Episode74 花蓮の息継ぎ練習
春日井も私達のやり取りにホッとしたようで、プールサイドに腰を下ろして水に足をつけた。
「じゃあそろそろ僕たちも泳ごうか」
「あ、すみません。ずっと水の中にいるので私はちょっと休憩します」
そう言って上がり、プールサイドに座る私と入れ替わりに春日井と緋凰が中に入る。
「うわ冷たっ」
「電話であれだけ暑い暑いって言っていたのに」
「水着に着替えてからどんだけ時間経ったと思ってんだよ。取りあえず一周してくる」
「じゃあ追いかけるよ。僕に抜かされないようにね」
「誰に言ってんだ」
そんな軽快な掛け合いの後、緋凰が先に、次いで春日井が泳ぎ始めた。二人ともとても綺麗なフォームで、水の抵抗などないに等しい。
「どうぞ、お嬢さま」
「あ。ありがとうございます」
お手伝いさんからタオルを受け取って、体に軽く巻きつける。
ああ、ふかふかモコモコが冷えた体に優しい……。
そうしてタオルの巻き心地を堪能していると足元近くでザパンッと音がし、どんだけ泳ぎが速いのか一周終えたらしく、水面から顔を出した緋凰が何故か私を見てきた。
「さっきのアレ、何してたんだよ」
そして唐突に話し掛けられた。
「アレとは」
「顔だけ水にバシャバシャ叩きつけてたやつ。その後高笑いしだすから、狂ってんのかと思った」
コイツいつから来てたんだ。
泳ぎ始めた時と変わらない距離を保って泳いでいた春日井も帰ってきて、話が聞こえていたのか『え……そんなことしてたの?』みたいな顔して私を見てきた。
「私は春日井夫人のご厚意で、夏休み前からこちらで水泳を習っています。緋凰さまの言うアレとは息継ぎ練習の一環です。笑っていたのはお恥ずかしい話ですが、いつか華麗に泳いでいる未来の自分の姿を想像して、つい楽しくなってしまったからです。要はイメージトレーニングです。略してイメトレ」
「夏休み前からって、結構経ってんぞ。それでまだ息継ぎ練習って、どんだけどんくさいんだよ」
「……ぶっ」
呆れたように言う緋凰の横で、春日井が堪え切れないとばかりに噴き出す。
あっこの笑い方、最初の私の失敗を思い出し笑いしたな!?
「春日井さま!」
「ごめんっ。本当ごめん!」
笑いを誤魔化すためか口元に手を当てているが、肩が思いっきり震えているので隠せていない。
くっそうこのうさぎめ!
亀子を怒らせるとどうなるか、思い知るといい!!
「天誅!」
「わっ。ちょ、やめろ!」
「ふふ、あっはっははは!」
足をバタバタさせて大きく水を跳ね上げさせたが、被害は専ら正面を向いていた緋凰に及び、予測していたらしい春日井は、そのまま後ろへ方向転換して防御することに成功していた。
またもやツボったらしく、笑い続ける春日井を攻撃が不発したこともあって睨みつけていると、「仲いいんだな、お前ら」と意外そうに緋凰が口にする。
「どこがですか!」
「夕紀に水ぶっかける女子とか初めてだし、女子に爆笑してる夕紀も初めて見た」
「世界が広がって良かったですね!」
「あははははは!」
「春日井さまはいつまで笑っているんですか!!」
ド憤慨する私を見てようやく落ち着きを取り戻した春日井は、ゴーグルを外して目尻に滲んだ涙を拭う。
「何か、陽翔と早く仲良くなれそうだね。猫宮さん」
「そんなことはありません。当分私は猫宮 亀子です」
「あれ、今日だけじゃ無理?」
「そんな短時間でいけるようなら、初めから正直に名乗っています」
「だってさ、陽翔」
「何でそこで振った。まぁいい。おい、プール入れ」
偉そうに顎をしゃくって促してきた緋凰にムッとする。
「どうしてですか」
「どんだけ下手くそか見てやるよ。夕紀じゃ優し過ぎて言えないこともあるだろうからな」
クッソ偉そうだなコイツ。
しかし言葉を選んで相手を傷つけないスタイルの春日井では、確かに緋凰の言うことも一理ある。
悪いところがあるのならズバッと言ってもらった方が助かるのではないかと思い、体に巻きつけていたタオルを畳んで置いて、言う通りにプールへ入る。
「どうしたらいいですか?」
「息継ぎ以外に何やってる」
「猫宮さんは水の中ですごく長く息が続くんだ。でもそのせいで、どうも息継ぎするのを忘れちゃうみたいで。だから最初は徹底的に息継ぎの練習をしてから、最近はクロールのフォーム練習とかバタ足の練習もしているよ」
「どうやったら息継ぎするの忘れんだ。猫で亀のくせに鳥頭かよ」
クッソ口悪いなコイツ。
お前だって名字に鳥入っているくせに、人のこと言えないぞ!
「春日井さまこの子お口悪いです! 注意して下さい!」
「本当のことだろうが!」
「二人とも落ち着いて。陽翔、猫宮さんも頑張っているんだからそういうこと言わない。取りあえず、猫宮さんはいつも通りに始めてみて」
間に入った春日井に言われて、頬を膨らませながらも大人しく息継ぎ練習からスタートする。
うん、何回も繰り返して練習しているだけあって、これはもう大丈夫。頭をからっぽにしても最初の時のようなタイミング間違いも起こさないし、息継ぎに関してだけ言えば免許皆伝の域に達していることだろう。
ふっふっふ、ホーホッホッホ!!
「ブッブッブ、ブークブクブクブク」
「おい。これ何だ」
「ゆ……猫宮さん。猫宮さん、水の中で笑わないで。何してるの」
「…………ぷはっ。え、何ですか?」
顔を上げたら、何故か二人して引いた顔をしていた。
「お前、相当ヤバいな」
「えっ? いやですね、息継ぎ練習でそんなに褒めなくても」
「褒めてねえよバカか!」
「バカ!?」
「猫宮さん。水の中で笑わない。前にも言ったと思うけど覚えてる?」
言われて記憶を掘り起こせば、そう、あれはスクール四回目の時だったか。
夫人に「大分動きもそれらしくなって慣れてきたわね」って褒められた時、とても嬉しくなったのを覚えている。確かその時は、クロールのフォーム練習を息継ぎと一緒にしながらやっていて、私は普通にやっていたつもりだが、どうも笑っていたらしい。
「ブッブッブ、ブクッ……ブッブッブ、ブクッ……」と、それはそれは世にも不気味な光景だったそうな。
ちなみにこのことは夫人からお母様に伝えられ、そのことについて注意を受けている場にお兄様も現れて、二重に怒られるということがあった。
もちろん顔を青くした夫人や春日井からは、その場で注意された。
「覚えていますけど。……え。私、笑っていました?」
「自覚がねぇ。ヤバいコイツどうすんだ夕紀」
「ねぇ、もしかして何か考えたりした?」
鋭い指摘にギクッと肩を跳ね上げると、やっぱりって顔をされた。
「なに考えてたの?」
「い、言わなきゃダメですか?」
「ダメ」
優し過ぎて言えないこともあるだろうと、幼馴染から評価されていた春日井の許して貰えそうにない雰囲気に、渋々と打ち明ける。
「えっと。息吸うタイミングも間違えなくなって、息継ぎだけなら免許皆伝だと……」
「それで嬉しくなっちゃったの?」
「その通りです……」
「バカだコイツ」
はぁ、と息が吐かれる。
「あのねゆ……猫宮さん。水に顔をつけている時に笑っちゃうと、鼻とか口から変な気管に水が入って、呼吸困難になるかも知れないんだよ。命の危険があるから絶対にやったらダメだよ。笑ってなかったけど最初の時だって、呼吸間違えて苦しい思いしたでしょ」
「はい……。よく覚えています……」
あの時は本当に死ぬかと思いました。
どうやら息継ぎでさえも免許皆伝には程遠いようです……。ちゃんと分かるように
「うさぎとか言ってすみませんでした……」
「何のことを謝っているのか分からないけど、でも泳げるようになりたい気持ちだけは僕も分かっているから。猫宮さんは多分、ちゃんとやれば出来る子なんだから」
「頑張ります……」
「笑わずに呼吸間違えるとか、どんな間違えだよ」
本気でしょんぼり落ち込む私に、緋凰からの止めの一言が突き刺さる。
最早プールの底に沈んでしまいたい気持ちに駆られていると、止めを刺してきた本人からぶっきらぼうな言葉が掛けられた。
「まぁ、人間ってのはどんなヤツにも苦手なものはあるもんだ。お前はそれが水泳だったってだけの話で、気持ちだけはあるみたいだしな。夕紀が見捨てずについてんだ。コイツのお前に掛けた時間、無駄にすんなよ」
これは
ただ間違えようもなく分かることは、緋凰は春日井のことが大好きってことだけだった。
「笑わずにいたら、息継ぎは大丈夫ですか?」
「そうだね。笑っていない時はしっかりできているよ」
「じゃ、次はフォーム練習か。……待て。普通に聞いていたけど、それって必要な練習か? 泳がずに腕動かすだけだろ?」
「猫宮さんには必要なんだよ、陽翔」
「あぁ、なるほど」
「お察しみたいな空気出すのやめてくれませんか」
こうして夫人不在のスイミングスクールは春日井と、遊びに来た筈の緋凰が付きっきりで見てくれたことによってあっという間に時間が過ぎていった。
夫人のように丁寧に教えてくれる春日井と比べるまでもなく、終始態度と口が悪かった緋凰だが、何だかんだで彼は意外にも面倒見が良かったようで、「バカ! 鳥頭!」と散々罵倒しながらも最後まで付き合ってくれた。
そして私は水泳キャップにゴーグルと素顔も知られぬまま猫宮 亀子として乗り切り、緋凰に百合宮 花蓮と正体が知られることのないまま、帰宅を果たしたのだった。
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