3ー1 朗色

「市川さん、鞄持ちます!」

 勇刀が放った一言。市川は目眩がした。

(こいつは疲労とか挫折とか、そういう言葉を知らないのではないのか?)

 と、市川が本気で思ってしまうほど。市川の目の前には、一日中容疑者の行動確認をしていたとは思えないほど、晴れやかな勇刀の顔があった。市川の左手から鞄を奪った勇刀は、複雑な感情を露わにした鞄の持ち主の隣を歩き出す。

「……返してくれませんか?」

「いやいや、市川さん。遠慮しないでくださいって!! 手ェ怪我してんじゃないですか」

 勇刀に指摘された市川は、不機嫌な顔をして勇刀の死角に右手を後ろに隠した。指先に仰々しく巻かれた白い包帯は、市川の手の傷の深さを物語る。

 市川に届いたあの封筒。鑑識に回しても、関係者以外の指紋は出てこなかった。ご丁寧に後納郵便の印を付されたそれは、犯人が作成し警察本部の郵便受に直接投函されていたらしい。サイバー犯罪対策課では、警察本部内の監視カメラや周辺の防犯カメラの画像を収集し、その解析が急ピッチで行われている。

 自分が引き金となった事由。捜査員一丸となって対応している最中、足手まといになるとわかっていながらも、一人帰るのは忍びない。そう思っていた市川の胸中を察したのか、はたまた遠野に言われたのか。勇刀が帰庁する市川にピッタリとついてくる。その行動が、一人になりたかった市川をさらにウンザリさせた。

 なぜなら……。

「……仕事しなくて、いいんですか?」

「あ、全然平気っす」

「……」

「もう! 痩せ我慢なんて、しないでくださいって〜」

「私こそ平気です。緒方警部補、そもそも帰り同じじゃないですよね?」

「送りますよ。そんな手じゃバスの吊革、握れないでしょ? 俺に捕まっていいですから」

「……それ、本気で言ってるんですか?」

「本気も本気! 俺、いつだって本気ですから!」

「……」

「本気すぎて、空回りちゃうんっすけどねぇ。この間の捜査費みたいに」

「……」

「いやぁ、勉強になりました!」

 これでもかというくらい、市川に浴びせられる勇刀のマシンガントーク。止まることも、終わることも想像できない勇刀のそれに、市川は眉間が痛くなるのを感じた。

「あ、そうだ! ついでに飯食って帰りません?」

「行きません」

「そんな即答しないでくださいよ〜。そんな手じゃご飯作れないっすよね? 俺、作りましょうか?」

「結構です。大丈夫です」

「そんな遠慮しなくても……」

「弟がいますから」

「え?」

「弟が迎えに来てくれますから、ご心配なく」

「……弟さん、いらっしゃるんっすか?」

「はい」

「え? 似てます? 顔とか性格とか?」

「……どうして、聞くんです?」

「いや、市川さんイケメンだから、弟さんもそうなのかなぁって。単に興味が湧いただけです」

「……」

「ちなみに俺は姉貴がいるんっすけど、二人とも笑っちまうくらい親父似で! めっちゃ似てんですよねぇ。〝同じ顔〜〟ってよくネタにされちゃうんっす」

「おしゃべりも……」

「へ?」

「おしゃべりなところも、似てるんですか?」

「まぁ、そうっすねぇ。保育士してるからだいたいは、しゃべってます!」

「……私はおしゃべりは、あまり好きではありません」

「え?」

 市川は静かに言うと、少し背の高い勇刀を下から睨んだ。その気迫に、さすがの勇刀も口を閉じ、半歩後ろに身を引いた。慣れてきたとはいえ、市川の他を寄せ付けない迫力に、勇刀も一瞬身構えてしまう。

「放っておいてください。私に関わらないで」

「……」

「鞄、返してください」

 今度ばかりは諦めるだろう。そう踏んだ市川は、左手を勇刀に向かって差し出した。

「……市川さん、剣道選択してますか?」

「はぁ?」

 想像だにしなかった突拍子もない勇刀の質問に差し出した左手を思わず引っ込めてしまうほど、市川は狼狽した。

「いやぁ、真剣な目つき! カッコいいっすねぇ!」

「……」

「俺柔道選択してんっすけど。柔道じゃこれだけの気迫、出せないっすよ!」

 あっけらかんと違う話題に全振りして、なおも上機嫌に笑う勇刀。そんな勇刀に市川は思わず、一緒に魂が溢れ出そうなくらい深いため息を吐く。

(暖簾に腕押し、ってこういうこと言うんだろうな……)

 何をいっても、何をしても。市川の想像を上回る勇刀の言動。市川は何故か、無性におかしくなってしまった。

「ははは……ははは」

「!?」

 突然笑い出した市川に、今度は勇刀が魂をもっていかれそうになるくらい驚いて言葉を失う。

「緒方警部補、面白いですね」

「市川さん……」

 いきなり笑い出した市川をたまらず凝視する。何がそんなにウケたのかわからず、勇刀は目を何回か瞬かせて市川を見つめた。

「雪!」

 その時、二人の後方で、親しげに名前を呼ぶ声がした。振り返った先には、黒いスポーツカーと背の高い若い男がいて勇刀に向かって頭を下げる。

「陽」

 市川は短く答えると、勇刀の手から鞄をサッと取り返した。そして徐にその男に近づいていく。勇刀は慌てて市川の後を追った。

「あ、こんばんは。市川さんの……」

「はい。弟の陽哉はるなりです。いつも兄がお世話になっています」

「いえいえ、こちらこそ。市川さんには、めっちゃ世話になっていて」

 ひと気の少ない路上で大の大人が、交互に頭を下げる。その様子を見ていた市川は、陽哉に「陽、悪いな」とだけ告げて車に乗り込もうとした。咄嗟に、勇刀は市川の左腕を掴んだ。

「今度はなんなんですか? 緒方警部補」

「これ! この車!! スカイラインですよね!? 丸テールの!!」

 陽哉が乗ってきた旧式のスポーツカーに、勇刀は目を輝かせて飛びついた。

「よくご存知ですね」

 子どものように目を輝かせた勇刀に、市川にかわって陽哉が穏やかに答える。

「はい! 親父が乗ってたんです! 〝スカイラインは丸テールだ!!〟なんて言ってて」

「そうなんですか。実はこれ、僕も父親から譲り受けたものなんです」

「へぇ! すごいなぁ!」

「もうヴィンテージカーなんで……。車検や維持費が結構かかっちゃって」

「いいなぁ、また復刻してくんないかなぁ」

「緒方……さん、好きなんですね、車」

「まぁ、親父の受け売りですけど……」

 そう言うと、勇刀はいつものように頭を掻きながらはにかんで笑った。陽哉は勇刀に向かって微笑むと、助手席のドアを開けて市川に乗るように促す。何を言ってもとりつく島もなかった市川が、すんなりと憧れのスポーツカーに乗り込むのを見て、勇刀はなんだか複雑な気分を抱えてしまった。

「雪を……兄を送っていただいて、ありがとうございます」

「いえいえ! 送ったうちに入んないっす!」

「では、緒方さん。お気をつけて」

 陽哉はスマートに助手席のドアを閉めると、再びにこやかに勇刀を頭に下げた。そして滑り込むように運転席に消える。腹にドドドッとエンジン音を響かせたスポーツカーは、丸テールを赤く光らせ、あっという間に去っていった。

「……すげぇなぁ」

 いきなり手持ち無沙汰になった勇刀は、はぁっとため息をつきながら夜空を見上げた。知らない市川が、どんどん見えてくる。それだけでも、何故だか嬉しくなった。

(初めて……笑った顔見たな)

 直線的でそれでいて触れるとその冷たい炎に、焼かれてしまいそうだった市川の感情。柔らかな感情を笑い声にのせて、楽しそうに笑う市川の表情が勇刀の脳裏に焼きついて離れない。市川が柔らかな感情を取り戻す、それが過去の事件に囚われがんじがらめになった市川を救う唯一の方法だと勇刀は思った。それには、どうしたら良いのか……。

「やっぱ、それしかないよなぁ!」

 星が遠く近く輝く夜空に向かって、勇刀は独り言を言うと。素早く踵を返す。そして、勢いよく警察本部の出入り口に向かって走っていった。


 警察本部の中のリフレッシュコーナー。遠野はそのソファに座り、缶コーヒーを口に運んだ。煙草を辞めてから、手放せなくなったコーヒー。遠野はため息をつきながら目の前のテーブルに視線を落とす。テーブルの上には一枚の写真。薄暗い蛍光灯に照らされたその写真には警察官の礼服に身を包んだ三人の警察官が写っていた。晴々とした笑顔の写真。呑気に歯など見せて笑う遠野の両側には、警察学校をまさに卒業したばかりの市川と霜村の姿があった。希望に溢れ、明るい笑顔をした二人の写真が、今やはるか昔の夢のように思えてくる。

 市川と霜村は新米の警察官。そして遠野は新米の教官。タイプは違えど、その期では群を抜いて優秀だった二人。遠野は市川と霜村を弟のようにかわいがっており、目をかけていたのだ。

 冷静で穏やかな市川と、活発で朗らかな霜村と。切磋琢磨し、お互いを高め合う二人の姿を昨日のことのように思い出す。写真に残された二人の笑顔を見ることは、もう二度叶わないのだ。そう思うと、胸に巣食うモヤモヤが気持ち悪いくらい大きくなっていく。湧きあがった気持ち悪さを拭うように、遠野はグッと缶コーヒーを飲み干した。

「あれ? 遠野係長、こんなとこで何やってんっすか?」

 目を瞑ってソファにもたれていた遠野は、その騒がしい声に片目を開けた。

「……なんで帰ってきてんだよ、緒方」

 市川を送ってくると言って、意気揚々で帰っていったはずの緒方が、いつもの表情でリフレッシュルームを覗いている。遠野は、呆れたように言葉を返した。

「いやぁ、市川さんの弟さんが迎えにきてて。御役御免になっちまって……」

「で? なんで帰ってきたんだ?」

「監視カメラの解析っす」

「……ワーカーホリックか、お前は」

「違います」

 嫌味として放った言葉をあっさり返された遠野は、体を起こして勇刀をまじまじと見た。ずいぶんと晴れやかな顔をした勇刀の表情に、遠野はしばらく言葉を失う。

「市川さんの笑った顔が見たいんです、俺」

「……」

「だから、ちゃんと犯人をあげて。早く市川さんを安心させてあげたいって思ったんです」

 真っ直ぐに、思ったことをストレートに伝える緒方の言葉にに遠野はハッとした。

 市川を守ると言いながら腫れ物として扱ってきてはいなかったか? 市川が笑顔をなくしたのは、仕方がないことだと思っていなかったか? 遠野は考えずにはいられなかった。もう一度、あの時の市川を取り戻せるのではないか、と。

 遠野はソファから立ち上がると、写真をそっとポケットに忍ばせた。そして、緒方の頭をポンと叩く。

「よし、やるか。緒方」

「はい!」

 遠野と勇刀は廊下を並んで歩き、執務室に向う。心なしか遠野の足取りは、のしかかった疲れが消えたように軽くなった。

 執務室に入ると、捜査員達が一つのディスプレイに集まって食い入るように画面を見つめている。微かな異変を感じて、勇刀は自分の手先が冷たくなるの感じた。

「どうした」

「遠野係長……特定はできたのですが……」

 振り向いた一人の捜査員が困惑した顔で、遠野の声に反応した。

 警察本部の郵便受けは、裏口近くに設置されて各課毎に区分されている。そこを映し出す監視カメラに、一人の人物がクローズアップされ映し出されていた。再生と逆再生が繰り返される画面。その人物が郵便受けを出たり入ったりする場面が延々に流れている。黒い服に、黒いマスク。目深に黒いキャップを被り、ざっくりとした大きな上着を着たその人物の画像が、再生を繰り返すうちに次第に鮮明になっていった。

「解析、これが限界です」

「え!?」

 勇刀は思わず声を上げた。画面が鮮明になるにつれ、一つに束ねられた黒く艶やかな髪がはっきりと映し出される。その場にいた一同がハッと息を呑んだ。

「……女? 女なのか!?」

 勇刀はたまらず呟いた。しかし呟いた自身の言葉に、勇刀本人ですら激しく違和感を覚えていた。

 静まり返る執務室に響いた勇刀の声。誰もがその声に頭の中で、同じく異を唱えていたのだ。目の前の事象が真実であっても、それが真実とは限らない。真実は真実を語らない。何方向にも伸びる目に見えぬ線は、複雑に絡まって真実を隠す。勇刀はゴクリと喉をならした。市川を苦しめる事件の全容は、未だ解決の糸口すら見出すことができなかったのだ。


 一方、市川は陽哉の運転するスポーツカーのエンジン音に、静かに耳を傾けていた。シートに寄りかかるようにゆったりと座った市川に、陽哉は視線をたびたび投げながら口を開く。

「笑った顔、久しぶりに見た」

「……そんなこと、ないだろ」

「あの人、なんだか似てるね」

「……誰に?」

 面前の信号が赤に変わり、陽哉はゆっくりとブレーキを踏むとにっこり笑って市川の顔を覗きこんだ。

「霜村さんに」

「似てないよ」

「似てるよ」

「馬鹿なことを言うなよ、陽。……霜村にも、緒方にも失礼だ」

「そうかな」

 信号が青にかわり、陽哉はギアをシフトチェンジしながら次第に加速する。陽哉は正直、複雑な気持ちだった。実弟である自分ですら、兄の笑顔を暫く見たことがない。市川を迎えにいって、偶然見かけた兄の笑顔。陽哉は嬉しい反面、その原因の緒方に少し嫉妬していた。

「変わったヤツだよ、本当」

 そう言うと市川は、シートに深く体を沈めて目を瞑る。

「雪、ご飯は?」

「うん……疲れたから、いらないかな」

「ちゃんと食べなきゃダメだよ」

「うん、わかってるよ」

「食べないなら一口、これ飲んで」

 陽哉は目の前の信号が赤に変わったタイミングで、小さな水筒を鞄から取り出し、市川に渡す。

「スープ作ったから、これ飲んでよ」

「……ありがとう、陽」

 市川は申し訳なさ気に言うと、水筒の中身をゆっくりと口に運んだ。あたたかく、まろやかな味がスッと体に染み渡り。市川はもう一口、ゴクリとスープを体に入れた。

「家に着くまで寝ときなよ、起こしてあげるから」

「うん……少し……よこ、に」

 パチンと水筒のロックがかかったと同時に、市川の手からスルッと水筒が抜け落ちる。カランと音を立てて、市川の足にあたる水筒。市川は気にもしない様子で、一瞬にして深く目を閉じた。

「こうでもしなきゃ、絶対に寝られないでしょ。特に今日は」

 陽哉は小さく言うと、包帯に巻かれた市川の右手にソッと手を添える。

 仲は良かったはずなんだ。陽哉はグッと唇を噛み締めた。穏やかで優しい兄は、あの事件以降、すっかりかわってしまった。陽哉はずっとやりきれない思いを抱えていたのだ。だから、あの時。自分に向けられるであろう市川の笑顔が、赤の他人に向けられていたから……。

 雪は親指の爪を噛みながら、市川を哀し気に見つめて呟いた。

「ねぇ、雪。いつになったら、僕に笑ってくれるの? 雪」

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