生まれる前には既におらず、お母さんはお父さんに言われていつも家にお留守番。
私はいつもお兄ちゃんに連れられて、たまに来る建物へと足を運ばされる。
私と同じくらいの歳の子たちも中には参加していて、けれど皆の輪の中にいきなり入っていくのは恥ずかしくて戸惑っていたら。
「行っておいで」
優しく、そっと耳元で囁いてくれたお兄ちゃんの言葉に背を押されて、勇気を出して話し掛けに行けた。
中々上手く話せない私に離れて行っちゃう子もいたけれど、仲良くなってくれる子もいた。その子と一緒に建物の外にあるお庭で遊んでいると、お兄ちゃんがやって来て。
「あそこ」
指を差された方を見ると、木じゃないけど葉っぱがたくさんある長く大きな塊があった。
「低木を整えてああいう形にしてあるんだ。あそこはね、迷路って言って、ちょっとした道になっているんだよ。迷っちゃうかもしれないけど、覚えたらすぐに抜け出せるんだ。迷路の中心には噴水があってね、きれいなんだよ」
「ふんすい?」
「うん。一緒に行ってみようか?」
「うん!」
お兄ちゃんと一緒なら、どこに行ったって大丈夫。
遊んでいた友達になった子と別れて、お兄ちゃんと手を繋いで迷路に入り、道を歩いて行く。
「美織。ちゃんと覚えてね?」
「うん」
お兄ちゃんが言うのなら、覚えなくちゃ。
時折覚えやすいようにちょっとした目印も教えてくれて、すぐに覚えられそうだった。そうして辿り着いた噴水のある場所は、本当にとても美しくて。
「お兄ちゃんすごい! きれいね!」
「そうだね」
笑顔で手を引っ張りながら言えば、お兄ちゃんもまた笑って頭を撫でてくれる。
「美織。ここまでの道、覚えた?」
「たぶん?」
「そう。じゃあ一人で元の場所に帰ってみてくれる?」
「え?」
手を離されてその場に座るお兄ちゃんに、キョトンとする。
どうして?
お兄ちゃん、一緒に戻ってくれないの?
「美織に友達ができて、僕が一緒に行けない時もあるだろう? これは美織が一人で案内するための練習だから」
そう言われたら納得した。
そっか。お兄ちゃん、私のためにしてくれたんだ。
なら一人で頑張らないと。
お部屋でお兄ちゃんが間違い探しの本で一緒に遊んでくれていたから、本当に目印の場所も覚えていて、一人でちゃんと元の出口(入口?)に帰ってこれた。
ちゃんとできた!
お兄ちゃん、褒めてくれるかな?
そう思ってワクワクして待っていると、さっき遊んでいた子が来てくれた。
「みおりちゃん! めいろ、どうだった?」
「もえちゃん。うん、ふんすいきれいだったよ!」
「そっかぁ!」
ニコニコして噴水を見た感想を言っている間に、お兄ちゃんも戻って来た。そしてやって来て頭を撫でてくれる。
「ちゃんと戻れたんだね。美織、偉いね」
「えへへ」
お友達もできて、お兄ちゃんにも褒められて。
初めてその迷路に入った日のことは、とても嬉しかったのを覚えている。
だけどまだそれは四、五歳の頃で、後から聞けば萌ちゃんはお兄ちゃんに会ったことは、覚えていなかったけれど。
◇+◇+◇+◇+◇+◇+
どうしてなのか、仲良くなったと思った子が次の時に来てくれない。「一緒に行ってきたら?」と言うお兄ちゃんの言葉に乗っかって、迷路に入って噴水まで案内した子は、必ず。
そして何故か噴水まで来た時か、その途中でお兄ちゃんがやって来る。そして必ず言われるのだ、「お父さんが呼んでいるよ」って。
言われた通りに引き返して、お兄ちゃんが言っていたのだからと苦手なお父さんのところに行けば、確かに何か用事を言われる。
そうして過ごして、パーティが終わる頃には、迷路に案内した子はいなくなっていた。
そのことを不思議に思って、迷路に案内した子はいったいどこへ行くのかと、その場に隠れて残った日。
初めて私は、そのことを知った。
お兄ちゃんが、その子に抱きついて触っている。
撫でて、口付けたりしている。
けれど私は不思議だった。
どうしてあの子は嫌そうなんだろう? だって私はお兄ちゃんにそうされると、安心するのに。
見つめていて、でもその子が泣き始めた時、何かがザワつくのを感じた。
私は嬉しいけど、そうじゃない子もいる?
だって、そうじゃなきゃ泣いたりしない……。
泣くで思い出す。
お母さんの泣き声と、悲鳴。
「あ……」
待って。待って。違う。
お兄ちゃんはお父さんじゃない。だって、お兄ちゃんは怖いことなんてしない。
じゃあ、何であの子は泣いているの?
嫌がっているの?
――どうしてお母さんと、重なるの……?
呼吸を止めて、いつの間にか座り込んでいた。
走り去る音も耳に入らず、ただ両耳を押さえて縮こまっていると。
「美織」
俯いた視界の中に、見覚えのある靴が入ってくる。
固まって動けない。
どうしよう。
大丈夫。お兄ちゃんなら、お兄ちゃんならいつものように頭を撫でてくれる。抱き締めてくれる。
……そう、信じていたのに。
「美織」
両手を耳から剥がされて、ただただ平淡な声が降ってくる。
「僕の言うこと、聞かなかったの?」
優しい声じゃない。
痛いくらい、腕を掴まれている。
「せっかく可愛がってあげているのに。お母さんのようになりたいの?」
「……!」
勢いよく上げた顔が見たその顔は、薄く笑っていて。
私を安心させてくれる、優しさに溢れた、その顔で。
そう思っていた、顔で。
「おに、ちゃ」
「僕の言うことを聞いていれば良いんだよ。そうしていたら、ずっと可愛がってあげるから」
「……でも。あの子、泣いて」
「美織」
温度のない声に、頬を張られたような気さえした。
「美織は僕の言うことを聞かない、悪い子なの?」
瞬間、首が取れそうなほどにブンブンと横に振る。振り続ける。涙が零れ落ちても、お兄ちゃんは抱き締めてくれない。
「じゃあ、分かるよね? 美織」
分かるよね、と。
目の前がグルグルする中で聞いたその言葉は、まるで悪魔の囁きのようだった。
私が知ってしまった日から、お兄ちゃんは誰をあの噴水まで連れていくのか、指定するようになった。
逆らってしまったら、私もお母さんのような目に遭わされる。そう思うと、怖くても、言うことを聞くしかなかった。
けれど唯一の抵抗として、最初にお友達になってくれた子――新田 萌ちゃんだけは絶対にそんな目には遭わせないと、家にも催会にも招待しなかった。
来たそうな素振りは感じるけれど、絶対絶対にダメだった。萌ちゃんまでいなくなってしまったら、私には何も残らなくなってしまう。
あの日は私も初めて迷路に入った日だから、お兄ちゃんは私に道を覚えさせることを優先したのだと、今なら分かる。
こんな人見知りで、上手く話せないような私と仲良くなってくれる子達に申し訳なくて、お兄ちゃんに逆らう勇気のない自分がひどく汚くて、感情が麻痺しそうになっていた。
そんな中で小学一年生の夏、私は最大の過ちを犯してしまう。
◇+◇+◇+◇+◇+◇+
「百合宮の娘の花蓮と申します。水島さま。この度は、おめでとうございます」
見たことがないような、とても。
とっても可愛い私と同じ年の女の子。
百合宮家というとすぐに思い浮かぶのは、私も通う学院の先輩で、特権階級のファヴォリにも所属されている百合宮 奏多さま。それにお家も私の家とは比べ物にもならないほど古くて、大きなお家。
私と全然違う。
歩き方も、頭の下げ方一つ取ったって。
お祖父様に促されて緊張しながら挨拶をすれば、その子――百合宮さまはそんな私にも、にっこりと微笑んで。
「大人の方がいっぱいですもの。失敗しないようにしないとって、緊張しますよね」
そんなことを言ってくれた。
家格が上の子ほど自分に自信のある子が多くて、上流階級でもオドオドとしている私に、そんな子達は白けた目を向けてくる。
でも、この子は全然そんなことなくて。
私に掛けてくれた言葉だけで、優しい子だってことが分かった。だけど。
「う、ごほん! で、美織が隠れているのが我が水島家の、時期跡取りで長男です!」
「水島 淳です。小学三年生なので、花蓮ちゃんの二歳上だよ」
そう言って、お兄ちゃんが握手をするために手を差し出した瞬間、ガツンと、頭が殴られたような衝撃が襲った。
何で。どうして。
だって今までは、私達の家よりも家格が低い家の子しか。
信じられない思いで、お兄ちゃんと百合宮さまが握手を交わすのを凝視してしまう。
うそ。うそうそうそうそ……!
何で。何で!? どうして……!!
百合宮家のお二人が下がって少しして、お兄ちゃんが耳元に囁いてくる。
「美織。分かるよね?」
きっと私の顔色は真っ青になっている。
見上げたお兄ちゃんの顔は、薄く微笑んでいた。
会場で、ずっと百合宮さまの動向を見守っていた。
彼女はずっと、今日のパーティで白鴎さまと同じくらい話題に上がっている男の子と一緒にいる。
彼はお兄ちゃんと同じ学年の、水島よりもずっと大きな家の子だと言う。その家の、次男だと。
でも聖天学院じゃない。
それは百合宮さまも同じ。今までその存在さえ知らなかった二人が、一緒に。
楽しそうなその様子は、遠目から見ても分かるほどで。他の、親に付いて来ている子達も気にして、チラチラと見ている。
けれど話し掛けに行けないのは、とてもあの二人がお似合いだからで。
このままずっとあの二人が一緒で、話し続けてくれていたら。そうしたら私は、案内できなかったとお兄ちゃんに言える。
それなのにどうしてこうも神様は、私に残酷なのか。
男の子が呼ばれてしまい、百合宮さまが一人になってしまった。言い訳が、できなくなった。
彼女が一人になっても他の子は近づかない。
とても可愛いだけでなく、所作も美しい彼女に女の子は自分が見劣りするからと。男の子の方はあの彼のことを気にして、行けないでいる。
多分、家格を気にすると何の抵抗もなく行けるのは、まだ来られていない白鴎さまくらいしか……。
と、丁度その時、白鴎さまがお越しになられた。
すぐに誰かを探すように会場内を見渡され、その視線が一瞬留まり、薄く微笑まれた。
目撃した女子たちの顔が一様に赤く染まる。
私も例外ではなかったけれど、心臓が嫌な音を同時に立てていた。
ずっと動向を見守っていた先と、同じ方向に向けて微笑まれたから。
そうだ。百合宮先輩と白鴎先輩はよく行動を共にされている。白鴎さまと百合宮さまも、面識があってもおかしくない。
白鴎さまが百合宮さまの方へ行けば、私にまた行けない理由が――
と、ポンと肩に手が触れた。
「美織」
「っ!」
振り向かなくても分かる。
耳元に、平淡な声が降りてくる。
「主催者への最初の挨拶は社交においての基本。その間に行っておいで」
「……!」
「どうして一人になった時、行かなかった?」
「いっ…」
肩に掛かる力が強まった。
いやだ。いやだ!
行きたくない行きたくない行きたくない!!
「次は、ないよ?」
白鴎さまの挨拶を受けるため、お兄ちゃんが離れていく。
どうして。何で。
私に優しくしてくれる子ばかり……っ!
震えて仕方がない足を、見守っていたその先に向ける。何故か固まってその場から動いていない百合宮さまへと、泣きそうになりながら、声を掛ける。
掛けてしまったのだ。
「ゆ、百合宮さまっ」
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