2ー3 纏繞
「これは、なんですか?」
机の上に無造作に置かれた紙袋は、ほんのりと暖かい。怪訝な顔をした市川は、紙袋の下敷きになった書類を慌てて引き抜いた。結構な重量のしっとりとした紙袋は、危うく大事な書類を潤かして破くところだった。
「今川焼ですよ、市川さん!!」
そんな市川とは対照的に。上機嫌な顔をした勇刀は、ニコニコと返答する。
「それは、紙袋を見たら分かります」
「市川さんは、白餡派っすか? 黒餡派っすか?」
「いや、だから」
「俺、白餡派なんっすよねぇ!」
「どうして、こんなのを持ってくるんですか!?」
めずらしく語尾を強めに発した市川は、紙袋を握って勇刀の胸に押し付けた。
「一緒に、食べませんか?」
「は?」
「この間、調書の添削をしてもらったお礼も兼ねてですよ。甘いものは頭のリフレッシュにもいいんっすよ」
「……」
「まぁ、親父の受け売りですけど」
押し返された紙袋受け取った勇刀は、相変わらずニコニコしながら紙袋の中身を取り出して包みを広げる。
「なんで、今、開けるんだ」
「ここの! 柳屋っていうんですけど、めっちゃ美味いんですよね〜」
「……」
「あ、こっちが黒餡っすね! 俺、今川焼の中身を見ないで見分けられるんです! すごくないっすか!?」
「……」
ニコニコしたまま、勇刀は器用に黒餡と予想した今川焼を紙に包むと市川に差し出した。ずいっと、市川の胸元に押しつけられる今川焼。今にも落ちそうに目の前でバランス悪く揺れる今川焼を、市川は思わず両手で支える。相変わらず上機嫌の勇刀はにっこりと笑って、今川焼を一つ手にとり頬張った。
「あ!!」
「どうしましたか?」
「これ、黒餡でした!!」
「……」
「市川さんの方が、白餡かもです」
「……」
「なんか。カン、鈍っちまったみたいっすね」
勇刀は苦笑いしながら、ふた口で今川焼を腹におさめる。
「あ、俺。行確(行動確認)に行かなきゃなんないんだった! では、また何か美味いの買ってきますね!」
「何が、目的ですか?」
今川焼を両手で支えたまま、市川は鋭い目つきで勇刀に言葉を投げつけた。
〝土足で……踏み込むな!!〟と言わんばかりな、圧のある市川の言葉。勇刀はそんな言葉を気にもしない様子で、二個目の今川焼を手にとり口に放り込んだ。
「目的ではないですが、目標はありますよ」
「目標?」
「サイバーの研修が終了するまでに俺、市川さんに気に入られてみせますから!」
「は?」
「んじゃ市川さん! 行ってきます!」
「あ、緒方警部補!! これッ!!」
嵐のように市川の前に現れて、ぐちゃぐちゃに引っかきまわして去っていく。勇刀が残したほんのりとあたたかい今川焼と疑問は、めずらしく市川を動揺させた。
(まったく、調子が狂うんだけど……)
ふぅ、と一つ息を吐いた。市川は、強引に手に持たされた今川焼を包みの上に置いた。あまり踏み込んで欲しくないのは、市川のあからさまな態度でわかっているはずなのに。あからさまに拒絶した態度は、恐らく馬鹿でもわかるはずなのに、と。ため息をつきながら市川は、かろうじて退避させた書類を、再び目の前に広げた。
「お、美味そうだな。今川焼」
目の前の机に広げっぱなしとなった今川焼に、四十代後半の男性が目尻を下げて近づいてきた。
「高藤課長。甘いのはお好きですか?」
「甘いものは昔から大好物なんだよ。あまり食べすぎると、妻や保健師、まぁ色んなところから怒られてしまうけど」
「おひとつなら、大丈夫ですか?」
「一つなら大丈夫かな?」
高藤晋作サイバー犯罪対策課長。県警本部の課長という立場にいるにも拘らず、気さくな雰囲気を纏う高藤は「本当に、いいのか?」と嬉しそうに言って。今川焼を念入りに見定めて手に取る。
「こっちが白餡だな」
「え?」
「今川焼の中身を見なくても、白餡か黒餡がわかるんだよ」
「課長もですか」
「ん?」
「さっき緒方も同じことを、言っていたものですから」
「あぁ、緒方さんの息子だからなぁ」
「?」
「緒方の父親も、警察官だったんだよ」
課長はひと口今川焼を齧ると、笑顔で残りの今川焼を口の中に押し込んだ。
「だった、というと?」
「殉職されたんだよ」
「……殉職、ですか?」
「もう十五年、になるかなぁ。いい先輩だったよ」
「そうですか」
「緒方を見てると、ますます先輩の若い頃に似てきてるって思うよ」
「できれば、私も。そんな風に言われたかったです」
「市川?」
「あ、いや。なんでも、ありません」
「もう一つ貰っていい?」
「大丈夫ですか?」
「え?」
「その、奥様と保健師さんが」
「一個食べちまったから、二個も変わんないだろ」
「そうですか?」
「貰っていい?」
「どうぞ」
高藤は再び嬉しそうに笑うと、もう一度今川焼を見定めてまた一つ手に取った。
(つい、本音をいってしまいそうだった)
勇刀によって狂わされた調子のせいだろうか? それとも、昨日の記憶のせいだろうか? 胸の奥底に押し込んでいた本音が、市川の口から飛び出した。
できればあの時、あの事件で、霜村と同じ運命を辿りたかった。命を繋いでもらった日から、市川は何十回、何百回とそう思わない日はない。殉職したら、英雄のように語られる。しかし、生きているからこそ、記憶が残っているからこそ。その代償は大きかった。拳銃すら握れない。組織としても、組織を離れても。お荷物の存在でしかない。この場にこうして立っていることさえも苦しくなった。
(誰とも接触したくないのに)
誰も自分に触れて欲しくない一心から、市川は自分の感情を切り離した。何にも心を揺さぶられずに。変わったヤツだと思われていれば誰も市川の心を乱すこともない。関わりをもつこともない。自ら命を手放すことすらできなかった市川には、淡々と生きるしか……。そうするしか、生きていく手段がなかったのだ。
それなのに……あの特別研修生は。勇刀は、淡々とした市川のリズムを乱してくる。昨日もそうだ。市川の微かな変化を見逃さず、勇刀は真正面から感情を丸出しにぶつけてきた。
(突き放したのに……気に入られたいとか。何を考えてんだ、アイツは)
市川は包みに残された一つの今川焼に、視線を落としす。空気に触れるとすぐ固くなる今川焼を容易に想像してしまった市川は。今川焼を几帳面にくるくると紙に包むと、再び紙袋に放り込んだ。
(あれ? いつの間に?)
ふとその時、机の端に置かれた幾つかの封筒が市川の目に入った。誰かが市川の机に置いたのだろう。請求書や回答書、各種団体からの案内文が入った色とりどりの封筒の束が、机の隅に山積みになっていた。市川は無言で束を手に取ると、用務先ごとに封筒を選り分ける。その中に一通、差出人の記載されていない茶封筒があった。ラベルシールに宛名が記載された、どこにでも売っているような茶封筒。市川はため息をついてその封筒の端を手に持って、勢いよく開けた。
「ッ!!」
ポタ、ポタ--、と。赤い丸いシミが書類の上に落ちる。市川の指先から血が滴り、書類の上に段々とそのシミを広げていく。口の開いた封筒から転がり落ちる、刃先が赤く濡れたカッターナイフの刃。そして--。
「市川!! どうした!!」
市川の異変にいち早く気付いた高藤が、慌てた様子で駆け寄る。高藤はポケットからハンカチを取り出すと、市川の傷口を押さえた。
「……現れたみたいです」
「何が?」
「ヤツですよ」
市川が静かに視線を落とした方向、高藤はつられるようにその先に視線を落とした。市川の血のシミがついた書類の上に、写真が数枚散らばっている。その瞬間、高藤の血の気がサッと音を立てて引いた。
「た、田中!! 鑑識を呼べッ!! 早くッ!!」
いつも穏やかに、声を荒げることがない高藤が焦った様子で叫んだ。
高藤の声が発するただらぬ事態を捜査員が瞬時に察し、一気に課内が騒然とする。そんな中、市川は瞬きをすることなく、その写真を瞬きもせず見つめていた。体の中が記憶を呼び起こして、刻まれた無数の傷跡がキシキシと痛みを帯びて悲鳴をあげる。
写真には、市川の姿があった。遠くから、近くから。何パターンとなく被写体となった市川の写真。
周りの騒がしい声やバタバタとした足音が、市川の耳に途端に届かなくなった。そして、囁くようにあの声が、市川の耳にこだまする。
〝市川さーん、迎えに行くから。待っててね〟
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