Episode129 天蜻蛉③-視点-
パチッと目を開いて見える空間は、真っ暗なまま。
ハァッハァッと走りきったかのような、忙しない呼吸音に何の音か最初は認識できなかったが、暫くしてそれが自分の空気を取り込んでいる音だと気がつく。
起き上がって顔に手を当てると汗だけでなく、目から溢れているものの感触もした。
「……あれ? 何で私、泣いてるんだろ……?」
息が切れている。汗もかいている。泣いているともなれば、怖い夢でも見ていたのか。覚えてないけど。
……あれだ。裏エースくんに追い縋ってケチョンケチョンにされる、現実とリンクした夢を見てたな、絶対。あーもうヤダー。一人になるとどうしても気が滅入って仕方がないんですけど。
こしこしと目を擦って、お布団被ってコロンと寝返りを打つ。
多分明日、目が腫れてそう。
怖い夢見ちゃったって言って、
そう言えば明日、スイミングスクールの日だった。
◇+◇+◇+◇+◇+◇+
精神的ダメージがひどくて集中できそうにないので、当日の失礼に当たらない時間に今日はすみませんがと、夫人に連絡をしたものの。
『じゃあ今日はスイミングはしなくてもいいから、たまには息抜きで一緒にお茶でも飲まない?』
そんな夫人のご提案にスクールを断ってしまった手前、それをもお断りする訳にもいかず今日も今日とて、春日井家にお邪魔することとなったのだが……。
「あ、猫宮さん」
「来たか。……お前それ、まだ持ってたのか?」
「おかしいです。夫人はどこですか」
取り敢えずもしもの場合を考慮して、特にどこのブランドかと特定するのが難しいような、普通によくある感じのミントグリーンの花柄ワンピースに、
前に来たことのあるお庭が見えるウッドデッキへと越長さんに案内されて足を運んだのだが、扉を開ける前にふと嫌な予感がし、取り敢えずもしもの場合を考慮して鞄の中に入れてきたそれを引っ被ったのだ。
――そう、円らな二つのお目めが可愛い、リアルクマさんマスクである。
「やはりですか。何かそんな気がして扉を開ける前に被って良かったです。なぜ貴方たちがいるんですか。夫人にお誘い頂いたのに、夫人がいないとはどういうことですか」
「うーん、どうしてだろうねぇ」
「まぁ座れや」
この家の住人でもないのに、偉そうに言ってくるヤツ居るのおかしくない?
色々納得できないことが多いが、来てしまったものは仕方がないし、癪であるが春日井が引いてくれたガーデンチェアにお礼を言って座る。
春日井の着席と同時に越長さんより素早くお菓子とお茶が手配され、既にお茶だけ飲んでいた二人のそれも新しく交換された。
そうして三人きりになれば、春日井がここ近年では見るのが珍しくなった微笑みを浮かべる。
「水泳。集中できそうにないのって、何かあった?」
……まぁ、スクールの先輩である春日井の先生も夫人であるので、夫人が私をお茶に誘った時点で今日のスクール自体は中止なのかなとは思っていた。
だからその中止理由も教えられているとは、容易に想像できる。
私のせいで春日井の水泳の時間も消えてしまったし、緋凰もわざわざスクールの日に他の予定を入れないようにしていたから暇になった。
ん? いや緋凰に関しては暇になったのだから、自分の家でゴロゴロしとけば良いと思う。
……学校では宙ぶらりんだし、前にその友達と仲違いしたこともこの二人には少し話している。覚えていないかもしれないけど。
客観的に見てみれば、当事者では見えていない何かが分かるかもしれない。
「……あの。スイミングの先輩と先生と見込んでお聞きしたいのですが、よろしいですか?」
「うん、なに?」
春日井は優しく頷いてくれるが、緋凰は返事もせず顔だけこちらに向けた状態。まぁ話は聞いてくれるのだろう。
「春日井さまと緋凰さまは、とても仲がよろしいですよね?」
「え? うん、そりゃあね。学院に入学するより前からの付き合いだし、親友だし。それがどうかした?」
水泳関係の話をしなかったので、拍子抜けしたような感じの春日井。緋凰も水泳関係の話ではなかったので、興味を失ったようでお茶を飲み始める。
精神的ダメージの酷い私は気にせずに話を続ける。
「ずっと一緒にいて、お二人の間で愛は芽生えたりしませんか?」
「ブッフォッ!!」
緋凰がお茶を噴き出し、春日井の目が点になった。
精神的ダメージの酷い私は気にせずに話を続ける。
「だって緋凰さま、春日井さま大好きっ子ですし。春日井さまだってお口悪くて偉そうな緋凰さまと、ずっとお付き合いされているじゃないですか。そんなに好き同士でいらしているのに、そこに愛は芽生えたりしないのかとお聞きしたくて」
緋凰がゲホゴホと
精神的ダメージの酷い私は気にせずに話を続ける。
「そういうのって、どうなんでしょう? いえ別にそういうのに偏見を持っている訳ではありませんが、もしも、もしもを考えてみて下さい。例えば緋凰さまが春日井さまのことを大好きで大好きで堪らなくて、ある日、春日井さまにその想いを打ち明けます。ですが春日井さまは緋凰さまのことをそんな風に見ることはできなくて、お断りしてしまうんです。でも同時に春日井さまには私という、とても仲が良いお友達がいました。春日井さまが緋凰さまの告白を断った頃と同じくらいで、とても仲が良いお友達である私を無視し始めるんです。それって、春日井さまとしては何をお考えなのでしょうか?」
「宇宙人! 宇宙人!!」
何やら咽終わった緋凰が
私は裏エースくんを見立てた春日井に視線を真っ直ぐ向けているが、春日井は固まったまま微動だにしない。
精神的ダメージの酷い私は気にせずに話を続ける。
「春日井さまとしてh「続けんな!!」
再度訊ねようとしたところで、額に青筋をおっ立てた緋凰にぶった切られる。
仕方なく口を閉じたものの、精神的ダメージがひど過ぎて溜息までは抑えきれなかった。
「はぁ~~~~」
「溜息吐きたいのはこっちだ! 本当お前の思考回路どうなってんだ!!」
「……え? 水泳に集中できなさそうって、僕と陽翔のこと、そういう風に見てるからなの?」
「あぁ!?」
春日井の言葉を聞いて、緋凰が確実に濁点がついている「あ」を発した。
項垂れて、そうではないと首を横に振る。
「違います。もしもとしてお話したのは、いま学校で私に起きていることなのです……」
「つまり、それが水泳に集中できない悩み事?」
「そうです……」
「回りくどいんだよ! っとに、配役に悪意を感じるぜ」
ブツブツ言う緋凰はさておき、春日井の方は親身になって詳しく聞いてきた。
「纏めると、陽翔が僕のこと大好きで恋愛的な意味で告白してきたけど、それを断った僕がとても仲良しの、友達の猫宮さんを急に無視し始めた。そういうことで合ってるかな?」
「合ってます……」
「いい加減そこに俺と夕紀を当てはめるの止めないか?」
「確認なんだけど、現実では猫宮さんじゃない二人は僕と陽翔のような関係性?」
「いいえ。私も話だけ他の子に聞いただけで、告白した子が彼と仲良しなのかは微妙なところです。ただ彼を見るとその子はソワソワと落ち着かなくて、追い詰められたような表情をしていたと。話を聞いた子から、そうお聞きはしています」
そこまで聞いた春日井は額に手を当てて、物思いに耽っていたけれど。
「……ダメだな。ちゃんとした人物像じゃないと、自分で当てはめても猫宮さんを無視する僕の気持ちが分からない。猫宮さんを無視している子は、僕も知ってる人物?」
「はい。あの、太刀川くんです」
「あぁ、あの」
頷く彼に四年前も思ったが、本当に名前を聞いてすぐに思い出せるなんて、すごい記憶力だと思う。
「何でそんなに覚えていらっしゃるんですか?」
「あの時のことはよく覚えてるよ。当時の一学年ファヴォリには、忘れられない出来事だったから」
「えっ!?」
待って、一部の生徒じゃなくて何でファヴォリなの!? 何で一学年ファヴォリに括られてるの!?
「あの時の話か? それがコイツとどう関係が」
「あの時の問題になった彼女の被害者は、猫宮さんだよ」
「……亀子?」
ぎゃあ! 大事になっている証拠に、その場にいなくて関係ない筈の緋凰まで何でか覚えてる! というか何でコイツ知ってるの!?
それに何で四年も前の出来事をここで掘り返す! ……私が何でそんなに覚えているのか聞いたからだった!!
「と、とにかく私をいない者扱いして無視しているのは、太刀川くんです! 何でそんなことをされるのか分かりませんし、前の時だって何のことか、私にはさっぱりで」
「前の時? ……それ、同じ年にした話の? 陽翔の家で演技指導した時の、ストーカー容疑かけられたっていうやつ」
「本当に何でそんなに覚えているんですか!? その通りです! あの時も私にストーカー容疑かけたの太刀川くんです!」
「俺も覚えてる。そりゃ、あんな怒って泣いて大騒ぎしたらな」
あの時の私ぃ!!
クマスクの顔を両手で押さえて項垂れる。
「前の時はどうやって解決したの?」
「前は色々言われてカチンときて言い返して、授業でも色々影響あって、お昼休憩にもう一人の仲良し……私が突進している子に、非常口で話を聞いてもらいました。それでその時の話を教室を出て、すぐに追いかけてきていた彼が聞いていて、彼の誤解だったと。その時はそれで和解して、仲直りしたんです」
「で、今回は無視と。お前にそうされる心当たりとかはねぇんだよな?」
「ないです。無罪です。冤罪です」
何度も何度も考えたけれど、本当に私に罪はない筈です……。無視されて話をしてくれない以上、私にはどうすることもできない気がする。
「前の時と今回で、何か違うことってある?」
「違うことですか?」
いきなり怒り出し……、……?
目が合えば睨み……、……?
あれ、待って。
前のケースと今回のケース、全然違うくないか?
「前の時は私に直接言ってきました。睨まれもしましたし、ずっと苛々ピリピリしてました。でも今回は何も言われるどころか無視ですし、視線だって合いません。私が同じ空間にいても、私の名前や話を出さない限りは普通な感じです。ぜ、全然違います!」
そうだ。裏エースくんだったら、何かあったらあの時のように、ちゃんと私に言ってくる筈なのに。
「あの時から性格や人が変わっていなければ、僕も彼はいきなり無視とかするんじゃなくて、ちゃんと言葉で言う人だと思うよ」
「だったらどうして」
「猫宮さん」
真剣な眼差しが返ってくる。
「猫宮さんにとっては仲の良い友達だとしても、他の人にとってはそれが気に入らない。今回のことって、そういうことじゃないかな?」
言われたことをかみ砕いてよく考える。
私と裏エースくんは他の人から見て、付き合っていると誤解されるほどの仲に見える。実際も仲良し。
それが気に入らない……?
んん? え、私もしかして、裏エースくんに恋をしている女子の誰かに恨まれてる!?
「こ、今回のことは、太刀川くんに恋をしている女子の犯行によるものだと……!?」
「新たな登場人物を出すな鳥頭。よく考えろ。根本的なところが間違ってんじゃねぇのか」
「根本的?」
どこら辺が? え、どこが間違ってる!?
言われてもチンプンカンプンな私の様子を見て、緋凰は溜息を吐き、春日井は難しそうに眉根を寄せた。
「こうなってくると、あの人の過保護もあまりどうかと思うけど。最初に出会った頃に僕から猫宮さんに聞いたこと、覚えてる? どうして聖天学院に来なかったのって」
「え? あ、はい。そうですね?」
「猫宮さんほどの家の子が、どうして聖天学院に来なかったのって」
「…………」
私ほどの家。――百合宮家?
「中流階級の家の子が通う学校に、上流階級の家の子が混じる。中流階級の家は上流階級の家と繋がりが広くある階級。猫宮さんあまり催会に参加しないとは言うけど、参加したことが一度もないということはないよね?」
「上流階級のヤツで亀子のこと、知ってるヤツもいたりするかもしれねぇな。太刀川ってヤツの、前と今回のお前に対する態度の違い。そいつに告白したってヤツの、ソワソワ落ち着かなくて追い詰められた顔。……なぁ」
腕を組んでふんぞり返りながら、緋凰が目を細めて私を見る。
「――それ、本当に告白だったのか?」
……告白でなければ何だと。
私のことを知っている上流階級が、私と同じ学校に通う中流階級の子へ何か言った? ソワソワ落ち着きなく追い詰められていたのは、上流階級の圧力があったから? だからその話をされた裏エースくんは、結果私から離れる、もしくは私に嫌われるような態度を取ることにした?
何それ?
――――何それ
ビクッと、一瞬二人の肩が揺れたのが視界に入った。
精神的ダメージの酷い私は気にせずに、ゆっくりと口を開く。
「なるほど。上流階級のどなたかが私の同級生を脅し、太刀川くんは脅された同級生の背後にいる、上流階級の方の脅しに屈した可能性があるというお話ですね。そうですか。――そうですか」
ふーん。そう。そうなんだ。へぇー。
「……解決できそうかな?」
「はい。ご相談に乗って下さりありがとうございました。やはりこういうのは、当事者でない方からの目線というのも大切ですね。私ではずっと気づかなかった可能性ですもの。ふふふ、さすがスイミングの先輩と先生です」
「相談内容、水泳じゃねぇけどな」
「糸口が見えたので大分気が楽になりました。ふふふ、せっかくご用意して頂いたのです。お菓子食べましょう!」
内側の紐を引っ張り、クマの口をパカリと開けてラングドシャを一つ食べる。
んー、香ばしくてサクサクしてて美味しい~♪
マスクの内側でニコニコしながら、私はお菓子を食べてお茶を飲んでその後を過ごしたのだった。
◇+◇+◇+◇+◇+◇+
リアルなクマのマスクを被り、首から下は普通の女の子の格好をした少女がその場から帰宅し、いなくなった後。
「……やっぱアイツ、俺ら側の人間だな」
ポツリと落とされたそれに、顔を向ける少年。
「猫宮さんのこと? 上流階級の子で間違いはないよ。彼女との約束があるから、それ以上は言えないけど」
「いい。“春日井”もその場にいて且つ、“緋凰”との約束だ。さすがにアイツも守るだろ」
はぁ、と息を吐いて、コキリと首を鳴らす。
「俺らは俺らで高名な家の時期跡取りっつーので、それらしい態度とか表面上の取り繕いとか英才教育させられて、自然と威圧とかも身に付くだろ? 亀子の鳥頭で宇宙人な思考言動が強烈過ぎて忘れがちだが、泳ぎ以外の普段の動きや所作は、厳しい教育を受けたヤツのそれだ。……前にも思ったがアイツの怒り方、
「うん。陽翔、僕と同じタイミングで肩揺らしてたもんね。……顔見えてないのに、あれだけすごく怒っているのが相手に伝わるの、すごいと思うよ」
「予測。近々確実にどっかの家――――潰れるな」
少年が目を
それを耳にしたもう一人の少年は、緩く微笑む。
そうして少年達はそれまで手にしていたカップを、同時にソーサーへ置いた。
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