第15話 新年の挨拶の変化とか

言葉が生まれて、文字が生まれて、人は伝えたいことを時間や空間を超えて伝えられるようになった。その時代のリテラシーは、文字が読めれば、ほぼ、伝えられるべきことが再現されていた、という前提で、文字の読み書きのことをいっていたのだろう。もちろん、話し言葉と書き言葉の違いとかで、直接話を聞いたら理解できるけれど、文字にされたものは解説されないとわからない、といったこともあったとは思う。そこは少し、外国語のような要素もあったかもしれない。


伝える手段が増えるにしたがって、その手段の中でルールやマナーが作られていく。手段の使い分けにもなんとなく常識ができあがっていく。情報を伝える伝え方で、伝わる内容に違いが生まれてくる。

ここがよくわからないところなのだけれど、手段そのものに意味づけをする力があるんだろうか、それとも、人が手段に意味づけをすることで違いが生まれてくるんだろうか。


新年に年が改まった挨拶をする、という文化がある。実際に会いに行くのか、初めて会った時がそのタイミングなのか、年賀状を送るのか、メールを送るのか、SNSに多数に向けた形で挨拶を掲載するのか、それぞれ受ける印象は違う。何もしない、という人もいるだろうけど、その選択をするのは何か信念がある人か、社会に適合できていない人か、という印象もある。

年賀状の文化が一般に広まり始めた頃は、本来は直接会いに行くべきところを簡略化して、という意味があったかもしれない。これはマナー的な立場から生まれている意味だろう。今の世の中で、メールを送るのとSNSに書くのとどちらを選ぶのかについてはどうだろう。どちらが失礼とかどちらがふさわしいとかいう議論はあまり聞かないような気がする。そうすると、その人がどういう狙いでどちらの手段を選ぶのか、というところに意味があるんだろうか。


自分自身が意味を読み取るとしたら、個人宛てに来るメールと全体向けに公開するSNSでは、受ける印象は違う。単純に考えると、個人宛てに来るものの方が自分のためと思えて嬉しく感じられる。ただし、一斉メールで送っているようなものであれば、それは仮に冒頭に宛て名が書いてあったとしても、メルマガと同じような印象で読み流してしまうかもしれない。一方で、一年間を振り返るような記事そのものは、楽しく読むことができる。SNSの書き込みも、個人サイトの記事も、少しちゃんとしたウェブメディアの記事も、年末年始の風物詩的なものとして同じような集合に入っている。

SNSの書き込みがこれらの中で少し異質なのは、読んだ人の返信をある程度期待しているところではないかと思う。年賀状だったら100通出して100人からもらってそれで終わり、というところが、1人の書き込みに100人ずつが返事をするのをまた他の人が目にする、となる。情報の矢印の数は変わらなくても、リアクションとしての矢印の数が増えているところが、負担が増えるように感じる。それを負担に感じないような人たちが、SNSで挨拶をしているのかもしれないんだけど。

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