Episode73 太陽編攻略対象者 緋凰 陽翔

 何故だろう。つい最近聞いたような生意気な声が、後ろの方から聞こえた気がする。


 待て、落ち着け。ここはどこだ。

 春日井の家の室内プール。オーケー、なら幻聴だ間違いない。


「聞こえてんだろ。さっきからおかしなことしかしてない不審者」


 誰だおかしなことをしている不審者は。

 お手伝いさんか。


 チラッとお手伝いさんのいる方を見ると、彼女(推定四十代の恰幅かっぷくの良いおばちゃん)はそっと私に向けて手を指し向けた。


 何だと。この生意気な声は、私のことを不審者と言っているのか!


「この場には私と春日井家のお手伝いさんと、後ろの不法侵入者しかいません!」

「だからお前が不審者だって言ってんだろうが! いつまで後ろ向いている!」


 うるさい!

 現実を見たくないからに決まっているでしょう!!

 隠れる場所がない! うさぎ! 早く来てお願いします本当無理助けて!!


 と、天が私の切なる願いを聞き届けてくれたようで、後方からてちてちと走ってくる音が聞こえた。


「陽翔! 待っていてって言ったのに、何で待っていないの!」

「夕紀」


 最早その呼び名で後方の不法侵入者が誰か確定してしまったが、素早く振り返り叫ぶ。


「うさぎさま! こっち! ちょっとこっち来て下さい!!」

「うさぎ? え、それ僕のこと?」

「いいですから早くこっち! そこの不法侵入者はストップです! こっち来たら水かけてやりますからね!!」

「……」


 バシャバシャと水の抵抗に阻まれながらも、指差した集合場所へう這うの体で辿りつけば、予想外に体力を消耗して疲労困憊の私の傍にうさぎ、もとい春日井がしゃがみ込んでくる。


「えっと、大丈夫?」

「全っ然大丈夫じゃありません! どういうことですかあの不法侵入者!」


 小声でヒソヒソ訴えれば、彼は少々困惑した表情を見せた。


「不法侵入者って。いやでも、百合宮さんからしたらそうだよね。彼急に来ちゃってね。今日すごく暑いし、プールで泳ぐって来たみたいで。僕も水泳の前にお稽古があって少し長引いてさ。百合宮さん来ている筈だからと思って、僕が行くまで待っていてって伝えていたんだけど」


 またか! また急なアポなし訪問か!

 迷惑にも程がある!!


「あの子は親しき仲にも礼儀ありって言葉を知らないんですか!? 春日井さまも怒っていいと思います!」

「うーん。僕はそこまで怒れないな。今更だし」


 今更もヘチマもあるか!

 こういう躾けは小さい頃から叩きこんでおかないと、将来困るのはヤツだ。


 私がこんなに怒っているんだ。

 礼儀やマナーの鬼である麗花がいたら、こんなものじゃ済まないぞ!


「とにかくです。あっちはただの遊びにきた不法侵入者。私は正当なる春日井スイミングスクールの生徒。さぁ、あの子をここから追い出すか帰らすか、どっちにするんです!?」

「どっちも同じ意味だよね。一緒に泳ぐって選択肢はないの?」

「私はまだ泳げません!」

「……。取りあえず自己紹介しようか」


 えっ、何でそうなるの!?


 愕然とする私を置いて、春日井が意外にもそのまま立ち尽くして待っている不法侵入者へと声を掛けると、そいつはゆっくりな足取りながらも近づいてきた。眉間に皺を寄せ、腕を組んで私を上から見下ろしてくる。


 うっわ、すごい偉そう。


「……で、何だよそいつ」

「陽翔が急に来たから、ちょっとびっくりしたみたいで。彼は僕の幼馴染で親友の緋凰 陽翔。それで彼女は、僕と一緒に母に水泳指導を受けている「猫宮ねこみや 亀子かめこです」……」


 言い切られる前に、割り込んで名乗ってやった。

 あまりにもよどみなく堂々と言い切ったからか、春日井から訂正も入らない。ただただ微笑みの状態のまま固まっている。


 別に社交の場でもないし? 今日限りの出会いなわけだし?  正式に名乗る必要なくない?? 


 ふっ。私は人としてどうかという常識よりも、我が身可愛さの保身を取る!


「夕紀、こいつ正気か?」

「……えぇっと」

「正気かとはどういうことですか、失礼な不法侵入者」


 指を指されて言われたことに反論を返せば、不法侵入者もとい、緋凰の眉間の皺が深くなった。


「失礼なのはお前だろうが不審者! 何だ猫宮 亀子って! 明らかに偽名だろうが! こっちはちゃんと名乗ってんだぞ!?」

「まぁ、偽名ですって!? 全国の猫宮さんという猫宮さんに謝って下さい! 貴方は今、全国の猫宮さんという猫宮さんを敵に回しましたよ! それに春日井さまからの紹介であって、自分から名乗ったわけでもないのにちゃんとと言うのはおかしいです」

「猫宮は百歩譲っていいとしても、さすがに亀子はないだろうが! 俺はれっきとした緋凰 陽翔だ!」

「まぁ、亀子がないですって!? 鶴と亀。この縁起のいい動物にあやかって名付けられる名前に、鶴子はあっても亀子はないと、どうして言えるんです!?」

「あぁ!? ……鶴、鶴子? 言われてみるとありそうな気が……。夕紀、どう思う」

「ごめん、ちょっと二人ともストップ」


 猫宮 亀子論争に一旦ストップがかかり、はぁ~ととても疲れたような溜息が吐き出された。


「陽翔は流され過ぎ。話ズレてるから。それで……猫宮さんはちょっと来て」


 今度は私が呼ばれて、春日井が向かう方へと付いて行く。やはり水の抵抗にあったが距離はそう離れなかったので、疲労困憊はしなかった。


 そして顔を合わせたその表情は、微笑みなど一欠片もない真面目なもので。


「どういうことか説明してくれる?」


 ……うーん。ちょっと、やり過ぎた、かな?

 関わり合いたくないのはこっちの事情だし、常識的に考えなくても私の態度は失礼過ぎる。


 それに相手は緋凰家の御曹司。

 家格にしたらあまり差はないとはいえ、向こうの方が上だ。


 しょんぼりと顔を俯かせる。


「……失礼なことをしているのは分かっています。ですが、最初に失礼なことをしてきたのはあっちです。一生懸命息継ぎ練習をしていた私に向かって、誰だそこの不審者って。私だって春日井さまじゃない知らない人に、急にそんなこと言われてびっくりしたんです。……お手伝いさんが止めない時点で、春日井さまのお友達っていうのは何となく分かりましたけど。でも、怖い顔でそんなこと言われて、怖かったです。この前みたいに隠れられる場所なんてありませんし、立ち向かわなきゃって。でも、やっぱり聖天学院の子は怖い子ばっかりです。怖くて、名前なんて言えません……っ」


 ずっとプールに入っているせいでさすがに体が冷えてきて、声がリアルに震えた。

 ゴーグル越しにそっと上目遣いに春日井を窺うと、何とも言えない気まずそうな顔をしている。狙い通りである。


 緋凰の中で私という存在を猫宮 亀子のまま押し通すには、春日井の協力が必要不可欠。彼の良心を利用するので私の良心も痛むが、背に腹は代えられない。


「百合宮さんからしたら説得力ないかもしれないけど、怖い子ばかりじゃないよ。陽翔も、あんまり女の子と会話しないからあんな態度だけど、悪い子じゃないんだ。よく家に遊びに来るから他の子と一緒になって、多分彼もびっくりしたんだと思う」

「……私、ちゃんと名前言わないとダメですよね。でも怖い顔をされると、有栖川さまにいきなり叩かれたことを思い出してしまうんです。あ、ほらこっち睨んでいます……!」

「えっ。陽翔! ちょっと向こう向いてて!」

「はあ!? 何でだよ!」

「いいから!!」


 有無を言わさぬ強めの言葉に納得いかないながらも、言う通りにする緋凰は案外素直なヤツである。


 明らかに不機嫌な緋凰と震える(寒い)私の様子を交互に見て、どうするか春日井の中で決まったようだ。一つ頷いて、私に告げる。


「名前のことは分かったよ。会ったばかりだし、百合宮さんが陽翔に慣れて教えても大丈夫って思ったら、ちゃんと自己紹介しよう? でも彼は百合宮さんの事情知らないし、このままじゃ納得するのは難しいと思うからそこは僕から説明するけど、いい?」

「……分かりました」


 何て説明する気か知らないが、私に不利な状況にはならないだろうと判断し承諾する。


 プールに近いため歩いて緋凰の元へと向かった春日井が話し出すと、緋凰は不機嫌そうにしていた顔を途中から緩和かんわさせ、しかし最終的にまた眉間に皺を寄せた。


 遠目でしかもゴーグル越しだが、やはり乙女ゲーのメインヒーロー。


 観察して今更ながらに、その容貌の際立った整いように感嘆の溜息を吐きたくなる。

 春日井も秋苑寺も、子役モデルと紹介されても疑うべくもない顔立ちをしているが、緋凰においてはそこにただ立っているだけなのに何だか逆らえない魅力を感じる。


 王者のオーラとでも言うのだろうか。

 私でさえゴーグルという防御とライバル令嬢という矜持きょうじがなければ、間抜けな顔で見惚れていた可能性がある。


 麗花にピーポーウォールが発動されていて、本当に良かった。いつまで保つか分からないけれど。


 緋凰でさえこう思ってしまうのだから、美貌の描写が事細かく表現されていた白鴎なんて一体どんなのになっているのか。あっ、胃が痛くなってきた……!


「ゆ……猫宮さん」


 想像してしまったばかりにキリキリする胃の辺りを押さえていると、春日井が緋凰と一緒に傍まで来ていた。


「お話は終わったのでしょうか」

「うん。陽翔」

「……不審者とか言って悪かった。顔は元からこうだから、文句言われても受け付けねぇぞ」


 謝罪されたことに目を丸くしてしまったが、春日井がうまく言ってくれたのだと思い、私も少し考えて緋凰に向き合う。


「私も不法侵入者って言ったり、失礼な態度を取ってすみませんでした。名前のこと、私のことはちゃんと名乗れるまで猫宮 亀子でお願いします」

「分かった」


 コクリと頷く緋凰に平静を装いながら、内心では僅かな罪悪感が沸いた。


 家同士のこととは言え曲がりなりにも麗花の婚約者なくせに、ヒロインに惹かれて麗花を断罪する相手として見ていたが、幼い緋凰はとても素直で単純な子のようである。


 ……麗花も高飛車で典型的なお嬢様かと思ったら、不器用でツンデレな可愛い女の子だったしな。


 今やそんな彼女の親友と言っても過言ではない、この私。


 まぁ現時点で婚約者でもないし、麗花から見て幻の存在なわけだし、そう敵意を持って接しなくてもいいのかもしれない。

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