3ー2 記憶の欠如
「身に覚え、あるか? イッチー」
いつものような軽い口調で、遠野が言った。
サイバー犯罪対策課の実務室は、異様に静かで。遠野の声だけが異様に響く。遠野は、デスクトップの無機質で平たい画面を見つめる市川の肩を軽く叩いた。
置かれた肩を気にする様子もなく。市川はマウスを操作し、瞬きを色素の薄い目を真っ直ぐに画面に向ける。画面には警察本部の郵便受けを行ったり来たりする画面の中にいる人物。ほんの僅かに横顔が見えた瞬間、その人物の顔が画面いっぱいにクローズアップされた。
何度もブラッシュアップを繰り返し、画像を丁寧に解析したとはいえ僅かにボヤける画像。しかし、一つに束ねた長い髪だけは意図せずとも印象的に見る人全ての視線を奪っていた。眼鏡の奥の瞳にかすかに力を入れた市川は、目を伏せ静かに首を横に振る。
市川のその動きに、固唾を呑んで見守っていた捜査員が一斉に深くため息をつく。
「……遠野係長」
「もう一度よく見てみろ、イッチー」
「……当時の記憶がハッキリしなくて」
「男か、女かは? わかんねぇか?」
「……すみません」
「まぁ、しょうがねぇな」
「自分のことなのに、お役に立てずに」
「気にすんな、まだまだこれからだ」
そんな市川の様子を、勇刀は少し離れたところから見守っていた。いつものように冷静に受け答えをしていても、勇刀には市川の動揺が手にとるようにわかる。わかる、というか。それはほぼほぼ勇刀の持ち合わせたカンのようなもの。勇刀は頬杖をついて、すぐさま目の前のディスプレイに視線を戻した。
勇刀の眺めるディスプレイには、市川が先程まで目にしていた人物。もっさりとした上着を揺らしながら道路を歩いている画像が映し出されいる。いきなり建物の隙間にその姿を消すと、そこからパタリと後を追えなくなってしまった。突然、煙のように消えてしまうのだ。姿を消した先の建物に設置された、防犯カメラを全てしらみ潰しに見たにも拘らず、だ。勇刀はマウスを動かすと建物の防犯カメラに切り替えた。印象に残る、あの長い髪。建物を行き交う人物を一人一人クローズアップするたびに、勇刀は無意識長い髪を追っていた。
「佐野、ヤツの配信はないか?」
「全てのSNSを検索しましたが、今のところ動きはありません」
「榊原、拳銃に係る通報等は?」
「奪われたと思料される拳銃の通報、目撃・相談もありません」
「よし。引き続きSNSや防犯カメラの映像で、対象の監視を続けてくれ」
「はい!」
「田中と中井は地取り《聞き込み》に行け。誰か一人くらいは、何か見ているかもしれん」
「はい」
簡潔な遠野の指示を、深く意図するところまで理解した捜査員達がバタバタと持ち場につく。
市川はその動きを見守ると席を静かに立った。捜査員に向かって深々と一礼し、自席へと戻っていく。
「勇刀、なんか分かりそうか?」
その姿をなんとなく目で追っていた勇刀は、遠野に話しかけられて我に帰った。そして、徐にマウスをクリックする。流れていた画像がピタッと止まり、勇刀は遠野に向かって首を振った。
「耳の形、とは思ってるんっすけど……やっぱり、長い髪を探しちまいますね」
「緒方、共助にいたのか?」
「はい、だいぶ教わったハズなんっすけど」
「しょうがねぇよ。横からと正面じゃ印象違うし、解析したら耳の形が潰れちまうもんな」
「……」
太ろうが痩せようが、人の耳の形だけは変わらない。耳の形は曲線や突起、大きさ等が人それぞれ違うことから、耳輪と呼ばれ、指紋や声紋に並び個人を特定するには有効なものとなるのだ。特に外耳の周辺部の内側で丸まっている部分は、個人の特徴が顕著にあらわれる。
逮捕状の発せられている被疑者を追いかける際、勇刀は耳輪と目だけは覚えておけ、と。それこそ耳にタコができるほど教わった。勇刀はその教えどおり耳の形を頭に叩き込もうとしたのだが。
元来の画像は小さすぎて耳輪の特徴が掴めず、拡大した解析後の画像は潰れてその体をなさない。結局勇刀は、印象的な長い髪を追うしか術がない状況に陥っていた。
「ま、なんか分かったら教えてくれ」
「はい!」
遠野は緒方の頭を軽く叩くと、ポケットの中で震えるスマホを手に執務室を後にした。その姿が消えるを見届けて、勇刀は執務椅子に座ったまま床を蹴る。執務椅子の小さな車輪がゴロゴロとフル回転して、勇刀の体はあっという間に市川の前に移動した。
「市川さん、今日顔色いいっすね」
満面の笑みで市川の机に頬杖をついて、勇刀は言った。そんな勇刀を、市川は鋭い目つきで一瞥した。
「……久しぶりに、よく寝たので」
昨日、笑ってくれたのに、と少し残念に思ったが。残念な気持ちを顔色には出さず、勇刀は市川を窺うように覗き込んだ。
一方市川は、その真っ直ぐな邪推の感じられない視線に居心地の悪さを感じていた。意図せず笑ってしまったが故に、勇刀が市川に対して距離を縮めて来るのは致し方ない。そういう感情を抱くのは妥当である、しかし。市川には事件以降広くなったパーソナルスペースに、踏み込んでほしくはなかったのだ。
「ぐっすり眠れてよかったっすね」
「……」
「いつも、ほら。ここんとこ。うっすらとクマがあったんで」
(やっぱり、よく見てるな)
勇刀の他意のない言葉に、市川は感心すると同時に口をつぐむ。勇刀と別れて、いつの間にか深い眠りに落ちていた市川。深い眠りからいきなり目が覚め、飛び起きた市川はあたりを見渡した。見覚えのある自室の風景に安堵する。同時に息を乱した市川が確認した時刻は午前三時半。記憶を反芻すれど、車に乗り込んでから目覚めるまでの記憶がすっぽりと抜け落ちている。初めてのことではない。だから、荒い自らの呼吸が余計に心を不安定にさせた。市川は大きくため息をついて、頭を抱える。
事件以降、市川の記憶は度々抜け落ちる。日中の仕事をしている時の記憶は鮮明に、頭のメモリに刻まれているのに。それ以外の記憶は驚くほど曖昧だ。事件以降といっても、事件の記憶すら、市川は正確に思い出せないでいるのに。重要なことであるにも拘らず、思い出そうとしても、頭の中のメモリが壊れたパソコンのように突然真っ暗になる。
微かに残る霜村の声と、体に鮮明に刻まれてる傷。そして残像のように残るアイツの声が、市川の曖昧な記憶を塗り潰して支配する。
体に残る中途半端な記憶は、現実と夢の間を漂う市川を余計に苦しめるのだ。
「市川さん、今日、昼飯一緒に行きません?」
「……いえ、結構です」
「向かいのビルの〝牛ちゃん〟行ったことあります?」
「弟が弁当を……持たせてくれているので」
「えぇ!? マジっすか!?」
市川の言葉に、勇刀は椅子から転げ落ちそうになるくらい驚いた。
「弟さん、パネェっすね」
「私は何もできない人間なんです」
「え?」
「日常生活に支障をきたしてしまうほどに、何もできないんです」
「……」
いきなりの市川の告白に、勇刀は椅子の上でバランスを崩したまま、その声に聞き入ってしまった。
「いつ寝たかも、いつ帰ったかも定かじゃない。自分でも驚くほど、記憶が欠如している」
「市川……さん」
「弟に頼らねば、私は生きていけない」
「……そんな」
「だから、私に何を聞いても、何を見せても無駄ですよ」
「……」
「先程の人物なんて、思い出せるはずもない。私の頭の中は真っ暗なんですから」
見すかされた、と。勇刀は息を呑んだ。単純といえば単純なのだが。昼飯に誘って市川の内部にさらに踏み込もうとしていた勇刀の腹づもりは、最も《いと》簡単に市川によって見透かされていた。昨日のあの笑顔を見た、笑い声を聞いた瞬間。勇刀は市川の内側に一歩近づいたと確信していた。それだけに、市川の口から紡がれる告白が想像以上に衝撃だった。
「一所懸命、任務を全うしようとしているのに……。悪いな、緒方警部補」
市川はそう言うと、昨日とは違う悲しげな笑顔を勇刀に向ける。その笑顔に、勇刀は言葉が出ないくらい胸が痛く苦しくなった。
「……すぎ……です」
辛うじて、発せられた勇刀の声。勇刀は腹を括った。丹田に力を入れ、なるべく柔和な表情で市川に向き直る。
「弟さんを縛ってるなんて、かいかぶりすぎですよ、市川さん」
「……何故、そう思う?」
「昨日の弟さん見てたら分かります。そんな風に自己否定してるのは、市川さんだけですよ」
勇刀は机の上で硬く握りしめらた手に、そっと自分の手を重ねる。その手のあたたかさに、市川は思わず勇刀を見つめ返した。陽哉とは違うものを感じて、真っ直ぐな目を見てはいけないのに。市川は吸い込まれるような勇刀の眼差しから、自らの目を逸らすことができなくなっていた。
「大丈夫です。少しずつ、考えましょう。思い出しましょう。無理強いはしませんから」
「……」
「昨日みたいに笑って欲しいです、俺、市川さんに」
「緒方……警部補」
「弟さんも俺と同じ気持ちなはずですよ、きっと」
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