第6話

 屋敷にやってきて一年が経ったある日のこと、アリスが皿を洗っていると、足元を黒い影が横切った。


「ひゃっ!」


 アリスはそれに驚き、うっかり皿を落としてしまう。パリーンと皿の割れる音が響き、割れた皿の破片を見た瞬間、アリスは村にいた頃のことを思い出した。


『ちょっと!何してるの!』


『お前は本当にドジだな!さっさと片付けろ!」


 アリスが何か失敗をすると、アリスの親戚は彼女を酷く責め立てた。クズ。のろま。役立たず。と。時には暴力を振るわれることもあった。


「大丈夫か?アリス」


 皿の割れた音を聞いて駆けつけてきたリリムの声を聞いた瞬間、アリスは反射的に頭を押さえてしゃがみ込んだ。そして怯えるように謝罪の言葉を繰り返す。


「お、おい。アリス」


「ごめんなさいリリム様。ごめんなさい。殴らないで……」


「こんなことで殴らないよ。大丈夫だから落ち着け」


「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」


「落ち着けって。ほら、大丈夫だから。おいで、アリス」


 リリムはアリスを落ち着かせるために抱き寄しめて「大丈夫だよ」と落ち着くまで何度も声をかけた。


「リリム様……怒らないのですか……?」


「皿を割られたぐらいで怒るほど器は狭くない。物なんて簡単に壊れるから気にするな。それより、怪我してないか?大丈夫?」


「……はい」


「そうか。なら良い。……お前はあたしの大事なだからな。傷がついて味が落ちたら困る。気をつけろよ」


「……はい。以後気をつけます」


「ん。よし。さぁ、仕事に戻りなさい」


「……すぐに片付けます」


「あぁ、待て、皿は片付けなくて良い。危ないから触るな」


 リリムは皿の破片を片付けようとするアリスを止めて、皿の破片に手をかざす。すると破片が集まり、皿は割れる前の状態に戻った。


「凄い……魔法ですか?初めて見ました」


「だろうな。ほとんど廃れたらしいからな」


「……私でも使えますか?」


「あぁ。今みたいな無属性の魔法は簡単だからちょっと練習すれば誰でもできるようになるよ。教えようか?今みたいに皿割った時とか気持ちも掃除も楽になるだろうし」


「是非!」


「ん。言語の勉強との両立は大変かもしれんが、頑張れよ」


「はい!私、たくさん魔法を覚えて、もっともっとリリム様のお役に立てるように頑張ります!」


 張り切るアリスを見て、リリムは苦笑いしながら「健気だなぁ」と呟いた。そして一瞬、彼女と一緒ならもう少し長生きしても良いかもしれないと考えかけたが、すぐにその考えを否定する。

 人はいつか死ぬ。それは神子であるアリスとて例外では無い。先延ばしすればするほど、死に対する躊躇いが生まれてしまうことをリリムは理解していた。

 

「……あの、リリム様」


「……ん?どうした。アリス」


「……私に出来ることがあったら、なんでもおっしゃってくださいね。私は貴女のためならなんだってします。貴女のためならこの命を捧げることだって……」


「……ありがとう。けど、死ねとは言わん。むしろ、死んでもらったら困る。元気に生きてくれ。二十歳になるその日まで」


「……はい」


「ん。……なぁ、アリス」


「はい」


「……」


 リリムは黙って、アリスの肩に頭を預ける。


「あ、あの……?」


「……ちょっと、甘えたい気分なんだ。抱きしめて」


「えっ。あ、は、はい。どうぞたくさん甘えてください」


 アリスは突然甘えられたことに戸惑いつつも、言われた通りリリムを抱きしめる。急にどうしたのだろうと思ったが、あえて聞かなかった。


「……優しいな。お前は」


「リリム様が優しいからですよ」


「あたしは優しくないよ」


「優しいです。さっきも、皿より私の心配をしてくださいました」


「……あたしは人の血を啜る化け物だよ」


「……でも、人を殺さないじゃ無いですか」


「殺すより、生かしておいた方が長く味わえるから。定期的に人間を補充してるのは、毎日同じ味だと飽きるから」


「……前にも言った気がしますが、化け物だったらきっと、涙を流したりしませんよ」


「……もう良いよ。それ以上優しい言葉をかけないでくれ。逆に辛くなるから」


「……はい。わかりました。では、黙りますね」


「……うん。……でも、ありがとね」


「……愛してます。リリム様」


「な、なんだよ急に。黙るって言ったろ」


「すみません。つい。……こんなこと言うと失礼かもしれませんが、弱っている貴女が可愛くて」


「可愛いってお前なぁ……」


「ふふ。リリム様は可愛らしいです」


「黙って」


「おや。照れていらっしゃるのですか?」


「生贄のくせに生意気だなお前」


「ふふ。すみません」


「全く。……ほんとに、お前と居ると調子が狂う……」


 アリスの心地良い鼓動を聴きながら、リリムは思った。この時が永遠に続けばいいのにと。

 しかし、リリムは知っている。終わりのない永久に続く人生が人を狂わせることを。不老不死に耐えられるほど人間の精神は強くないことを。

 リリムは最初、アリスを利用することしか考えていなかった。しかし、接するうちに、アリスを愛しく思うようになった。だからこそリリムは願う。彼女には、果てしなく続く生の苦しみや絶望を知らないまま人間として生を終えてほしいと。

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