第17話 新しい時代の読解力

読解力について考えるとき、しばらく前の時代と現在求められているものは質が変わってきているように思う。漫画には漫画の文法があって経験がない人は読めない、なんてことも聞いたことがある。SNSのやりとりにも特殊な文法というか暗黙の了解があるような気がする。


漫画やSNSは社会生活を送るうえで、なくてもいいものとされている。つまり、学校でそれを教えるべきものではなく、個人の趣味の領域のものだから、興味のある人が自分でできるようになればよいということだ。

一方で、新たに学校で扱うとされるようになったものに、契約書などの実用文に関する読解力がある。論理的・実用的な文章を扱うこととされ、今まで載っていた小説が教科書からなくなる、などと話題になっている。批判をする人は、「学校で小説にふれる経験がなくなったら文化が廃れる」などということを言っているようだ。

教科書が配られたらすぐ小説に目を通したかったタイプの人たちは、そんなことを言われてもピンとこないのではないかと思う。別に高校の現代文の授業で夏目漱石の小説を読まなかったとしても、自分が読みたいものは自分で読むだろうと思うからだ。教科書くらいでしか縦書きの文章に触れる機会がなかった人も、学校で小説を読んだからと言ってそれが将来の読書経験につながるとは思わないだろう。たぶん問題は、小中学校くらいの段階で読書とどういう距離で過ごすかということの方にある。


ここ何年も気になっていたのは、ネット上で何かを申し込むときなどに読まされる文章が、「読まない」ことを前提として書かれているのではないかということ。個人情報の使用やら、利用規約やら、何ページにもわたる文章を提示されて、「了承しました」とチェックをつけるあれだ。対面で契約をするときにあんなものを出されたとしたら、手続きにかかる時間がたいへんなことになると思う。

あの形式に出会った初めの頃は、一字一句、それこそ入試問題を読むくらいのつもりで、しっかりと読もうとしていた。当時はまだ、ページ数的にももう少し少なかったと思う。それでも集中力が続かなくなりそうだった。読んでいて途中で意味がわからないということはなかったと思うけれど、読み終わってわかったことを再現しろと言われても何も出て来ないくらい、内容を咀嚼することは難しかった。いつからか、これは読んでも読まなくても、「読んだことにしたい」のだなと気付くようになり、だいたいいつも似たようなパターンだと信じて読み飛ばすようになった。

そういえば、最近は、きちんとファイルを開いて下までスクロールしないとチェックボックスがオンにできない仕組みのものもある。みんなが読んでいないことを認識してましたよね、と言われるとやっぱりまずいのかな。

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