Episode67 スイミングスクール本番とペッコペコ

 その後も世間話程度の会話をしていたらお昼の時間になったらしく、お手伝いさんに声を掛けられてダイニングに案内された。


 お母様と春日井夫人は余程話が弾んでいたのか昼食の席でも大層会話が盛り上がって、私はニコニコとしながら黙々と、春日井は微笑みながら時折会話に相槌を打って過ごした。


 そして昼食を摂ってきっかり一時間後、水着(スクールのやつ)に着替えて泳ぐ準備万端となった私は、本題のスイミングへと気持ちを切り替える。


「目標は自然に呼吸ができるようになる。それとビート板はすべらさない!」


 プールは邸宅の地下に建設されており、隣室の更衣室で私はそう目標を掲げた。


 泳ぐのなんてそれらができてからだ。

 自分の身の程は理解している。


 いっちにー、えいっちおー!と更衣室内でフライング準備運動をしていると、プールに繋がる扉が開いて春日井夫人が顔を見せる。


 おおう、水着だとよりその素晴らしいスレンダースタイルが際立つ……!


 思わず何かを噴き出しそうな鼻をサッと押さえると、夫人は微笑みを向けてきた。


「ふふ、偉いわね花蓮ちゃん。でも準備運動はこちらでしましょうね」

「あ、はい」


 どうやらやる気に満ち溢れる掛け声が、外にも聞こえていたようである。


 恥ずかしさにちょっと赤くなった頬を冷ますようにパタパタと手で仰ぎながら更衣室から出ると、学校と同じように普通の大きさのものと、あまり底が深くないものとあるプールが目の前に広がった。


「すごい……」

「あら、普通よ?」


 普通ですか。

 我が家にないせいか、そこは普通の感覚でいた私。


「百合宮さん」


 顔を向けると、当たり前だが水泳スタイルになっている春日井が何やら楽しそうな顔をしてそこにいた。


「頑張ろうね」

「? はい」


 水泳をってことなら当たり前だ。

 そのためのスイミングスクールだ。


 そして早速春日井夫人指導の下、丁寧な準備運動から始まった。筋をしっかりと伸ばして体をほぐす。

 大きく息を吸い、細く長く吐く。こうしていると、自然と頭が空っぽになっていく。


 準備運動を終えて深くないプールの方へと向かうと、夫人はまず春日井に指示を出した。


「夕紀さんはいつものように、クロールで軽く往復してきてね」

「はい」


 ゴーグルを装備して静かにプールへ入ると、さすがというか、綺麗なフォームでスゥー……と流れるように泳いでいく。思わずその姿に見惚れていたら夫人から、「花蓮ちゃんはこっちね」と声を掛けられてハッとする。


 先に入った夫人に続くようにプールに入って後を追い、そして指示を出された。


「取りあえず、花蓮ちゃんがどこまで水に慣れているか知りたいの。体を丸めて浮かぶことはできる?」

「得意です」


 むしろそれしかできません。

 不思議なことにそうしたら浮かべるのに、体を伸ばしたら沈むという。


 唯一できることをやるため、早速指示に従う。

 ちゃぽん、と水が跳ねる音を聞いて水の世界へと身を任せる。



『考えるんじゃなく、頭をからっぽにして自然に身を任せなさいって、よく母が言っているんだ』



 考えず、頭をからっぽ……。


 ゴーグルをしていて目に水が触れることはないが、目を閉じてたゆたう。


 水中独特の音とひんやりした温度で構成された世界で、どれほど時間が経ったのだろう? 長い気もするし、短いような気もする。


「……。……? …………!」


 突然世界が壊された。


「!!?」


 ザバッといきなり体が水中から出されてパッと目を開けると、ゴーグル越しに焦ったような夫人の顔が映った。え、なに?


「夫人?」

「花蓮ちゃん大丈夫!?」


 持ち上げられた格好のままでプールサイドへと座らされて、心配そうに容体を訊ねられる。


「えっと。あの、大丈夫ですよ?」

「本当に? あぁ、あのまま溺れちゃうかと思ったわ……!」

「えっ」


 何ですと!?

 私が唯一自信を持ってできることでお、溺れ!?


「ち、違います! 何も考えずにただ浮かんでいただけです!」

「本当? 苦しいところとかない? 体動く?」

「動きます動きます」


 グルグル腕を振り回していたら、何やらバシャバシャと春日井までがこっちに来た。


「大丈夫百合宮さん!?」

「大丈夫です! 大丈夫ですって!」


 どうやらこちらの騒動のせいで、途中で泳ぐのを止めたみたいだ。


 うわああ、もうどうしよう溺れてないのに!


「何か心配だから、僕も百合宮さんと一緒にやるよ」

「そ、そうね。あぁびっくりしたわ……。花蓮ちゃん、ずっと水から顔上げないんだもの」

「ご心配をお掛けしました……」


 なまじ肺活量があったせいで、とんだ誤解をさせてしまった。何も考えてなかったせいか、全然苦しいとも思わなかったし。


 水泳選手だった夫人をしても子どもである私の肺活量はその予想を超えていたそうで、「息継ぎは大切なことよ、花蓮ちゃん」というお言葉を頂いてしまった。おおう……。


「花蓮ちゃんがすごく長く息が続くっていうことが分かったから、息継ぎの練習をしましょうね。取りあえず水に顔をつけて、十秒数えたら顔を上げて息をするを続けましょう」


 裏エース先生の指示の的確さが証明された瞬間だった。

 ショボショボと壁に手をついて顔を水につけようとしたら、春日井も隣に並んで手をつく。


「えっと、上級者の春日井さままで同じようにされなくても」

「ううん。こういうの懐かしいな。ほら、やろう」


 先に顔を水面につけた春日井に続き、促された私も顔をつける。

 この練習は裏エースくんに徹底的にしごかれたので、タイミングはバッチリだ。


 自然に。そう、自然に頭をからっぽにして……。

 …………。


「ふごっ!」

「花蓮ちゃん!?」


 水面から顔を上げてガホゴホと咳き込む私の背を夫人がさすってくれる。


 間違った!

 頭からっぽにしたから息吸うタイミング間違えた!


「ゆ、百合宮さん……?」


 春日井の困惑に満ちた声が聞こえる。


 いま絶対、『何でむせてるんだろう……』って顔してるでしょ! やめて! こっち見ないで!!

 うぅ、鼻に水が入ったよぅ。ジンジンするよぅ。


「い、息っ……。吸うの、まっ、間違え……ごほっ」

「……」


 いま絶対、『どんな間違えだよ』って思ってるでしょ!


 何とか呼吸が整い、あまりの苦しさに涙目になってしまった私に夫人が「一旦休憩しましょう」と、とても優しい声を掛けてくれた。


 プールから上がってサイドに腰掛け、しょんぼりと落ち込む私の隣に春日井も座る。


「落ちこまないで、百合宮さん」

「……私、泳げるようになるんでしょうか?」

「練習を続ければ泳げるようになるよ。諦めないで一緒に頑張ろうよ」

「頑張りたいです。頑張りたいですけど、でも、学校でも同じ練習したのに息継ぎのタイミング間違えるなんて!」


 なんて……なんて……なんて……と、私の木霊がプールの室内に響いた。ここで遂に春日井からの慰めが途切れ、私の木霊も響かなくなった頃。


「…………ぶふっ」


 パッと横を見ると、うつむいて肩を小刻みに震わせる姿があった。


「……春日井さま?」

「ごめっ、ごめん! な、何とかっ笑わないようにって思っ、思ってたんだけど! はははっ! ふごって! 百合宮家のご令嬢が……ふごっ!」


 ツボったようで、お腹まで抱えて横に倒れる始末。


 おい、そこまで笑うな。

 夫人の前で号泣してやろうか。


 とてつもなく冷たい眼差しを突き刺すように注いでいると、とうとうプールサイドをバンバン叩き始めやがった。


「さすがに失礼が過ぎますよ!!」

「ごめん! 本っ当ごめん!」


 爆笑しながら謝るな!

 それでも白馬の王子様系攻略対象者か!!


 緋凰といい春日井といい、太陽編の攻略対象は失礼なヤツしかいないのか!? ぐうぅっ、緋凰は帰ってからだが、春日井はこのままやられっぱなしでなるものか! 月編ライバル令嬢の名が廃る!!


「天誅!」

「冷たっ。わっ、ごめん! ごめんって!」


 プールの水を寝っ転がっている春日井に向かって、思いっきりバシャバシャかけまくる。


 ふははは!

 乾いた無防備な体に突然の水は冷たかろう!


「これにりたら、二度と今の私の失敗を笑わないことです!」

「うん、分かった。分かったから」


 ようやく笑い収めて身を起こした春日井だが、その肩がまだ震えている。これは寒いのか、はたまた笑いを引きずっているのか判断に迷っていると、危険を察したのか彼は慌てて手を振って否定してきた。


「いや、百合宮さんの失敗を笑ったわけじゃなくて! ……水泳でこんなに笑ったの、いつぶりかな」

「え」

「指導受け始めてから今まで、仕方なくって感じで水泳してたから。そっか。楽しかったんだよな、確かに」


 私に話しながらも自分に語りかけるような言葉に、思わずきょとんとする。そんな私を見て春日井はにっこりと、子どもらしく笑った。


「百合宮さんと泳ぐの、楽しいな」

「私、泳いでいませんけど」

「あははっ、そうだね。頑張って泳げるようになろうね」


 また楽しそうに笑うその様子に、良いことなのだろうが少しだけ不安になる。


 えっとこれは……私、未来のイベントもしかして潰したり、してない、よね?

 いや、潰した方が麗花の断罪予防にもなるから、それでいいのか??


 そういうことで自分を納得させたはいいものの、休憩の間はプールのベンチに腰掛けて私達の様子を見ていた夫人から、「二人とも、とても仲良しになったのね」と言われて複雑な気分になってしまった。


 結局この日は休憩後も息継ぎ練習を繰り返し、ビート板を使用する次元までは辿りつけなかったのだった。





◇+◇+◇+◇+◇+◇+





「麗花、麗花~。ファヴォリのお姉さま方による緋凰さまの情報って、何かない?」

『何ですの突然』

「前に話したじゃん。あれから何か情報更新されたのかなって、気になっちゃって」

『あぁ、そういうことですの。そうですわね……。お姉さま方の話ではありませんが、私から見た緋凰さまのことでよろしいかしら?』


 ……!!?

 えっ。目が合ってないだけで、麗花は緋凰のこと見てるの!?


「か、構わないけどそれで。な、なななな何?」

『何で動揺していますの。同じクラスではあるのですけど、話したことはありませんから大した情報ではないですわ。席は緋凰さまより前の方だからなのか、私、一度もちゃんと緋凰さまのお顔って見たことありませんの』

「そ、そうなの。あれ? でもプリント回す時とか後ろ向かない?」

『プリントをお渡しするのに、その相手の顔を見ないのは失礼でしょう。休憩時間も周りは親に言われて、私に近づく目的で寄ってくる女子で固められますし。向こうも向こうで後ろを向いた時に人だかりで、お顔なんて一度として見たことありませんわ』


 うっへー、それって……。


「人間の壁だね」

『ぷっ。ベル〇ンの壁みたいに言わないで下さる!?』

「想像して。麗花の中で姿を見たことのない幻の存在、緋凰 陽翔。唱えるはその存在を隠す鉄壁の防御・ピーポーウォール!」

『ピーポーウォール!? ちょ、なに想像させるんですの! ふ、ふふふふっ。わ、笑ってしまうじゃありませんの!』

「サロンでもピーポーウォールしてる?」

『ぷふっ。し、して……っ。わ、分かりませんわ。今ではお友達と過ごすのが楽しくて、いつもの席までまっすぐ向かいますもの。ふふっ』

「へぇー。……唱えるはその存在を隠す鉄壁の防御・ピーポーウォール!!」

『ふふふあっははははは! 何で二回言いますの! もうイヤですわっ、あはははは!!』


 こうして予定通り麗花の中で緋凰という存在をペッコペコにしてやることに成功し、また一つ麗花断罪予防を張れたと、私は満面の笑みでフンスと鼻を鳴らしたのだった。


 ――再度言うが、私は自分のやったことが原因で先の未来、とんでもない厄介事が己の身に降りかかることを夢にも思っていなかったのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る