3ー3 希望
「お取り込み中悪いんだけど。市川、指紋くれよ」
勇刀の背後からイヤに明るい声が響く。聞き覚えのないその声に、勇刀は執務椅子ごと振り返った。
明るい、目に眩しい鑑識独特の青い作業服を着た男が、なんの遠慮もなしに、執務室をヅカヅカと入ってくる。その後ろに何故か特別専従捜査室の稲本がいて、執務室出入り口ど真ん中に立ち尽くしていた。鑑識の男に隠れるように立つ稲本は、勇刀と目が合うと慌てたように口をパクパクさせている。
「稲本? なんだ?」
稲本の言わんとしていることが全く意に介せず。なんとなく空気だけ察した勇刀は、執務椅子から立ち上がった。そして、市川に一番近い場所を鑑識の男に譲る。
「……右手は無理だ。
「左手だけでいいよ。このバカが市川のデータ消しちまってさ」
切田と呼ばれた男はうんざりした表情をすると、親指を立ててその背後にいる稲本を指した。指された蛇に睨まれた蛙のように、稲本は真っ青な顔をして「ヒッ」と小さく悲鳴をあげる。不摂生が祟りがちな緩めの体を俊敏に動かし、勇刀の腕にしがみついた。
そんな稲本を一瞥した切田は、市川と勇刀の間に割って入り徐に黒い鞄を机の上に置く。勇刀はその存在感ある鞄に目を見張った。
(鑑識鞄だ……すごい使い込んでる)
切田は鞄の留め金を慣れた手つきで外すと、中から手のひらより大きな指紋採取インクと紙を取り出す。繊細な手つきでラテックスの手袋を嵌めると、市川の左手首を掴んだ。机の上に置いた固形化インクを、その示指の指紋に無駄なくつけていく。迷いのない切田の滑らかな動作。勇刀はその一連の動きから、目が離せなくなった。
示指、中指と。そして、平面指紋を母趾まで採ると、今度はインクの上で指を回転させて、また示指から順番に回転指紋を採取する。浮かび上がる指紋の波。勇刀は引っ付く稲本を払うことすら忘れ、その様子をジッと眺めていた。
指紋はその紋様から、弓状紋、
切田と市川は、特に言葉を交わすことなく淡々と作業をこなしていく。無言でシャツを肘まで捲り上げた市川は、手のひらをインクに押さえつけると指を開いて紙の上にそっと置いた。
その瞬間、勇刀はハッと息をのんだ。市川の腕に残る無数の傷。コールドケースのあの箱を開かなくとも、鋭利な刃物で傷つけられたと容易に推測できる傷跡。前もって予備知識があったからこそ、そこまで動揺せずにいられたのかもしれない。勇刀は自分の腕の腕が異様に熱いとようやく気づき、しがみついて離れない稲本をようやく振り解いた。
(なんなんだよ、稲本)
という思いをのせ、稲本を一瞥する。勇刀の思いを察してはいるものの、稲本は相変わらず何か言いたげに口をパクパクさせてなかなか稲本の思いが伝わらない。
稲本は伝言ゲームが苦手なタイプかも、と。勇刀は稲本のそれにあえてそれ以上は反応をしなかった。
なぜなら、傷跡をみた瞬間の、勇刀の胸中に僅かに生じた動揺。そしてコールドケースを勝手に見たという事実が、些細な事から露見してしまいそうで。市川に悟られてはならない思ったからだ。
切田はそんな二人にむかって微かに笑う。
(緊張感ないヤツらって、思われてんな。多分)
切田の含み笑いに、思わず苦笑いする勇刀のそばから。切田は市川の手の上に自分の手を重ね、グッと紙に押し付けた。
「右手は、本当に大丈夫なのか?」
紙からそっと左手を離し、市川は包帯がまかれた痛々しい右手をウェットティッシュに伸ばす。だいぶ黒く汚れた手を、自由の利かない右手で拭きながら、市川は口を開いた。
「右手のデータはなんとか無事だったからな。全く、肝が冷えたよ、本当。でも、ちゃんと採り直したいから、右手の指掌紋はその怪我が、治ったらまた貰いにくるよ」
市川の右手からウェットティッシュを奪い取った切田は、市川の左手を包み込むように支える。そして、相変わらず繊細な手つきで、丁寧に市川の掌紋に残るインクを拭き取った。
「悪いな、切田」
「遠慮すんなって、市川。腐っても同期だろ?」
「すまない」
「今度メシでも行こうぜ。都合の良い日教えてくれよ」
「そうだな。落ち着いたら、また連絡する」
「んじゃ、またな」
そう軽く返事をした切田は、指紋・掌紋が綺麗に浮き出た用紙を丁寧にファイリングして、几帳面に黒い鞄の中に仕舞い込む。
(すっげぇ綺麗な手、してんだな……)
背は勇刀と変わらないくらい高い。バランスのいい体つきをしているのに、鑑識作業をする切田の手は細く繊細な感じに見えた。市川の傷だらけの手を見た後だからと言えばそうかもしれないが。繊細な手付きで証拠を丁寧に一つ残らず採取する、事件現場にいる切田の姿を容易に想像するできた。
振り向きざま、切田は勇刀に向かって笑うと肩に深く手を乗せた。ずしりと、重さを感じたその瞬間。耳元に近づく切田の声に、勇刀は一気に血の気が引いた。
「特専室に鼠がでたそうだ。気を付けないとなぁ」
「!?」
体中の血液は足元にあるのに、心臓の音はとても強く鼓動する。勇刀は反射的に切田を見た。余裕あり気な、なんでも見透かしているような切田の表情に、勇刀はさらに息を詰まらる。勇刀の後ろで「だからさっきからバレた、って言ってんじゃん!」とでも言いたげな、じっとりとした視線を稲本が勇刀に投げつけた。
(ワザと、か……。指掌紋がダメになったって言って、俺を牽制にきたんだ)
特別専従捜査室内に保管されているコールドケースを閲覧することは、基本、専従捜査員しかできない。勇刀が市川の事件を調べたことは、全くもってイレギュラーなことだ。稲本と勇刀だけの秘密であるべき事項であったはずだ。切田がどういう手を使ったか不明だが、切田の知るところとなったのだろう。プレッシャーに弱い稲本があっさりと陥落したに違いない。そして「余計なことには、首を突っ込むな。ひよっこ」と言わんばかりの圧を勇刀に残す。勇刀は、執務室を出て行く切田の姿と小さく身を縮こませる稲本を無言で見送った。
切田の圧が視線が、まだ勇刀にまとわりついているように思えて、勇刀は頭を勢いよく横に振る。
「緒方警部補、どうしました?」
「い、いえ! 別に」
市川は明らかに不自然な勇刀を、いつもの視線で一瞥した。あからさまに視線を逸らした市川は、捲り上げたシャツの袖を自由のきかない右手で戻す。
「やりますよ、市川さん!」
「お願いできますか? 緒方警部補」
先ほどの切田の繊細な手つき、とはいかないまでも。勇刀は丁寧にシャツを手首まで下ろした。間近で見るとより鮮明に残る傷跡。その傷が胸に張り付きジワジワと浸食するような、痛覚が勇刀の感覚に強く響くのを覚えた。
「ありがとうございます」
「いえ、こんなことくらい。おやすい御用っす」
「……」
「また気にしてる!」
明るく放つ勇刀の声に、市川はハッとして顔を上げた。無意識に下を向く。何もできない自分に腹が立ち、腹が立つのに感情すら動かす気力も湧かない。泥の中に深く沈む。暗闇で微睡む市川を、勇刀はいつも引き上げてくれる。その度に、自分はまだ前に進めるかもしれない、という僅かな希望が湧いてくるのだ。
✳︎ ✳︎ ✳︎
『警察は、個人の生命、身体及び財産を保護し、公共の安全と秩序を維持するという責務を担っている。この崇高な責務を全うするため、われわれ警察官は、次に揚げるところを信条として職務に精励し、国民の信頼と期待に応えなければならない』
警察官の制服に袖を通したその日から、制服の重み以上に重圧と責任がのしかかる。
警察官は採用されたのち、数か月の間、警察学校に入校する。警察学校は学校教育法上の学校ではない。あくまで警察組織内の教養施設だ。数か月にわたる全寮制での共同生活では「教場」と呼ばれるクラスで教官から、警察官として必要な教養・訓練を受けるのだ。慣れない生活で苦楽を共にする同期と呼ばれる仲間とは、ここで深い絆を育み結束していく。
市川と霜村、そして切田の三人は同じ年に拝命を受け、寮で同室となった同期生だ。
入校初日、寮の部屋の前にして市川は足がすくんでいた。
真ん中に共同スペースがあり、それを取り囲むように設置された寮の四つの個室。個室とはいえ薄い壁一枚で隔たれた圧迫感のある狭い部屋は、初めて足を踏み入れた世界に緊張する市川の気持ちを余計に助長させた。
「よお! 同じ部屋だったんだな!」
滝のように押し寄せる明るい声と同時に、肩を強めに叩かれた市川は、驚いて振り返る。
「あんた、一番の人だろ?」
「……」
「俺、霜村。
一方的に捲し立てる霜村という同室の男は、屈託なく笑う。
徐に〝一番の人〟と言われ、市川は少しムッとした。たかだか採用試験で一番だった、そしてたまたま入校生代表挨拶を仰せつかった、それだけ。
順番なんて、すぐに関係なくなると思っていただけに、目の前でニヤニヤ笑う霜村は、市川にとってかなり印象の悪いものだった。
「怖い顔すんなって!」
「……」
「これから一緒に頑張ろうぜ!」
「……」
「てか、さ! 実は、俺もかなり緊張してんだよなー」
そう言って途端に眉尻を下げ、頼りなく笑う霜村に市川は面食らった。緩んだ緊張のせいかなんとも言えないおかしさが、市川の腹の底から込み上げてくる。
「あはは」
「んもう……笑うなよー」
恥ずかしそうに苦笑いをする霜村に、市川は右手を差し出した。
「
「よろしく」
市川の右手に自らの手を重ねて、霜村は力を入れてグッと握る。
(これからの……多分、一生付き合っていくような、そんな存在になるんだろうな)
と漠然として、それでいて得体の知れない力強い希望。市川は微かに残る冷たい緊張感が、サッと溶けるのを感じていた。
「あ、もう仲良くなってやんの! ずりィ!」
市川と霜村が固く挨拶を交わした背後で、一際大きな荷物を背負った男が声を上げた。男は荷物を床に投げると、市川と霜村に近づいてくる。
「俺、
ワザとらしく額に手を添え、不恰好な敬礼をした切田の姿に、二人は堪らず笑い出した。
警察官の制服に袖を通したその日から、制服の重み以上にのしかかる重圧と責任。胸に湧き上がる不安も苦しみもすべて、希望という名の未来に変わる。市川も霜村も、そして切田も。互いが抱く希望に目を細めて笑いあった。
✳︎ ✳︎ ✳︎
「希望か……」
いつの間にか、抱いた希望は。野心や向上心に変わった。歳をとるにつれ、キャリアを重ねるにつれ。警察学校で抱いていた、青臭い希望は鈍く輝きを失っていく。
ため息混じりに「希望」という言葉を口にした市川は。ソファーの背もたれに体重をあずけ、天を仰いだ。リフレッシュコーナーで缶コーヒーを口にしながら、市川は警察学校での記憶を反芻していた。
霜村は刑事を、切田は鑑識を。
市川はなかなか希望する部門を決められずにいた。そんな自分を霜村と切田は、笑いながら「優柔不断!」とどやしてくる。そんな些細で幸せだった瞬間を、市川は思い出していた。
(一生付き合っていくような、そんな存在には、なれなかったな……)
霜村の屈託のない明るい笑顔が、脳裏に浮かび上がる。
「ッ!」
市川は、吹っ切るように缶コーヒーを一気に飲み干した。霜村の明るい笑顔を思い出す度に、胸が締め付けられるように苦しくなる。最後に聞いた霜村の切羽詰まった声が、耳にこびりつき、事件後病院のベッドで見せられた霜村の遺体の写真が瞼に焼き付いて離れない。それが霜村との大切な記憶をも、全部飲み込んでしまうのだ。
「今、何時だ?」
長居した、と。市川は腕時計に視線を落とした。腕時計の時刻は、午後八時を回ってる。ため息と同時に、机の隅に積み上がった国費関係の旅費の存在を思い出した。なるべく早く片付けるべく、市川は身を投げ出していた体をゆっくりとソファーから剥がした。
「ッ!?」
瞬間、市川は背後から口を塞がれた。鼻をつく刺激臭に瞬時に息を止める。背中に小さな硬い突起物があたり、咄嗟に最悪の事態を想像した市川の血の気がサッと引いた。
(拙い! 早く解かなければ!!)
市川は口を塞ぐ手に自らの爪を食い込ませると、背後にいる人物から逃れようと体を捻る。
「暴れないでよ、市川さん」
「ッ!!」
その言葉が、市川の体に残る最悪な記憶を揺さぶった。
(アイツ……!! アイツがッ!!)
朦朧とし始めた意識を奮い立たせるように、肺に残された僅かな空気を利用する。市川は背後の人物の足を渾身の力を持って踵で踏みつけた。
「暴れないでってば」
--パスッ!!
背中に押しつけられた硬い突起物から、熱い小さな塊が噴出して市川の背中を貫く。
「ッ!!」
衝撃に体を仰け反らせた市川から力が抜け、同時に刺激臭が鼻腔から侵入する。
--同じ轍を、踏んでしまった……!
深く落ちていく意識の中、市川の脳裏には何故か。屈託ななく笑う、勇刀の真っ直ぐな眼差しが浮かんだ。
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