第21話 変われないことの危険性

教職の授業で、教育と洗脳の類似点と相違点について考えたことがある。今日は、教育も広報も情報を扱うという意味では変わらない、という話を聞いた。


情報を効率的に伝えようとすると、人間の特性とか、メディアの特性とか、伝わりやすい環境とか、そういうものを考えて工夫をすることになる。それが洗脳につながると言われてしまうと、やるべきことを追求しただけであっても良い結果にたどり着かないことの怖さを感じ、同時に不満にも思う。

不満に思ってその後に、洗脳にならないように抑制的になる人もいる。自分を正当化して、これは洗脳ではない、と主張する人もいるだろう。もしかすると、集団になってしまうと自分たちは正しいという意識が強くなってしまうのかもしれないと思う。


匿名性とか集団性とかも同じだ。相手に対して自分の不満をぶつけるのに躊躇がなくなる。自分の要求は正しいとか、自分がしていることは相手を良くするための指摘だから相手が多少傷ついても構わないとか、他の人はしないけれどそれをする自分はかっこいいだとか、そんな風に感じているんじゃないだろうか。


人と人との関係で相手に何かを伝えるとき、相手がどう感じているかを気にするのが当たり前だと思っているのだけれど、どうも気にする度合いは人によって結構違いがあるみたいだ。

人によっては、自分の気持ちを伝えることは正しい、それで相手が傷つくとか成長するとかは相手の問題で自分に責任はない、といった感じで、目の前に人がいてもあまり気にしていなかったりする。相手が自分の上司かどうかくらいは考慮にいれるみたいだけど、そういう人のことは初めから「会話をする相手」と思ってなかったりして、どんな場面でも自分は思ったことを主張する、という自己認識でいる。本人は、自分が正しいという自信があって言っているのではないけれど、話が食い違ったときに自分の主張を曲げることは基本的にしない。間違っていた時には指摘してください、みたいなことを言うけれど、指摘しても受け入れないことがわかっているから周りもだんだん言わなくなる。

ある程度年齢を重ねてしまうと、こういう人は自分を変えることはできないんだろうなと思う。力のないうちは少し扱いにくい人で済むけれど、間違ってこういう人が権力を手にしてしまうと厄介だ。そういう人を評価してしまう組織の問題もあるのだろうけど、下手をするとパワハラ・セクハラを起こすことになるだろう。危険因子みたいなものは中高生くらいの頃にはもう見えてきている気もするのだけれど、どうしたらそういう人の考え方を変えることができるんだろう。

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